2話 外に行きたい
雲の影が道をすべるように降りていく。
綺麗な丸の家が並ぶ中、その家の形は片方に寄って膨らんでいた。
家を作る時は、家主が必ず最初に息を吹き込む。
この家の主は、自分が住む家に張り切って息を吹き込み過ぎたのだ。
だが彼は、広くていいじゃないと大きく笑っていた。
大きく膨らんだ家に合わせて、広く切り出された窓をのぞき込む。
長く光る桃色の髪の毛が、机に向かって熱心に作業をしている姿が見えた。
窓をノックしようとあげた腕を、風がひゅるりと抜けた。
窓の向こうの顔は顔を上げ、にっこり笑うと窓を開く。
「いらっしゃい、ファレファ」
「シドレラ! 聞いて!」
そう言うと私は窓枠から家の中に乗り込んだ。
「花畑でね、聞いた事のない音が聞こえて。きっとあれは、おばあちゃんが言ってた音楽だと思う!」
「音楽ですって?」
「その音楽を聞くうちにね、気が付いたら私が知らない所にいて、台の上でかっこいい人達が演奏してるの。真ん中に、真っ赤なお花みたいな人が歌ってた!」
「知らない所に居て、演奏してる人を見た……」
シドレラは口元に手を当てて、少し考える仕草をする。
彼の手は大きくて、すらっと指が長い。
指を目でなぞると、爪が今日は淡い水色に塗られていた。
一本一本丁寧に整えられたそれは、桃色の手と合わさってとても綺麗。
気分で塗る色を変えていると言うが、その中で右手の中指の爪だけがいつも赤く塗られている。
その理由までは知らなかった。
「さ、続きを聞かせて」
「えっと、その人達は見た事がない道具を持ってて、きっとあれがおはなしに出てきた楽器だと思う! それで、お花みたいに綺麗な人が歌うんだ」
私が歌う真似をすると、シドレラは目を見開いた。
シドレラも、歌を見るのは初めてなのだろうか。
私もさっき、初めて聞いた衝撃を忘れない。
「そんな遠くの人を感じる事が出来るなんて……」
シドレラがふと何かを呟き、私の肩にそっと手を置いた。
「ファレファ、貴方にはきっと、特別な力があるわ」
「特別? 私に?」
「ミミ様が言っていたの。心を込めることが出来る人は、音楽を通じて心で通じ合えるって。あなたにも、その力があるのよ」
私はさっきの感覚を思い返す。
つんとしたお酒の香り。
指先でなぞると、ちょっとベタついたテーブル。
お花の人の、心からの楽しいがまだ胸の中に残っていた。
「実はね、ミミ様も昔同じ力を持っていたんですって。話を聞いてみましょうか」
肩をぽん、と叩かれて私は我に返った。
さっきの感覚、これを突き詰めれば、きっともっと上手く吹ける気がする。
*************
「それは、託音だねぇ」
ミミおばあちゃんはカップにお茶を注ぎながら、私に教えてくれた。
おばあちゃんは村で一番偉くて長生きで、なんでも知っている。
村の一番上に家があり、耳がいいおばあちゃんは村の全部の音が聞こえているらしい。
シドレラがあたしが、と立ち上がろうとするのを、おばあちゃんはにっこり笑って止めた。
「孫達にお茶を注ぐのが、わたしの楽しみなのよ」
おばあちゃんは私の頭を撫でながら言った。
シドレラは嬉しいような、でもどこか悲しそうな顔で頷く。
かくいう私も、ミミおばあちゃんと血は繋がっていない。
でもこうして私に優しさを注いでくれるおばあちゃんは、紛れもなくおばあちゃんなのだ。
「それでファレファ、託音で感じたものをおばあちゃんにももっと教えてちょうだいな」
おばあちゃんはよっこらせ、と座るとお茶を一口すする。
私もそれを真似てふぅふぅ息をふきかけたあと、私は見て、感じたものについて話した。
「まぁ、においに、触った感触まで」
「やっぱり、ファレファには特別な力があるのよ。良かったわね、ファレファ!」
シドレラは自分の事のように喜んで、私の肩をぽんぽんと叩いた。
しかし、おばあちゃんはゆっくり首を横に振る。
「いいえ、シドレラ。託音はね、誰もが扱える物なのよ。みんな、その使い方を忘れてしまっただけ」
もちろん、ここまで強く託音を扱えるのは素晴らしい才能だわ。
おばあちゃんはそう付け加えた。
「誰もが……」
俯くシドレラの手を、そっとおばあちゃんが握る。
彼の左腕には、隠してはいるものの痛々しい傷跡が残っているらしい。
私には見せようとしないが、その怪我が原因で、もう音が出せないということも知っている。
でもおばあちゃんは、その左腕をそっと撫でて頷いた。
「ええ。誰にだってその権利がある。いつかあなたが、自分を許してあげられる日が来たらね」
シドレラはおばあちゃんの手を躊躇いながら取ると、静かに握り返した。
ピューイ! ピューイ!
