或る男の告白書
(一)
【凶器】
一.人を殺したり傷つけたりするのに使ったもの。(小学館 【日本国語大辞典 第二版 第四巻】)
白い。白い。白い部屋だった。
男がそこを訪れた際、そう感じた。一面の白。壁も、テーブルもクロスもカップも白。白以外なのは男と、テーブルに向かい合いコーヒーをすする老人。カップの中で揺れるコーヒーだけ。
これで老人の服が白かったら、長居をすると気が狂いそうだと男は黒いコーヒーを見つめた。長居をすると気がおかしくなるか、目がおかしくなりそうだった。
「今日はお忙しい中、お時間を頂いてしまい申し訳ありません。」
早く用事を済ませよう。男はそう思い、定型文を口にした。
相対する老人の一日のスケジュールが忙しくはないことを知ってはいたが、時間を割いてもらっているのには変わりはない。
まさか目も、気もおかしくなりそうな部屋で話をすることになるとは思ってもいなかったが。
「構わないよ。本来なら私が呼び出される立場だろうに、足があまり良くなくて面倒をかけてしまいすまないね」
「いえ。とんでもありません。私のお願いでありましたし、若輩が足を運ぶのが当然です」
おかしくなりそうな場所とは予想していなかっただけで、男は自分が足を運ぶのが当然と考えていた。老人の足が悪いのは男の上司から聞いていたのもあり、今日自分が行く側なのは当たり前であった。
心から男がそう思っている発言であるのを感じ取れたのだろう。無表情、コーヒーを口に含むときすら表情を変えていなかった老人の目尻が和らいだ。
「…そうか。それはすまない」
もう一口、老人がコーヒーをすする。
「今日は何の用で?私のことは君の上司や、その上から話は聞いているだろう?」
「はい。あなたがどんなことをされたのか。今このような暮らしをされているのか。それは上の者にも聞いております」
「ふむ」
では、なぜと感情の見えない目、部屋の白さが圧をかけてくるようだ。
「…コーヒーを頂いても?」
「もちろん。温かいうちに飲んでくれたまえ」
湯気を立てるそれを一口。喉から食道。胃へ流し込んで、息を短く吐く。
この部屋に足を運ぶきっかけとなった上司の言葉を思い出し、老人の目を正面から見返した。
「上の者は私に言いました。“自分は知らない。知っていてもおそらく言えない。だから直接聞いてこい”と」
人里離れたこの場所。薄ら寒さすら感じるようなこの場所に、なぜこの老人が一人生きているのか。その所業を聞いていてもここに籠る理由が分からず、興味と知らなければならないという直感が男を動かした。
「あなたは軍規を犯し、しかしながらその研究内容が有用とされ生かされ、釈放されたと聞いています。教えてください」
何故。
「あの時、神にも逆らうような研究を行い、しかもそれを軍にもひた隠しにしたのですか」
かつて軍の研究者であった老人が何を考え、そして軍に逆らうようなことをしたのか。戦争中でもなかったあの頃であったならば、軍の予算も回してもらえたと男は聞いていた。良い設備、安定した資金で研究ができるほうが良いのではないか。
老人の頭脳であれば、今でも研究所にいれたのではないか。
男の上司は老人と直接関わったことがあるという。老人がこうなった心情も知っていたに違いない。知らないと、男に直接聞きに行けと言った理由。
「なるほど…彼が知らない、と言ったわけだ」
老人が引き戸から缶と皿を取り出した。缶の中からクッキーを取り出し、男の前に置いた。
「少し長い話になるかもしれないからね。適当に摘まんでおくれ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
赤いドレンチェリーが乗ったクッキーが部屋に色を足す。
自身と男のカップにコーヒーを継ぎ足して、老人が再び腰を落ち着けた。
「さて…どこから話そうか…」
(二)
“それ”が誕生したのはもう何十年も前のことになる。
当時の科学者…私も含めた遺伝子に関する分野に携わる者が必死に研究を行っていたのは、我々人間だけではなくこの世に存在するほとんどの生物を構成するうえで必要不可欠なもの。
「DNA」。正式名称は「デオキシリボ核酸」。その生物がそうあるための情報を伝える重要な役目を持っているそれの構成…いわゆるゲノムの解析はなかなか発展が難しい分野であった。
