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「よくある話」シリーズ

「よくある話」と言われたけれど

作者: りすこ

 暑い夏の日、祖母が死んだ。


 辻馬車にひかれるという不慮の事故だった。


 辻馬車の御者は、御者になりたての人だった。紳士が御者にお金を多めに渡して、道を急がせていたそうだ。

 その紳士は、大口の客と約束していたそう。鞭を振るいいななく馬車の前に、人形を落としてしまった女の子が飛び出した。

 祖母は女の子を庇い、代わりに馬車にひかれたのだった。


 私、セレナ・エヴァンス、二十歳は信じられない気持ちで祖母の訃報を聞いた。


 何かの間違いではないかと思ったし、また会えると思っていた人の突然の別離に頭はついていかなかった。


 なぜ? どうして? それだけを頭で繰り返しながら、病室に行くと、祖母はベッドの上で目をつむっていた。


 時を止めた者しかしない、青白い顔をして死んでいた。


 その瞬間、私も時を止めたくなった。




 私は両親を二歳で亡くしている。兄弟はいない。

 祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、私は祖母に育てられた。


 祖母は都市にホテルのオーナーをしている中流階級(ミドルアッパークラス)で、私は労働の苦労も知らず女学院で学ばせてもらえた。

 十九歳からは祖母が経営するホテルのフロント係として働きだした。


 祖母は華やかで若々しかった。


 あけすけにものを言う人で、恋人を連れてきたときは「あれは全体的にダメね」と私に言っていた。


 よく祖母は、両親の肖像画を見て思い出話を私に聞かせてくれた。私にとっては、ぬくもりも声も覚えていないふたりだったが、祖母が話す両親は、優しく楽しい人たちだった。


 祖母はふとしたとき、肖像画を数秒、見つめていた。

 その眼差しはいつも切なかった。


 私もいつか、祖母の肖像画を見て、同じ横顔をするのだろうか。

 その時、私はひとりなのだろう。

 いくら祖母と陽気に笑っていても、夏の濃い陰のように、日々の端々に、どこか物悲しさがあった。



「葬儀をしなくちゃ……」


 祖母を前にして、私はぽつりと言った。


 たったひとりの肉親を失って、天涯孤独になったというのに、私は、次にどうするべきか考えている。奇妙なほどに、頭が冴えていた。


 従者のジョージと、通いのメイド、マーサに頼んで、葬儀の準備を始めた。

 そんな機械的に動く自分が、不気味だった。

 祖母を失って、全身で悲しがる自分でありたかった。



 祖母の葬儀は多くの人が訪れた。


 祖母が助けた女の子の両親からは泣いて感謝されたし、祖母を慕う人は「あの人らしい最期だ」と言って、祖母との別れを惜しんでくれた。


 涙ながらに祖母と別れる人を見ても、私は泣けなかった。ただ、あいまいにほほ笑んでいただけだ。


 それでも、生きていてほしかった。


 言葉を飲み干すのに、必死だったのだ。


 次々と弔問客が訪れる中、喪服を着た青年が、祖母の棺桶の前で跪き、長く祈っていた。


 彼の周りだけ淡く光っているように感じて、そのしぐさひとつひとつが神秘的なものに思えた。


 私も両手を前に組んで、祖母とお別れをした。


 でも、言葉は何も浮かばなかった。


 ぽっかりと心に開いた穴に吸い込まれて、祈りは消えてしまった。



 ***



 すべてが終わって屋敷に戻った私は、だらしなくソファにもたれかかった。ふわふわのクッションを掴んで、疲れ果てていた。


「お嬢様、ご立派でした」


 従者のジョージが穏やかな顔でほほ笑む。私は苦笑いをして、姿勢を正した。


「これから大変だわ……ジョージ、頼りにしているわね」

「お手伝いいたします」

「今日は、何かお嬢様の好きなものを作りましょうね」


 マーサがころころと笑いながら言う。


「あまり作りすぎないでね。食べ過ぎて動けなくなっちゃう」

「まあ。ふふふっ」


 マーサは笑って、厨房に向かった。

 ふたりも疲れ果てているのに、変わらない気遣いが嬉しかった。


「さてと」


 少し元気になった私は、その足で祖母の書斎へと向かう。

 ホテルの書類や荷物の整理をしなければ。


 祖母の書斎は一番、日当たりのよい角部屋だ。

 通いなれた廊下を歩き、部屋の扉を開く。


 中を見た瞬間、私はぞっとした。

 見慣れた机、いす、本だな。祖母が愛用していたそれらは、時を止めていた。


 まるで誰か知らない部屋に来てしまったみたいで、居心地が悪い。肌がぞわぞわした。


 窓が開かれていないせいで、熱気が部屋にこもり息苦しい。

 喉が圧迫される。


 むわっとした暑い空気の中、ほこりが舞いあがり、強い日差しにライトアップされきらきらと光っていた。


 祖母が死んで、部屋も死んでしまった。

 それでも、私は部屋に入らなくては。

 やるべきことは山積みだ。


