第35話『冷たい決意』
夜の路地裏に漂っていた赤黒い霧は、やがて風に流されて薄れていった。
漆黒の鎧をまとった刺客《黒刃のヴァイス》は、最後に冷ややかな視線を残すと、影に溶けるように姿を消した。
アレクは膝をつき、荒い息を吐いていた。小さな体に溢れる力を無理やり引き出し、全身が悲鳴を上げている。
その隣で、レンは震える腕でミユを抱き寄せ、必死に落ち着かせようとしていた。ミユの頬には涙が伝い、だがその瞳はしっかりとアレクの背中を見ていた。
「……行ったか」
カズマが片手で額の汗を拭う。
ユウタも口元を引き結び、油断なく辺りを警戒していた。
「消えただけだ。仕留めたわけじゃない。次はもっと大きな手を打ってくる」
その時――。
「レン! アレク!」
鋭い声が響いた。
路地の入口に姿を現したのは、外套を翻したジンだった。
眼鏡の奥の瞳は氷のように冷たく光り、その手には呪具封じの符が握られている。
「……遅れてすまない」
低く抑えた声。だがその奥に、自らへの苛立ちと焦りが滲んでいた。
「お兄ちゃん!」
レンが立ち上がろうとするが、まだ足が震えてうまく動けない。
ジンは素早く駆け寄り、周囲に符を投げ放った。結界が張られ、残滓の霧が一気に清められていく。
「結界を張り直していたが……奴の幻影に足止めされた。通信も妨害されていたようだ。レンからの連絡が届いたのは、つい数分前だった」
「幻影……!」
アレクは歯噛みし、悔しげに顔を上げた。
「つまり、あの黒い鎧野郎をサポートするための……時間稼ぎか」
ジンは無言で頷くと、改めて一人ひとりを見回した。
擦り傷だらけのアレク、涙で顔を濡らしたミユ、必死に彼女を守ろうとしたレン、そして共に戦ったカズマとユウタ。
全員が限界ぎりぎりの中で立っている姿に、彼の胸の奥で何かが軋んだ。
「……全員、生きて帰ってきただけで充分だ」
小さく吐き出すように言う。
「遅ぇんだよ!」
アレクが声を荒げた。
「お前が来てりゃ、もうちょっと楽に終わったかもしれねぇだろ!」
「……かもしれないな」
ジンの返答は冷たく短い。だがその声音には、わずかな自嘲が混じっていた。
レンが慌ててアレクの肩を支え、間に入る。
「やめて! お兄ちゃんだって戦ってたんだよ! 遅れたのは仕方なかったんだから!」
「けどよ……!」
アレクは言いかけて、息を詰めた。視線の先に立つミユが、必死に首を振っていたからだ。
「アレク君……もういい。助かったんだから」
その一言に、アレクはようやく力を抜き、へたり込んだ。
ジンはふとレンに視線を向ける。
「……今回、狙われたのはレンだな」
「……うん……」
レンは小さく頷き、強がるように唇を結んだが、その指先は震えていた。
ジンは眼鏡を押し上げ、深く息を吐いた。
「次はもっと巧妙に来る。君自身も覚悟しておけ。……そのうえで、守るのは俺たちの役目だ」
その言葉は、厳しくもどこか温かさを含んでいた。
レンは目を潤ませ、アレクは悔しさと安堵を入り混ぜたように拳を握る。
カズマが空気を読んでわざと大げさに伸びをし、ユウタは「帰還後の報告は長くなりそうだ」と淡々と呟いた。
わずかな笑いがこぼれ、重苦しい緊張が少し和らぐ。
だがジンは心の奥で、静かに誓っていた。
(次は遅れない。たとえどんな幻影で惑わされようと――必ず、妹とこの子供たちを守り切る)
夜風が路地を吹き抜ける。
嵐の前の静けさのように。
呪具商人との戦いは、確実に次の段階へと進もうとしていた。