誰かを呼ぶ笛の音が、村のどこかで鳴り響いた。
シドレラはハッと顔を上げると、目元を拭う。
「困ってるみたい。あたし、行ってくるわ」
「レミシラの所ね。シドレラ、裏から薪と布を持っていってあげて。きっと今夜、生まれるわ」
シドレラは頷くと、裏手へかけていく。
おばあちゃんはその姿を見送ると、ゆっくり私に向き直った。
「ファレファ。おばあちゃんに、本当はまだ言いたいことが残っているんじゃないかしら?」
どきり、と私の胸が鳴る。
おばあちゃんにはなんでもお見通しなのだ。
自分の中に渦巻いてる気持ち、これを伝えてもいいものかと、悩んでいたことまで。
「私、外に行きたい」
絞りだした言葉が、口からこぼれた。
言うのをためらっていた時は、あんなに言葉が出なかったのに。
「あの時聞いた音、すごかった。思わず聞き入って、私も観客になっちゃうくらいに。お花みたいな衣装がきらきらしてて、みんなが見とれてた!」
おばあちゃんはただそれを聞いてくれた。
それに促されるように、私の心の、もっと深い部分も湧き上がってくる。
「でも、あれはあの服を着たからきらきらしてたんじゃない。きっと赤いお花の人は、どんな格好だってあそこに立てば皆が心を奪われるんだ。私も……」
これはきっと、良くない気持ちも混ざってる。
真っ白じゃなくても、おばあちゃんは、ママは、愛してくれるかな。
そんな気持ちが壁を作り、最後の言葉が塞き止められる。
暖かい手が、私の背中に回った。
久しぶりに感じた、背中の温かさ。
それが私の気持ちに覆い被さった壁を溶かした。
きっとおばあちゃんは私がどんな子でも愛してくれるんだ。
「私も、お花の人みたいにすごくなりたい。きらきらになりたい。みんなあの人ばっかり見て、ずるい。あの人を、超えたい……!」
言葉と一緒に涙が溢れて止まらなくなった。
私は両手では、涙を拭ってもこぼれてしまう。
だから、あんまり泣かないようにしていたのに。
しわしわの手が涙を拭ってくれた。
私が泣き止むまで、何度も、何度も。
「おばあちゃんもね、昔、外に行きたいって思った事があるの」
ずび、と鼻をすすりながら、まだ視界がぼやける目で顔を見る。
懐かしむように窓の外を見つめる先は、どこなんだろう。
「結局、追ってきたおじいさんに捕まっちゃったから、そんなに遠出は出来なかったけどね」
静かな時間の中で、家を通り抜ける風がふゆるると流れていった。
「元気で、行ってらっしゃい」
私は深く頷く。
頷いたまま、おばあちゃんの手にそっと触れて寂しさをごまかした。
顔を上げるのは、滲んだ涙を飲み込んでからにしよう。
ぽん、と頭に手が添えられる。
顔を上げるまでもう少しだけ、時間がかかりそうだ。