 ごくり。生唾を飲み干して、部屋に入る。


 整理を――。そう思うのに、何をしていいのか分からない。

 ほこりが舞い上がる部屋で、私は途方に暮れた。



 ***



「お嬢様」

「ウィリアム様がいらっしゃっています」


 ジョージに声をかけられたのは、葬儀を終えた三日後のことだった。


 ウィリアムは私の恋人だ。二十五歳、同じ中流階級で、輝くような金髪と澄んだ青い瞳の人だ。

 彼には祖母が亡くなったことを伝えていたが、葬儀には用事があって出られないと言われた。


 出席の確認をしたかった私は、ウィリアムのひとことを気にすることもなかったし、今の今まで、彼の存在を忘れていた。


「ありがとう、行くわ」


 客間に行くと、ウィリアムは足早に近づき、両手を広げて私を抱きしめた。


「ああ、セリア」


 彼はよく言えば天真爛漫で、悪く言えば空気を読まない。細かい所は気にしない人で、愛情表現もオーバーだった。

 迷いがちな私とは正反対で、だからこそ私は彼に惹かれた。


 だけど、大胆に抱きしめられたことが、今は身の毛がよだつほど嫌だった。

 そっと彼の胸を押し返し、笑顔を貼り付ける。


「ウィリアム、突然、どうしたの……?」

「何を言っているんだい? 君が気がかりで、急いで用事を終わらせてきたんだ」


 彼は歯を見せて、快活に笑った。その爽やかさに、私は疲れた。


「そう……ありがとう」

「こうなった以上、僕たちの結婚を急いだほうがいいと思うんだ」

「え……」


 ――なぜ。


「今、君はひとりぼっちだろう? 結婚して、ふたりでホテルを盛り上げた方がいいと思ったんだ」

「でもあなた……ホテル経営は興味がないと言っていたじゃない……? おばあさまと考え方が違うからって……」

「そのおばあさまは亡くなっただろ」


 ははは、と笑うウィリアムに、愕然とした。


「僕たちのやり方でホテル経営ができるんだよ。今すぐ結婚しよう」


 手を取られ、ウィリアムは甘い顔をする。青い瞳はどこまでも澄んでいて、表も裏もないようだった。


「一緒になろう、セリア」


 ぎゅっと両手を掴まれた瞬間、ぞわりと首裏に悪寒が走った。

 彼が一体何を言っているのか分からなかった。分かりたくなかった。


「考えさせて……っ」


 私はウィリアムの手を振り払った。


「どうしてだい? 身内に不幸があったら、結婚を考える。よくある話だろう?」


 心底分からないという顔で、ウィリアムは言った。

 よくある話。それは軽薄な言葉に聞こえて、いつまでも耳に残った。


 結婚をすれば、ひとりになったことに怯えることはない。

 だけど、家族を失ったから、補充するみたいな言い方が納得できなかった。

 私は抵抗して首を激しく横に振った。


「はあ……君も頑固だな。黙って僕を頼ればいいのに」


 ウィリアムが苛立ちながら腕を組む。


「……泣いて喜んで、結婚するかと思ったのに」


 傲慢な言い方をされて、すーっと心が冷えていった。

 私が泣いて、喜ぶ? 結婚はご褒美か、なにかなの?


「ごめんなさい。落ち着いたら連絡するから、今日は帰って」


 ウィリアムは舌打ちをした。


「可愛くないね。こういう時は、泣いてありがとうと言った方がいいよ」


 そう言って彼は部屋を出て行った。

 ――なに、あれ。

 百年の恋が冷めるとは、こういうことだろうか。


 彼としたデートの光景が脳裏に次々と浮かんでは、パンと弾けた。どれもきれいな思い出だった。ときめいたこともあった。けんかもしたけれど、私は彼を好きだった。


 そのすべてを土足で踏みにじられたみたいだ。

 雑巾を固く絞るみたいに胃が痛みだし、声が出てこない。


「お嬢様……」


 ずっと控えていたジョージが、目を据わらせていた。


「あれは、全体的にダメでございます」


 祖母と同じことをジョージに言われ、すべてを投げ出したくなった。


 若気の至りだから……と、流してしまいたかった。



 ***


 

 散々な気持ちのまま、ウィリアムとの関係を棚上げして、祖母が雇っていた弁護士に連絡を取った。


 何かあれば頼るようにと、祖母から名刺をもらっていた。


 彼はフィン・マッケンロー、二十三歳。

 黒い髪で黒い瞳、黒い中折れ帽に、黒いスーツを着ていた。

 儚げな印象で、陽炎のような人だと思った。

 葬儀の時、祈っていた人だ。


「はじめまして、フィン・マッケンローです」

「はじめまして、セリアです。どうぞ中に入ってください」


 彼は黒い帽子を脱ぎ、家に入った。

 マーサがお茶を出してくれて、それを彼が飲む。しぐさがきれいな人だと思った。


「おばあさま……ヘレンさんは、僕の恩人なんです」


 お茶を飲みながら、彼は身の上話をしだした。


「僕は早くに両親に去られ、身ひとつで弁護士になりました。駆け出しの新米弁護士を雇ってくれる奇特な方は、ヘレンさんだけでした。彼女の口利きで、ずいぶんと仕事が増えたんですよ」

