おとぎ話の姉のようには…
おとぎ話を読むたびに、納得のいかなかったことがある。
どうしてヒロインはいつでも“妹”なのだろう。
どうして“姉”はいつでも意地悪な悪役か、愚かな引き立て役なのだろう。
たまに“善い姉”がいても、弟妹のためにその身や命を犠牲にする役ばかり。
姉はいつでも“脇役”。
妹の人生の物語を転がすためにしか存在していない。
世の人々はそんなにも、年下好きばかりなのだろうか。
一歳でも二歳でも年の若い方を贔屓したくなるのだろうか。
――そうとでも思わないと、やりきれない。
ただ先に生まれただけでヒロイン失格なんて、あまりにも残酷だ。
自分で選ぶこともできず、気づけば“姉”にさせられていた私は、我慢ばかりの人生だった。
親は我慢を強いる言い訳に、あまりに理不尽な理由付けをする。
「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」「あなたは、お姉ちゃんでしょ」
なりたくてなったわけでもないソレが、我慢の理由になるなんて、あんまりだ。
だったら妹の方にだって我慢をさせなきゃ不平等だ。
「妹なんだから、お姉ちゃんの言うことを聞きなさい」「お姉ちゃんに生意気言っちゃ駄目」――そう言ってくれなきゃ、不公平だ。
妹が生まれてから、家の中は全て妹中心になった。
母は妹の泣き声や癇癪に振り回されて、私の方を見なくなった。
私には「お姉ちゃんなんだから」と我慢をさせて、今聞いて欲しい話も「後で」にされた。
妹が赤ちゃんのうちなら、それも仕方なかったとは思う。
だけど妹が成長してからも、何となく出来上がってしまった“妹中心”の形は崩れなかった。
妹が生まれるまで、幼い私への声かけは「可愛いわね」が定番だった。
容姿の美醜と関係ない“小さい子”に対するお世辞だと、今では分かっている。
だが妹が生まれてから、そんな「可愛いわね」ですら、妹だけのものになってしまった。
姉の私に対する声かけは「可愛いわね」ではなく「偉いわね」に変わった。
「妹の面倒を見て偉いわね」「ちゃんとお姉さんしていて偉いわね」――私は「偉いわね」より「可愛いわね」が欲しかったのに……それは“姉”がもらえる褒め言葉ではないのだ。
親や世間は姉に“責任感”や“偉さ”を求める。
ただ可愛いだけの存在でいることを許してくれない。
姉の立場を放棄してマイペースに振る舞うと「だらしない」と思われる。
だからと言って、望み通り“姉らしく”しても、評価されるわけじゃない。
姉が“姉らしく”するのは“当たり前”で、褒めることでも何でもないのだ。
大人たちは褒める気もない“姉らしさ”を人に押しつけて、その分自分がラクをしたいだけなのだ。
世間では「“妹”は姉のお古ばかりなのに“姉”は新品がもらえてズルいじゃないか」という声も聞く。
だけどそれは、親戚や近所や知り合いに“年の近いおねえさん”がいなかった場合の厚遇だ。
実際、私は母の友人の娘だと言う、顔も知らない“おねえさん”のお下がりをずっと身に着けさせられた。
学用品も何年か経つと、デザインや生地が微妙に変わっていく――それなのに、私だけ周りと違うものを使わされて、恥ずかしい思いもした。
ただでさえ中古のソレが、私の代でボロボロになるから、逆に妹は新品を買ってもらえていた。
世間なんて、そんな風に“姉”の実情を知らないものだ。
おとぎ話の姉たちが意地の悪い性格になってしまう理由が、私には何となく想像できる。
可愛がられる“妹”を眼前で見せつけられながら我慢ばかりを強いられてきたら、性格がねじ曲がりもするだろう。
妹のために“犠牲”になることを、当たり前のように周囲から望まれれば、自棄になりもするだろう。
