第17話『兄の視点』
夜の水鏡屋。
レンはすでに寝室へと引き上げ、工房には静寂が広がっていた。
ミカガミ・ジンは机に積まれた書物を閉じ、深く息を吐いた。
ランプの灯が揺れ、眼鏡のレンズに冷たい光を宿す。
(……また、あのガキの周りで騒ぎが起きたか)
頭の中に、数時間前に妹から聞いた報告が鮮やかによみがえる。
小学校で《呪具カード》が暴走し、生徒が危うく取り込まれかけた。
混乱の渦中で立ち上がり、皆を救ったのは――アレクだった。
「……守った、か」
吐き出した言葉は、称賛というよりも苛立ちを帯びていた。
自分以外の誰かに妹の安堵や笑顔を与えられることが、胸の奥に重苦しい棘となって突き刺さる。
ジンは立ち上がり、工房の窓を押し開けた。
夜風が結界を揺らし、遠くで犬の鳴き声がする。
(アレク・ホーク。異世界から来た魂。
妹の研究で生まれたホムンクルスに憑依して……今は“子供の姿”)
赤い瞳を思い出すたび、背筋に冷たいものが走る。
あれは人間のものではない。
その直感は、ジンが十数年の依頼で培った危険察知と同じ種類のものだった。
彼の眼は「獣」と「人」を見分ける。
そして――アレクの奥には、獣に似た、いやそれ以上の異質さが潜んでいた。
(あんな存在を、妹の隣に置いていいはずがない)
唇がきつく結ばれる。
守るべき対象のすぐ隣に、最も危うい存在がいる――そんな矛盾を許すことはできなかった。
だが。
(……あの瞬間、妹は笑っていた)
事件の報告をするレンの顔は、誇らしげですらあった。
「アレク君が助けてくれたの」と言ったとき、声がわずかに弾んでいた。
ジンは拳を握りしめる。
あの笑顔を、彼はずっと守ってきた。
十四年前。
震災で両親を失い、幼いレンを抱きしめた夜。
瓦礫の中で泣きじゃくる妹の頭を撫でながら、「俺が守る」と誓った。
以来、ジンはどんな依頼も危険も引き受け、力を磨き続けた。
結界術も、封印術も、鍛錬を怠ったことはない。
妹を傷つけるものを一切近づけないために。
――なのに。
妹の笑顔を引き出したのは、自分ではなく、異世界から来た“勇者”だった。
胸の奥が、鋭く痛む。
ジンは再び机に戻り、分厚いノートを開いた。
それは日記のようでいて、観察記録でもある。
――アレク、呪具の気配を察知する能力あり。
――身体能力は年齢相応だが、戦闘勘は突出。
――妹との距離、危険なほど近い。
淡々と並んだ文字の余白に、今日、新たな一文を加えた。
《認めるわけにはいかない》
書いた瞬間、胸に重しが落ちる。
認めてしまえば楽になれるのに、あえて突き放す言葉を残すしかなかった。
(確かに、あいつは本物の力を持っている。
俺一人では対処できない事態が、この先起きるかもしれない)
そう理解していながら、なお受け入れる気にはなれなかった。
自分が必要とされる場所に、代わりが現れることが――何よりも許せなかったからだ。
ジンは目を閉じる。
過去の記憶が脳裏に浮かんだ。
――両親を失った夜。
レンの泣き声が闇に吸い込まれていくのを、必死に抱きしめて耐えた。
あの時、守れなかった無力さを二度と味わいたくなかった。
――修行の日々。
血まみれで結界陣に倒れ込みながらも、立ち上がった。
「妹を守る」という誓いだけが支えだった。
――初めて呪具に遭遇した日。
仲間を失い、震える妹を思い浮かべて立ち直った。
あの時の決意が、今も心臓に刻み込まれている。
……だが。
その努力の果てに築いた「守護者」という立場を、アレクは容易く侵食していく。
妹が頼るのはジンではなく、赤い瞳の少年。
その現実が、彼を苛立たせ、同時に恐怖させていた。
ランプの灯が小さく瞬き、工房の影を揺らした。
ジンは呟く。
「……それでも」
妹が泣くなら、どれほど理屈を並べても関係ない。
アレクがどれほど力を持っていても。
異界の勇者がどれほど正義を口にしても。
「妹に危害を加えようとするなら、俺が斬る」
その言葉は呪いのように、夜更けの工房に響いて消えた。
窓の外では、月が淡い光を落としていた。
それはまるで、兄妹の運命を冷たく照らし出すかのようだった。
ジンはノートの最後のページを開き、筆を走らせる。
《観察対象:アレク・ホーク
今後の危険度:計測不能
監視を継続。
レンの幸福を第一とし、必要とあれば即座に排除する。》
文字を書き終えると、インクの滲みを眺めた。
その手がわずかに震えていることに、本人は気づいていなかった。
(……本当に斬れるのか、俺は?)
胸の奥で芽生える微かな問いかけを、ジンは意識的に押し殺した。
窓の外の闇を睨みながら、ただ一人、守護者としての覚悟を繰り返し確かめていた。