「そうでしたのね」

「ヘレンさんから遺言状を預かっています」

「え……」

「ずいぶん前から準備されていました。いつ何が起こるか分からないからって」


 知らない話だった。

 彼は黒い鞄から、太陽の模様が入った箱を取り出す。中には、白い封筒が入っていた。


 しかし奇妙だ。

 遺言状の封筒には、【ひとりでは決して見ないこと】と書かれている。


「あなたと見るということでしょうか……?」


 彼は困ったようにほほ笑んだ。


「今は答えられません。ヘレンさんとの約束ですから」


 わたしは力強く書かれた文字を指でなぞった。祖母の字だ。間違いなく。


 何を書いたのか気になるけれど、開く気になれない。

 読んでしまったら、そこで祖母との繋がりが切れるような気がした。


「……遺言状、まだ預かっていただけますか」

「いいのですか?」

「今は、まだ……」

「分かりました」


 それから彼はホテルの経営について話してくれた。


 ホテルの経営は、支配人が代理で運営し、祖母が亡くなって五年後、私がオーナーをするか、決めてよいそう。

 オーナーをしないなら、ホテルは売却する手配までされていた。


「あなたが別の道を行くかもしれないから。ヘレンさんがそうおっしゃっていました」


 私に選択をゆだねている。祖母らしい、愛情の深さだった。


「私、ホテルの仕事、好きなのに……」

「それでも気が変わるかもしれないからと」

「……おばあさまらしいわ」


 私のことを思っているからこその配慮。

 それが今は切なかった。ありがとうを、もう伝えられないから。


「五年、考えます」

「それがよろしいと思います」


 彼と祖母の配慮のおかげで、もっとバタバタすると思っていたホテルの経営は、思ったよりもスムーズだった。


 支配人も頼もしく、任せてほしいと言われている。


 私は変わらずフロントをし始めた。


「少し休んだら……」と同じフロントの子に言われたけれど、今はホテルに居たかった。


 実家にいると、真綿で首をしめられるような感覚に陥るのだ。

 いたずらに家の中をうろうろしてしまう。


「いいの。動いていたいから」


 それが強がりだとしても、私が生きていくには、必要なことに思えた。



 フィンさんは何度も家に訪れて、ホテルの細かいことを手伝ってくれた。

 それどころか、祖母の遺品整理までしてくれた。


 祖母は孤児院へのチャリティーに参加していて、不要なものリストをフィンさんに預けていたそうだ。


「窓、開けますね」


 そう言って彼が何気なく窓を開いたとき、新鮮な空気が部屋に入ってきた。そのみずみずしさに、心が震えた。


 ほこりが舞っていた部屋をマーサや、ジョージ、彼と一緒に掃除すると、部屋が生まれ変わったようにきれいになった。

 部屋が息づいている。

 不思議な心地に包まれて、私はようやく大きく呼吸ができた。


「手伝ってくれて、ありがとう」

「いえ、遺品は高値で売却しなさいと言われていましたから」

「つては何件かあります」

「ではお願いします。売却が終わったら僕が手続きします」

「……おばあさまの思う通りにさせてあげたいですね」

「ええ。手伝います」


 彼の気遣いとほほ笑みが、今の私にはしみた。



 ***



 祖母の葬儀から3か月が経った。ホテルは落ち着きを取り戻し、クリスマスシーズンへ向けての準備がはじまっていた。


 あれほど熱く感じた日差しは息をひそめ、街路樹は秋色に染まっている。


 私はウィリアムに手紙を送った。

 彼とはあれ以来、会っていない。

 一度、ちゃんと話をしなければと思っていた。

 だけど返事は、1か月経ってもこなかった。

 また手紙を書いても、電報も送っても、返事はなし。


「無視されているのかしら……」


 このまま自然消滅だろうか。

 それでもいいような気がしてくる。

 彼と将来を考えられない私の結論は決まっていた。


 ウィリアムと面と向かって会うのは、気が重たいし、また傷つく予感がする。

 今は痛みからできる限り遠ざかりたい。


「だけど……はっきりしないのも、もやもやするわ……」


 ふとした時に彼のことを思い出して憂鬱なまま過ごすか、はっきりさせるか。


 私は後者を選んだ。


 休みの日、私は、ウィリアムのアパルメントを訪れた。

 二階建てのアパルメントの一階、一〇五室。半地下になっている玄関の階段を降りて、ドアベルを鳴らした。


 じりり、低音が響く。しばらく待ってみると、ゆっくりとドアが開いた。


 現れた人物は、波打つブロンドの女性。目鼻立ちがはっきりしていて美人だ。誰だろうか。

 彼女は玄関に出てくる格好とは思えないほど薄着だった。


「あの……私、セリア・エバンスですが……ウィリアムはいますか?」

「ああ、あなたが……」


 女性は私を足のつま先から、顔までぶしつけに眺める。ドアによりかかって、ふっと不敵にほほ笑んだ。


「ウィリアムならシャワーを浴びているわ。昨晩、私たち一緒に居たから」


 彼女は自信に満ちた笑みを口元に浮かべた。

 私は雷に撃たれたような衝撃をおぼえた。


 頬が引きつり、心臓が嫌な音を立てて騒ぎ出す。


 どうして、知らない人がウィリアムの部屋でシャワーを浴びているの?

 考えたくはないのに、ウィリアムと彼女が裸で抱き合っている場面が、容易に想像できた。


「ねえ、あなた。ウィリアムの求婚、断ったんでしょ?」

「え……?」

「彼、辛そうだったわよ。恋人が理解してくれないって。だからね。私が慰めてあげているの」


 彼女は猫のように目を細めた。


「あなたがぼやぼやしている間に、私がウィリアムをもらったの。恋人が構ってくれないから、他の女性にいくなんて、よくある話でしょう?」


 ――よくある話。

 彼女に言われて、ガツンッと頭を殴られた衝撃がきた。


 知らない間に、ウィリアムは浮気をしていた。

 そんな人だと思わなかった。


「ヴィヴィアン?」


 ウィリアムの声がして、肌が粟立つ。

 彼とまともに話ができる気がしない。一刻も早くこの場から逃げ出したくて、足が一歩、後ろに下がった。


 彼はシャツにズボンというラフな格好だった。金髪が濡れたままで、タオルを肩からかけている。


 彼女の言った通り、シャワーに入ったばかりなのか、頬が赤く火照っていた。


「セリア……」


 私を見て、ウィリアムが目を見開く。彼女は勝ち誇った顔で、ウィリアムに声をかけた。


「私たちの関係を教えてあげていたの。冷たい恋人さんに」


 ヴィヴィアンはくすりと馬鹿にするように笑った。

 もう嫌だ。帰りたい……。


「セリア、誤解だ。ヴィヴィアン、部屋に戻っていてくれ」


 彼女は不満そうに、でもあっさりと部屋の奥に入っていった。

 ウィリアムが私の腕を掴む。その瞬間、気持ち悪さが先だって、私は彼の手を振り払った。ウィリアムの眉が吊り上がる。


「そんな態度しなくてもいいじゃないか。君に求婚を断られて、僕は傷ついたんだ。ヴィヴィアンは友達だよ。友達に⋯⋯そう、……話を聞いてもらったんだ。いいだろう? まだ僕たちは結婚していないんだし」


 まったく悪びれない態度をとられ、もうダメだと思った。


 ――全体的にダメよ。

 祖母の言葉が頭の中でこだまする。


 あの時、祖母に反発しなければとか、もっと彼を見ていればとか、盲目すぎた自分と彼自身に嫌悪して、頭の中はぐちゃぐちゃだ。


「ウィリアム……別れましょう……」


 うつむきながら、言い切る。


「今日はそれを言いたかったの……彼女とお幸せに」


 私は石の階段を駆け上がる。

 名前を呼ばれたような気がしたけれど、振り返らなかった。


 ――もうダメだ。もうダメなんだ。


 そう思いながら、秋が深まった街路樹を駆け抜ける。

 銀杏の葉が舗装された石畳に落ちて、足が滑りそうだった。

 吸い込む息はもう冬の寒さを孕んでいて、加熱した私の喉には冷たすぎた。


 ――おばあさま……。

 心の中で、祖母を呼ぶ。


 馬鹿な私を叱ってほしかった。


「ほら見たことかしら。全体的にダメだって最初から分かっていたわ」

 眉を吊り上げて、こんこんと説教して、抱きしめてほしかった。


 ――ああ、もう⋯⋯ダメ!


 大人になって仕事をしていると言っても、私は子どものままだ。

 祖母に甘えたい子どものままだった。


 力強いあの眼差しと、優しい腕に帰りたくてしかたがない。


 もうできないことが分かっているのに。

 祖母は土の中で眠っていると分かっているのに!