だけど世間はそんなどうしようもない“ひねくれ”すら許さず「妹にキツく当たるなんてとんでもない」と悪役に仕立てるのだ。
妹の苦労を見出してくれる魔法使いはいても、姉の苦しい胸の内を見抜いてくれる魔法使いなんて、どこにもいない。
おとぎ話の姉たちが嫉妬深く妹を虐める役なら、おとぎ話の妹は心清らかにそれを許す主人公だ。
だけど現実に、そんなことがあるものか。
実際うちの妹は昔から、些細なことで私を妬んだ。
「お姉ちゃんだけ先に小学校に入れてズルい」「お姉ちゃんのスカートの方が可愛い」「お姉ちゃんの苺の方が大きい」
年齢やサイズの関係でどうにもならないこともあったし、ただのひどい言いがかりもあった。
だが、何かにつけてあの子は私と張り合おうとするのだ。
成長するにつれ、あからさまに文句を言われることは少なくなったが――今でも何となく、対抗意識を持たれているのは感じる。
ロクに言葉も喋れなかった頃は“可愛い妹”と思えることもあったのに……今ではとても「可愛い」なんて油断していられない。
うっかりしていると何もかもを横取りされてしまいそうな、そんな気の抜けなさを感じる。
妹だったら無条件に「いい子」だなんて、そんなことはあり得ないのに――どうしておとぎ話は、妹を聖女のように描きたがるんだろう。
本当に嫉妬深くて底意地が悪いのは、果たしてどちらの方なんだろう?
おとぎ話を読むたびに、胸に誓ってきたことがある。
――私は絶対“意地悪な姉”になんて、なってやらない。
妹の役に立つためだけの“脇役”にも、なってやらない。
おとぎ話が望むままの、妹に醜く嫉妬して、意地悪して、断罪される役なんて、誰がなってやるものか。
妹のために犠牲になって、儚く退場していくだけの役なんて、誰が演ってやるものか。
悪役も脇役も真っ平だ。
おとぎ話に望まれない“姉”だって、人生のヒロインになりたいのだ。
醜く嫉妬するのが“悪役”なら、私はそんな感情で自分を穢したりしない。
嫉妬するくらいなら、端から気にしない。
妹の存在なんて、私の脅威でも何でもない――そんな顔をして、生きていく。
妹が私に張り合って突っかかって悪役気取りを噛ますなら、私はそれに乗っかって“心清らかなヒロイン”としてあの子を去なそう。
おとぎ話が“生まれた順番”で正邪を決め付けるとしても、現実はそんなことで配役が決まったりしない。
自分がどんな役柄を演じるのか――決めるのは、自分自身だ。
私は、あの子の“姉”というだけの私で終わったりしない。
――そう、心に言い聞かせて生きている。
現実にはまだまだ、そんなに人間が出来てはいない。
親の無神経失言に心がピリついたり、妹の生意気発言に胸がザワついたりはする。
だけど私はヒロイン気取りで「許してあげる」と上から目線で微笑う。
その方が、怨嗟に喘ぐ悪役より、ずっとずっと気持ちが良い。
他人は「自分を偽るな。心に正直に生きろ」なんて無責任に言う。
だけど、その“偽りなき正直さ”が、ドロドロの醜悪な妬み嫉みだと言うなら、私はそんな感情に囚われていたくない。
人間には、自分を“高め”に偽ってでも、強がりたい時があるんだ。
人間、油断するとすぐ他人に嫉妬してしまう。
あの子が私よりずっとずっと優遇されている気がして、羨ましくて悔しくて堪らない――そんな時も、しょっちゅうある。
だけどそんな時には、意地とプライドと強がりで、無理矢理踏ん張る。
“お姉ちゃん”だから我慢するわけじゃない。
私の嫌いな私になりたくないから、踏ん張るだけだ。
結局“我慢の種類”が変わっただけで、何かを我慢していることに変わりないとしても――幼い頃に絵本で読んで心底軽蔑した、あの“悪役”と同じになることだけは、絶対に嫌なんだ。
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