 二度と、手にできないあたたかさを求めて、私は駆けていた。



 どれほど走ったのか、気づくと芝生のきれいな公園に居た。

 私はそれぞれの休暇を楽しむ人々をベンチに座って、ぼうっと見ていた。

 まるで絵画の一部になってしまったようだ。

 私だけ、時が止まっていた。




「セリアさん……?」


 ふと、静かな声が耳に届く。


 ぼんやりとした頭で顔を上げると、あわい輪郭の光をまとって黒い人が立っていた。私はなぜ絵画が動くのか、不思議だった。


「なにか、あったんですか……?」


 その人は、はっきりとした低い声で言う。腰を屈めて、私を心配そうに覗き込む。

 黒真珠のような瞳を見て、私は首をかしげた。


「フィン、さん?」


 声を出すと、彼の眉が穏やかに下がっていく。


「顔が真っ青だ。寒くはないですか?」


 私は首を横に振った。


「……まだ、ここに?」


 私は黙ったままうつむいた。

 すると、フィンさんはゆったりとしたしぐさで私の隣に座った。


「ちょっと失礼します」


 彼は両手を前で組み、やや前かがみになりながら、私の方を向いた。


「大丈夫ですか?」


 その声は、優しい音を奏でていた。


 居場所がない私には、その音の優しさが沁みて、涙が目元に込み上げてしまった。


 涙を止めようと目元に力を入れるのに、少しも堪えられなくて、私はか細く息を震わせながら口元を覆う。


「すみま、……せんっ……」


 理由も分からず泣き出して、彼を困らせている。早く涙を止めないと、彼が泣かせたみたいだ。違うのに。


「ごめん、なさいっ……」

「大丈夫です。大丈夫ですから」


 少し焦ったように彼が前のめりになった。私は余計に泣けてしまう。


 熱い涙を流しながら、私は祖母を亡くしてから、きちんと泣いていなかったと思った。


 世界から切り離されたように感じたけれど、見つけてくれた人がいた。

 それに安堵しながら、私はわんわん泣いた。



 涙腺が壊れてしまったのか思うぐらい泣いて、泣いて。


 私はぐずぐず鼻を鳴らしながら、彼にこれまでのことを話した。


 よくある話と言われて、納得できなかったこと、ウィリアムと別れたことまで洗いざらい。


 彼は「うん、うん」と、優しくはっきりした声で、相づちを打ってくれた。

 それが心地よくて、話終えたときには、涙が引いていた。


「僕も仕事がら、様々な人と会いますが、水が合わない相手はいます」


 彼は私を見ずに、夕やみ色に色づき始めた空を仰いで話だした。


「そういう人にあったとき、どうしてそういうこと言うんだって考えて苦しくなっていたんです。でも、ある日、『血のつながった家族ですら、分かり合えない時はある』って教えてくれた人がいるんです」


 彼の言葉に、懐かしさを覚えた。


「……その相手って……」

「ええ、ヘレンさんです」


 やっぱり――。


「おばあさま、今のホテルのオーナーになるとき、兄弟たちと裁判を起こして権利を勝ち取ったって言ってらしたわ」

「聞いたことがあります。ずいぶんと強欲な人たちに狙われたみたいですね。ヘレンさんは譲らなかったと」

「おばあさま、強いですから」

「ははっ、確かに。⋯⋯強いですね。でも、ヘレンさんに話を聞いていて、僕はその水の合わない人を思うことをやめたんです。そうしたら、気が楽になりました」


 彼は穏やかにほほ笑んだ。


「セリアさんは、自分を守った。その人と別れて、自分を大事にできたと思います」


 その言葉は、私の大事なものを掬い上げてくれるようだった。


 実際の私は感情に飲まれて、訳がわからなくなったわけで。こんな思いをするのなら、会わない方がよかったのではと思ってしまうけど。

 それでも――。


 ウィリアムに直接、会って、別れを言えたのはよかったのかもしれない。

 彼の澄んだ黒、なにものにも染まらない色を見ると、自分という輪郭がはっきりしていくようだった。


「……そういってもらえると、救われます」


 私がほほ笑むと、彼もほほ笑む。穏やかに肩の力が抜けていった。


「帰りましょうか。送ります」


 彼がベンチから腰を持ち上げる。私を見下ろして言われ、私は立ち上がり首を横に振った。


「そこまでしてもらうわけには」

「ずいぶん暗くになってしまいました」


 彼は空を仰いで、指を一本立てた。


「星が出ています」


 つられて空を仰ぐと、藍色の空に一番星が輝いていた。

 空に一粒の宝石のように輝く星を見たら、時の早さにびっくりだ。


「行きましょう」


 流れるような声に私はうなずき、彼と並んで家路を歩きだした。


「フィンさんには本当になにもかも、お世話になっていますね」


 藍色の空の下、わたしは申し訳なくなってぽつりとつぶやいた。


「今度、お礼をさせてください」


 社交辞令でもなく、彼に何かをしたかった。

 すると彼は足を止めて、微笑を口元に浮かべた。


「なら、次の休日に僕と出かけてくれませんか?」

「お出かけですか?」

「ええ、トライフルが美味しい店があるのですが、僕ひとりでは入りづらくて」

「……フィンさん、甘いもの、お好きなのですか?」

「目がないです」


 彼は両肩をあげて、お茶目に笑った。

 それが意外で、おかしくて、私は笑ってしまう。


「いいですよ。どこのお店でしょう?」

「アンバー・ゲイト・ハウスです」

「まあ、一度、入ってみたかったところです」

「それは良かった。新作にかぼちゃのトライフルが出たんですよ。パイ生地がサクサクらしくて、生クリームは口の中で消えていくほど軽やか」

「……美味しそう」


 ごくりと生唾を飲み干して言うと、彼はくすくす笑い出した。


「一緒に行ってくれますか?」


 私は自然とうなずき、口角を持ち上げた。


 それから彼は私の玄関先まで送ってくれて、被っていた帽子を脱いで「おやすみなさい」と挨拶をして帰っていった。


 ガス灯に照らされた黒い彼は、夢か幻だったかのように闇に溶けていく。


 その背中を見ていると、彼は立ち止まり、振り返った。


 私が見ていると気づくと、被っていた帽子を脱いで、挨拶をする。その笑みに、きゅっと心臓が痛んだ。まぼろしではなく、続く彼との約束が嬉しかった。


 私は小さく手を振り返し、部屋に入っていた。

 玄関のドアを閉めると、ほぅと深く息を吐く。

 一日でいろんなことがあった。それなのに、心は軽かった。



 ***



 次の休日、空は曇っていて吐く息は白かった。冷たさを感じながら、フィンさんと待ち合わせの場所へ行く。寒さから早歩きになる人々の波にのって、私も小走りになった。


 二階建て馬車が目の前を通り過ぎり、呼売人に捕まる前に、大通りを歩き、目印の赤い雨よけテントを見つける。辺りを見渡すと、彼が居た。

 黒い中折れ帽子(ホンブルグハット)に黒いコート。いつもの変わらない装いで、私を見た彼は目を細めて、軽く手をあげた。

 足早に近づき、息を整えながら、彼を見上げる。


「お待たせいたしましたか」

「時間通りです」


 彼の甘い顔をしてほほ笑んだ。それにどきりとしながら、彼と店に入り、目当てのトライフルを注文した。


 トライフルはスポンジケーキや、フルーツ、カスタードクリーム、ゼリーなどを層状に重ねて作るデザートだ。ここのトライフルは、ペーストしたかぼちゃの上にたっぷりの生クリームを乗せている。


 スプーンで掬い上げて口に運ぶと、生クリームが舌の上で消えて、かぼちゃの素朴な甘さが喉を滑り落ちていく。


「美味しい……」


 ほぅと息を漏らしながら、呟いて彼を見る。彼はとても真剣な眼差しでトライフルを食べていた。ひとつひとつの素材を確かめるように、口の中で味わっている。

 私の視線に気づいて、気まずそうに目を泳がせた。


「……美味しいと、無言になってしまって……すみません」

「まあ」


 可愛らしく目を据わらせる彼。私はふふふっと笑ってしまう。


「あなたと一緒に食べても楽しくないって言われるんです」

「そうなのですか? 私は楽しいです」


 心から、そう思った。


「トライフル、美味しいですね。パイ生地もサクサクで」

「そうですよね。この軽さがやみつきになります」


 前のめりになって彼が言う。また気まずそうに体をゆらしながら、席に座り直す彼を見て、私は口元をおさえて、軽やかに笑う。


「本当に、いくらでも食べられそうですね」


 そう言うと、彼は安心したように眉を下げて、「ええ」とほほ笑んだ。

 それから、彼は饒舌に甘いものについて話だした。


 彼は私を気づかって誘ってくれたのかと思った。

 でもそんなことはない。彼は本当に甘いものに目がないらしく、語るときは真剣な目をしていた。彼が話すチョコレートは、宝石のように輝いているように感じたし、ショートブレッドは芳醇なバターの味がしそうだった。


「どれも食べてみたいですね」


 何気なしに言うと、彼はまた前のめりになって目を輝かせた。


「なら、また行きましょう。案内しますから」


 溌剌とした笑みに引き込まれた。


「ええ。楽しみです」


 それから、私は休日のたびに彼と店をめぐるようになった。


 しとしとと泣くような雨の中で食べたジンジャー・ナッツ 。

 生姜がきいていて、ぴりっとした。刺激的な味なのに、彼は真顔で食べていておかしかった。


 目にも鮮やかなリコリスキャンディー。

 甘さと苦みが一気に鼻にぬけて、びっくりしてしまった。食べ終わるとすーっと味が消えていって、不思議だった。彼は「衝撃的な味」と笑っていたけれど、まさにその通りだった。


 公園の露店で食べた、クッキー。

 素朴な甘さだった。一緒に頼んだコーヒーが熱すぎて、彼はむせていた。慌てた姿にくすくす笑ってしまっても、彼は困った顔して一緒に笑う。ふたりでコーヒーに息をふきかけ冷まし合った。


 季節は冬。寒いのに、彼と一緒だと、いつも、ほんのりあたたかった。



 ***


 

 クリスマスの夜、私はホテルで仕事をしていた。

 彼はホテルが忙しいことを知っていて「また来年」と言っていた。


 家族連れのお客様が宿泊していて、朝から忙しい。ほっと息をついたのは、夜遅くで窓の外では昨日降った雪が広がって、淡く光っていた。


 町の家のあかりひとつひとつが、今日は明るく優しく見える。

 あのひとつひとつに、家族が居て、クリスマスの時を楽しんでいる。

 眺めていると、また途方もなく自分がひとりだなと感じる。

 こんなに世界は明るく、幸せそうなのに、私はそちら側にいない。


 埋められない孤独。夜が無性に長く感じる。

 きっと何度も何度も、この先、私は喪失感に震えるのだろう。


「それでも、生きなくちゃ」


 本能でそう思った。


 翌朝、受付にいた私に、荷物を持って声をかけたマダムがいた。


 その人はホテルの常連で、毎年ひとりでクリスマスの日に一泊されていた。


 祖母の話では、前はご主人と一緒だったけれど、亡くなってからはひとりで来るそうだ。


 毎年、毎年、同じ部屋番号。

 夜景が美しい角部屋。


 それを眺めているのが好きなのだとマダムは言っていった。マダムは祖母と親しかったから、私が孫だということも知っている。


「最初ね。ヘレンさんがいないなら、来るのをやめようかと思ったの」


 マダムは冗談のような口調で、私に話し出した。


「でも……私の居場所は、今年も居心地がよかったわ。また来年ね」


 軽やかにハイヒールの音を鳴らしてマダムは翻った。

 その堂々とした背中に、私の胸はうち震えた。

 私は深く礼をしてマダムを見送った。


「来年もお待ちしております」


 祖母がいなくても、変わらない。

 それは涙が出そうなくらい嬉しかった。



 ***



 年が明けて、彼と会ったとき「新年おめでとうございます」と言われて、気恥ずかしかった。今年も続きそうな彼との関係に、心は高揚していた。

 変わらないものを、また一つ見つけた。


「今日はショートブレッドを食べに行きませんか? そこの紅茶も美味しいらしいんです」

「ぜひ」


 ふたりで並んで歩きだす。まだ食べたことがないお店の話をする彼は、楽しそうで私まで笑ってしまう。


 明るい気持ちで通りを歩いていると、誰かが人込みをかきわけてきた。


「セリア!」


 大声で呼ばれて心臓が震えあがった。

 金髪を乱したウィリアムが私に近づいたのだ。

 無精髭のままで、近寄りがたい雰囲気を出している。堂々としていた彼は見る影もなくなっていた。


「セリア、よかった! 会えて!」


 動揺する私に構うことなく彼はペラペラと話しだす。


「あれから何度か君の家に行ったけど、いつも居なくて。従者……だったよな?  彼が『お引き取りを』しか言わなかった。ホテルを訪ねても、ガードマンが『お引き取りを』しか言わなくて君に会えなかったんだ! 手紙を送ったけど、見たかい?」


 見ていない。むしろ、彼が来ていたのは知らなかった。

 ジョージやホテルのガードマンが追い払っていてくれたのだろうか。

 私には知らせずに。


「ああ、その様子じゃ見ていないのだね。まったく、君ってひとは」


 舌打ちされて、ウィリアムにされたことがフラッシュバックする。

 ぐっと喉が潰されそうに感じて、言葉が心の中で消えていく。

 ふらりと後ろに下がりそうになった私を、ぐっと腰をもって支えてくれた手があった。


「失礼、ミスター・ウィリアム」


 彼は丁寧な声でウィリアムに話しかけた。


「僕は彼女の弁護士、フィン・マッケンローです」


 そう言って彼はコートの内側から仕立ての良い名刺入れを取り出し、ウィリアムに差し出した。

 ウィリアムは弁護士の名前に目を泳がせ、名刺を見る。


「彼女のホテルの顧問弁護士をしています。何かある場合は、僕を通じてお話していただけますか?」

「弁護士……それにしてはセリアと親しいみたいだが……まさか、セリア、浮気しているのか?」


 信じられないと言わんばかりの顔をして、頭痛がしてきた。


「セリア、ヴィヴィアンとは本気じゃなかった。彼女とは別れたよ。今は君しかしないから、当てつけのようなことをするのはよしてくれ」


 持論を繰り広げるウィリアムに、すーーーーっと心が冷えた。

 若気の至りだ。

 彼との恋はとっくに終わっていた。


「何を勘違いしているのか知らないけれど、今のあなたは、私にとって赤の他人だわ」

「他人って……! そんなことはないだろう? 今でも僕は君を愛して」

「あなたが愛しているのは、私の財産。ホテルではなくて?」


 淡々と言うと、ウィリアムがぎくりといったように両肩を跳ねさせた。

 図星だったのだろう。それに気づいても、悲しくはなかった。


「ここにいるフィンさんや、あなた以外の人のおかげで、ホテルは続けていられるわ」


 ウィリアムは何もしなかった。いたずらに私の心を傷つけただけだ。


「もうあなたと話すことはないの」

「……そんな……僕といなくて寂しくはなかったのかい?」


 すがるように熱っぽく言うウィリアムに首をひねる。

 言われてみれば、あの日以来、全く彼を思い出さなかった。


「いいえ。まったく。あなたのことは忘れていたわ」


 ウィリアムの顔が青ざめた。

 ぷっとフィンさんが小さく噴き出す。珍しく両肩を震わせて、笑いをかみ殺していた。


「失礼。ミスター・ウィリアム。そういうことです」


 彼は私の腰を抱いて、ウィリアムを笑った。


「これ以上のお話は僕を通してください。お引き取りを。セリアさん、行きましょう」

「え、ええ……」


 嫣然とした笑顔になった彼は、私の腰を抱きながら、歩き出してしまう。


 人混みの中、ウィリアムは悲壮感たっぷりの顔をして、その場に両手をついた。

 野次馬たちがひそひそと囁きだしていた。


「え? どういうこと? あの人、財産目当てで近づいて、ふられたってこと?」

「こんな大勢の前で、愛しているとか叫ぶとか、品性を疑うわよね……」

「あー、なるほど! 薄っぺらい男だから、ふられたんだ!」

「ママ―、あのお兄さん、道の真ん中で何をしているの?」

「しっ、見てはダメよ。残念な人なんだから」

「君、何をしているんだい? 通行の邪魔だよ」


 ウィリアムは通りかかった警察官にこんこんと注意されていた。



 ***



 雑踏から遠ざかると、ふと彼が私の腰から手を離した。


「大丈夫ですか……?」


 心配そうに眉を下げて彼がつぶやく。

 一瞬だけ。訳もわからず泣いていたベンチの硬さを思い出した。


「大丈夫……ではないかもしれません……」


 私はあいまいにほほ笑む。

 この人の前で強がるのも、おかしな気がした。

 彼の前では、自然体でいたい。


「でも、泣くほどではありません。本当に、忘れてしまっていたんです」


 あれほど泣いたのに。あれほど傷ついたのに。

 それよりも彼との時間に心を奪われていた。


「フィンさんと会っていたら、忘れていました」


 馬鹿みたいに楽しかったのだ。

 彼と食べる甘いお菓子は私を慰めた。


「それはよかった」


 ほっとしたように、彼がほほ笑む。


「ショートブレッド、食べに行きたいです。紅茶も」

「行きましょう。すぐそこです」


 その後、彼と一緒に食べたショートブレットは、しっとりしているのに、噛むとほろりと口の中に広がって、芳醇なバターの香りが鼻から抜けていった。小さいのに、満足感がある。


 一緒に飲んだ紅茶はほろ苦く爽やかで、バターの後味をふんわり包んでくれた。


「美味しいです」


 声が弾む。彼が笑う。そのひとときに、私はまた慰められていた。


 家まで送ってくれて、彼と玄関先で別れる。

 次の約束をしたい。そう思っていたら、先に彼が口を開いた。


「次の休日、僕と一緒に見てもらいたいものがあるんです。家にお邪魔してもよろしいですか?」

「もちろん。いらして」

「では、次の休日に」


 彼の黒い瞳が私をじっと見る。私も彼をじっと見つめ返した。

 時を止めたみたいに、ふたりで見つめ合う。


 彼の唇の形が、きれいな線を描いているなと、その時、はじめて気づいた。その唇に触れたら、冷たいのだろうか。彼は儚い印象があるから、体温は感じられないのかもしれない。


 ――キスを⋯⋯。

 口には出せないふらちな想像が、ふくらんでいく。

 彼の後ろで、誰かの話し声がして、私は我に返る。


「じゃあ、また」

「ええ」


 彼が帽子をとって挨拶をして、帰っていく。

 私は先ほど妄想したことが恥ずかしくてたまらず、急ぎ足で屋敷に戻った。


「お嬢様、おかえりなさいませ。楽しゅうございましたか?」

「え? え、ええっ」


 マーサに声をかけられ、私は声を上ずらせた。

 ――恥ずかしい! キスをねだりそうになるなんて!

 脱兎のごとく部屋に戻り、靴も脱がずに私はベッドに顔を押し付けた。



 夕食の時間になりようやく冷静になった私は、従者のジョージとマーサにウィリアムのことを話した。彼の話がでた途端、ジョージとマーサは半目していた。


「ジョージ、ウィリアムはうちに来ていたの?」

「来てはいましたが、お嬢様にお取り次ぎいたしませんでした。彼は全くの赤の他人でございますし、全体的にダメですので」

「私もお取り次ぎいたしませんでした。手紙がポストに入っていましたが、なにやら呪怨のようなものを感じましたので、中身は見ずに燃やしました」


 お嬢様に内緒で勝手なことをして、と謝られた。

 私は首を横に振る。


「私のためにしてくれたのでしょう? ありがとう」

「とんでもございません。あれは全体的にダメでございますから」


 ジョージが優しい眼差しで、冗談っぽく言う。

 ああ、彼らは優しい。私はいつも、救われていた。



 ***



 次の休日、フィンさんがやってきた。

 その日は、雪の降る寒い日で、彼のコートには新雪がつもっていたあとがあった。


「寒いところ、ようこそ」


 彼を客間に通す。彼は燃える暖炉を見て、目を細めた。


「あたたかい。寒い日にはしみますね」


 そう言って、案内したソファに腰をかける。

 私は対面に座った。

 マーサがすかさず、あたたかいお茶を持ってきてくれる。


「寒かったでしょう。あたたまってくださいね」

「ありがとうございます」


 マーサはにこやかに笑い、一礼をすると部屋を出て行った。

 彼はお茶をひとくちすすり、ほどけた笑みを口元に浮かべた。


「あたたまりますね」


 穏やかな空気に包まれたところで、彼は足元に置いたアタッシュケースに手をかけ、フックを外して、中を開く。鞄の中から、太陽の模様が入った箱を取り出した。

 これは、祖母の遺書が入っていたものだ――。


 はっと顔を上げて彼を見ると、彼は切ない微笑を口元に浮かべたまま、静かに箱を開いた。


 ひとりでは見ないこと、と書かれた封筒が入っている。


「一緒に見てもいいころ合いかと思いましたので」


 見たら、先に進めないと思っていたものだ。

 今なら見られるだろうか。

 彼と一緒になら、どんな祖母の言葉も受け止められるだろうか。


「見ます……」


 細く息を震わせながら、封筒を手に取る。緊張なのか、あるいは高揚か。


 祖母の書斎で見た、あの夏の暑さを思い出し、喉が渇いた。


 ごくりと生唾を飲み干して、封筒を開く。


 便箋は一枚だけ。

 大量のお小言がつづられていると思った私は、拍子抜けしたし、淋しかった。


 二つ折りにされていた手紙を開くと、力強い祖母の文字が目に飛び込んだ。




 


 必要なものはすべて、あなたにあげました。

 愛しい孫娘、セリア。

 胸を張って、堂々と生きなさい。

 あなたなら、できるわ。


 


 


 短い手紙だった。

 でも、これ以上ないほど祖母の想いが伝わる手紙だった。


 思い出が鮮やかによみがえる。


 新緑が顔を出す春。

 祖母が乗っていた自転車に乗りたくて、私は駄々をこねた。少女の私は、地面に寝て、足をじたばたさせていた。花柄のワンピースを泥だらけにして、わんわん泣く私に祖母は呆れて叱ったけれど、次の休日、野原で自転車の乗り方を教えてくれた。自転車で感じた、春風の心地よさ。


 日差しが眩しい夏。

 祖母と旅行先で見たラベンダー畑に心、奪われた。一面に広がる紫色の絨毯に、芳醇な香り。風が吹くと、揺れる紫を目に焼き付けた。いつまでも家族とここに居たかった。


 色づく秋。

 ジャックオーランタンをふたりで作った。両手に抱えきれないほど大きくてオレンジ色のかぼちゃをくりぬいて、顔を作る。固いかぼちゃは刃物が通らなくて、にっこり顔にするはずが、棒線を書いただけの、真顔のジャックオーランタンになってしまった。私も祖母も大笑いで、愛想のないジャックオーランタンを玄関先に飾った。


 雪で世界が埋まる冬。

 新雪を巻き上げながら走る蒸気機関車が、暴走する鉄の塊に見えてしまい、私は祖母のコートを引っ張りながら、早く帰ろうと言った。祖母は私の手をしっかり握りながら、雪道を一緒に歩いた。凍てつく寒さのなかで、握った手の力強さ。


 少女時代の記憶が、息づき始めた。どれもいい思い出だ。

 私を作ってくれた記憶だ。

 私たちは、祖母と孫であり、母と子であり、姉妹だった。

 家族、だったのだ。

 手紙を握りしめながら、私はぼたぼたと瞳から涙を落とした。



 おばあさま。

 あなたにありがとうを伝えたかったです。

 でもそれすら言えなくて別れがくることを、あなたはお見通しだったのでしょうか。

 だから、遺言状を書かれたのですか。

 それとも「礼には及ばないよ」と、笑うでしょうか。

 あなたの太陽のように明るい笑顔が、今、心に浮かんでいます。



 泣く私の横に、彼が座った。

 顔を上げられない私の横にいて、肩をそっと抱き寄せてくれる。

 その手つきは、優しかった。



「なんか、もう、本当に。私、泣いてばかりで……っ」


 ぐずぐず鼻をすすりながら言うと、彼は肩を抱いていた腕をほどいた。

 手を前に組んで、潤んだ黒い瞳で言う。


「ふたりでよかったです。支えられますし」


 その言葉にひとつひとつが心にしみた。

 私はまだ鼻をすすりながら、背中を丸めて子どもみたいなことを口にした。


「おばあさま……わたしが泣くって、わかっていたんじゃないですか」

「それは……まあ」

「そのとき、フィンさんの前で、よむようにいいませんでしたか?」

「言いましたね……」


 気まずそうに肩をゆらしながら、彼は素直に告白した。


 必要なものはあげた。彼もまた、祖母が残した人だったのかもしれない。

 彼は祖母を恩人と言った。恩人の孫娘を助けようとした、誠実な人だ。

 これ以上、よりかかったら、好きになってしまう。

 支えられずに、自分の足で立たないと。


「ありがとうございます、フィンさん……あなたが支えてくれたから、祖母との楽しい記憶が思い出せました」


 ぺこりと頭をさげる。ふにゃっと笑う。今の精一杯で、私は彼に礼を言った。

 それなのに、彼は目をぱちぱちさせて、苦笑いをこぼした。


「何か誤解をされているようですけど……僕が遺言状を託されたのは、あなたの悲しみに寄り添えるって思われたからです」


 彼は前を向いた。どこか遠くを見つめ、切なくほほ笑む。その横顔は、両親の肖像画を見る祖母に似ていた。


「僕は両親を亡くしています。ひとりになる身の上が、どれほど頼りないことか、分かっているつもりです。そんな僕だからヘレンさんは、頼ったんだと思います。最初は、恩人の力になりたい、そのつもりでした。でも、あなたと会って変わったんです。

 僕の母は……お菓子作りが得意で……甘いものは、僕と両親の思い出です。彼らを亡くして、僕は自暴自棄になり、甘いものしか食べられなくなったときもあったんです。でも……何を食べてもあの味にはならない。本当に失ってしまったことがやるせなくて、その味を求めてお菓子屋巡りをしていました」


 息つく暇もなく、彼は語る。


「男だけは入りづらいので、友達や恋人だった人たちと様々なお菓子を食べました。真剣に味わいすぎて、会話もないので、怒らせてばかりでしたが。……よくある話ですね」


 よくある話、と言って、彼は笑った。

 自分の悲しみを、相手に感じさせないようにするための軽さがあった。

 ウィリアムの言ったものと違う。私を傷つけない、よくある話。


「でも、あなたとお菓子を食べるのは、楽しかった。次はどこへ行こうか考えるのが楽しかったんです。食べたものの味がしましたし、夜、あなたのことを考えて、会いたくて、いつの間にかコートを着ていました」

「え……」

「くくっ、少々、病的ですね。よくある話と流してください」


 彼は私の手に自分の手を重ねる。

 ミルフィーユみたいに。ふんわりと優しく。


「僕はあなたの笑顔をずっと見ていたいと思ってしまったんです」


 ほんの少し、指先に力を込めて、彼は誠実に言った。


「今は無理でも、その時がきたら、僕と恋をはじめてくれませんか」


 あまりにも感情が揺れ動く告白だった。


「――あ」


 言葉にならなくて、へんな声は出そうになるし、熱い顔から汗までにじんできてしまう。


 諦めていたことが、手の中にいっきに舞い込んできて、ハロウィンとクリスマスと新年とイースタを一度に体験しているみたいだ。


 心がわちゃわちゃして、幸せで、昏倒しそう。

 目を回しながら、彼にようやく言えたのは、情けない一言だった。


「あの……もう、始まってしまいました……」


 戸惑いながら言うと、彼は目を丸くする。

 恥ずかしくなり、私は背中を丸める。


「つい、最近……あなたが好きなことに気づきました……ので、その」


 告白したが、羞恥心を上塗りしただけだった。


「次は、何を食べに行きましょうか……?」


 ちらりと上目遣いで見上げると、彼は両肩を震わせて笑い出した。

「まいった、すごい、まいった」

 うわごとのように言っている。

 大きく息を吸い、目じりの涙をぬぐった。


「両想いなのは気づきませんでした」

「それは、私も……ですけど……」

「すごく緊張しました……嫌われたら、どうしようかなって……」


 くしゃりと顔をほころばせる彼に私は首をかしげる。


「そう見えませんでしたが……」

「なら、よかった」


 彼は甘いものを食べている時に無邪気にほほ笑む。その笑顔がまた、好きだなと思った。


「フィンさん……」


 私は彼を見ながら、思いを口にする。


「あなたがいうよくある話は、私を傷つけません。気遣いが見えるのです。だから、私はあなたに惹かれます」


 よくある話は、私にとってかけがえのない話だ。



 重なった指の隙間から、彼の指が滑り込む。

 私たちは美味しいものの話をした。


 外ではしんしんと雪が降り、白が世界を覆い隠している。


 彼の声、笑み、暖炉のあたたかさ。それらすべてが愛しく思うこと。


 この冬の記憶も、忘れがたい思い出になるだろう。





 時が巡り、季節は暑い夏になった。


「おばあさま、行ってきます」


 太陽のような笑顔の祖母の肖像画にほほ笑みかけ、私は家を出た。


 ひたいの汗をぬぐいながら、私は待ち合わせを場所に急ぐ。


 今、私はホテルのオーナーになるため、大学に通おうとしている。フロントの仕事は休日だけで、あとは毎日、勉強だ。


 今の私の目標は、四年後にホテルのオーナーになること。

 若い私では頼りないけれど、ホテルを守りたい。


 祖母が守ったホテル。誰かの居場所になるホテル。

 残されたものを、私は大切にしたい。


 待ち合わせ場所で、日傘を差して待っていると、黒い彼がやってくる。

 真夏でもスーツを着込むのが、彼のこだわりだともう知っている。


「フィンさん!」


 私は手を上げて彼に声をかける。

 彼は中折れ帽を頭から外し、私に挨拶をする。


「お待たせしましたか?」

「いいえ。今来たところ」

「イートン・メスを食べに行きましょう」

「アイスとベリーが混ざったものですね」

「ええ。暑いですから、涼しくなりますよ」


 彼は左手を私に差し出し、私は自然と彼の腕に自分のを絡めた。


「美味しそうですね。行きましょう」


 アイスの味は頬が緩む甘さだろうか。それとも、舌の上ですーっと消えるような仄かな甘さだろうか。

 ベリーの酸味は、私たちをご機嫌してくれそうだ。


 甘いものの話をしながら、私たちは太陽の下を歩く。


 燦々と降り注ぐ光の中、私は生きて、恋をしていた。





 End




 Encore


 息苦しく暑い日は、ヘレンさんを思い出す。太陽みたいな華やかな人で、僕を見出してくれた恩人だ。 


 サマーバカンスシーズンで客足が落ち着く夏に、ヘレンさんは僕の事務所に来ていた。

 扇で顔を仰ぎながら、彼女が話すのは、孫娘のことだ。


「可愛い孫なんだけどね。どうも男を見る目がいまいちなの」

「ヘレンさんのお眼鏡にかなわないのですか」

「あれは全体的にダメね」


 彼女は孫の恋人に不満があるみたいで、柳眉を吊り上げてよく文句を言っていた。


「あなたなら安心なんだけど」

「僕ですか?」

「あなたは全体的にいいわ。昔は路地裏でボクシングして、やんちゃだったのでしょう?」

「昔のことです」

「強そうじゃない? それに、あなたはクールで優しい」


 ヘレンさんは穏やか笑みで僕に言った。


「大事な人を亡くした人は、優しいのよ。私みたいに」

「確かに、ヘレンさんは優しいですね」


 くすくす笑って流すと、彼女は扇子を閉じた。


「やっぱり孫娘には、あなたのような人がいいわ」

「彼女には恋人がいるのですよね?」

「可愛い孫には、できうる限りのものを残したいのよ。よくある話では、ないかしら?」


 そう言って、彼女は艶然とほほ笑んだ。

 美しく自信に満ちた笑みに、しばし言葉を失った。


 僕がセリアさんを気にしたのは、間違いなくヘレンさんの影響だ。

 あの時の妖艶さは、忘れがたい。

 だけど、目の前にいるセリアさんの弾けるような笑みにも心、奪われる。


 彼女も、ヘレンさんのように迫力のある美女になるのだろうか。

 それとも今の可憐さを残したまま、年を重ねるのだろうか。


 老いた彼女も見たい。近くで。


 アイスクリームを食べて、とろけた笑みをするセリアさんを見ながら、僕は未来に思いを馳せた。



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― 新着の感想 ―
お久しぶりですm(_ _)m ヘレンさんの、ウィリアムに対する「全体的にダメ」という評価が、ふんわりしているようでいて、読み進めていくとしっかり的を得ている表現だなと感じました。流石の表現力……!ジョ…
「あ、短編だ」と思って何気なく手に取って、冒頭数文を読んだら、引き込まれてしまって一気読みしてしまいました。気が付いたら二万字近くの重厚な作品で、さらにびっくり。私事ですが、そういう経験が久しぶりだっ…
とても素敵なお話でした 若い時の過ちや経験を踏まえる事で優しくなり,そしてそれは家族を温かく包んで,支えることができるのでしょう。ヘレンさんにとっても,セリアは支えであり希望であったのでしょうね。
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