私は望んでいた。羊や牛といった動物だけではなく人間のコピー、クローンの作成と成功を。もちろんいくら人間のゲノム解析が成功することができるようになっても、動物のクローン作製すら生命倫理の冒涜とされている。同じ科学者だけではなく、宗教界や世間一般が人間のクローン作製を認めることは到底ないだろう。
私が研究を行っていた当時でさえ、動物クローンに対して宗教界や一部活動団体から抗議が世界的に行われていた。
「現在はどうかね?」
「現在もクローン人間の作成は我が国では禁じられているはずです。国際的な宣言でも生命倫理を害すると、クローン人間の作成を禁ずるものがあります。動物に対しては宣言がないこと。宣言をどれだけの国で遵守しているかは定かではありませんが」
そうであろうな。
宗教的に言えば神の領域として、ヒトゲノム解析ができるようになった後でも私の願望を公にすることはできなかった。
当時の私は軍の所属。この研究を進めるには君が言っていたように、ある程度の設備が必要であったから軍属で研究費を気にすることがなかったのはありがたいところでもあった。
しかし軍にばれるわけにはいかなかったのだ。
「当時の私の給与はそれなりに良くてね。まあ、贅沢さえしなければ資金も貯めることができたのだよ」
「…もしかして」
「そう、予想通りだ」
私は貯めていた資金を使い、ある場所の地下へ密かに研究室を作っていた。禁忌であろうと何であろうと、当時の私に躊躇いは存在しなかった。
時を少し置いて私は独力で禁断の領域へ足を踏み入れることに成功した。ある程度の技術を確立した後、軍を辞してそこに引きこもった。もう当時もいい年齢であったからね。後進に道を譲りたい、少しゆっくり過ごしたいと理由をつけて退官したのだよ。
「僕の上司とはそのくらいに知り合われた、であれば退官のご年齢が少し合わない気がするのですが…?」
「まあ、まだ序章だよ。計算が合わないのはすぐにわかるさ。」
コーヒーで喉を潤し、老人は話を続けた。
「君もこの界隈の一端に属しているなら、クローン作製の課題を知っているだろう?」
「ええ。テロメアですね」
「その通り。それは当時も同様だった」
動物クローンが成功した当時から、遺伝子の中でもテロメアの欠陥が課題となっていた。
君は知っているだろうが、とても簡単に言うとテロメアはDNAの端を保護しているようなもの。保護役のテロメアに欠陥が生じることの問題。それは細胞の生死の話になる。
生物を構成している細胞は分裂を行う度に一定の長さのテロメアが削られていく。そうしてある長さまでテロメアが削られると、その細胞は分裂を止めてしまう。極端に表すと、分裂を終えた細胞は細胞としての死を迎えたようなものである。
つまり、最終的には生物としての死を迎えることに繋がってしまう。
人間だけでなく、クローンの生物はこのテロメアの長さがゲノム提供元となった生物と一緒になるためか、通常より寿命を迎えるのが早いなどの問題がどうしても発生していた。だが、私は自身の研究室の培養ポッドにてその難問もそれ以外の遺伝子的問題も乗り越えた“成功体”をついに誕生させた。
(三)
その成功体を私は“イヴ”と名付けた。このクローンの遺伝子の元である、亡き妻の愛称だった。
元々培養液から出すまでに、ある程度の年齢に見えるくらい成長させていた彼女は、クローンなので当たり前ではあるのだが妻の面影をそのまま残していた。
もう何十年も前に妻が逝ってから、私は逃げるように研究に没頭していた。心の中の寂しさをどうにか消したかったのだ。
幼い時分より周囲と馴染むことがうまくできず、研究員としても変人のレッテル張りをされていた私を愛してくれたのが、両親以外では妻一人だけ。そんな妻にどうしてももう一度会いたかった。そのためなら禁忌など恐れはしなかった。天命とはいえ、私から妻を奪った神を憎く思いもした。
同時に研究にかまけていた自分を許せずにもいた。
寂しさと憎しみと、自己嫌悪が私を禁忌に足を進ませ、“イヴ”を生み出してしまったのだろう。
彼女がポッドから出た後の日々はまるで親子のように、恋人のように、あるいは長い時を共に過ごした老夫婦のように、私たちは一緒にいた。
彼女はよく微笑みを浮かべていた。それは私が一番好きな妻の表情と全く同じものだった。一緒に過ごすようになってからの日々はとても楽しかった。長年抱えていた寂しさから解放された。そう、思っていた。
けれども神は。世の中は、禁忌を侵した人間に甘くなかった。
他言したことがない私の隠居先へある日軍部の人間が来たのは、“イヴ”が誕生してから三年は経ったある日のことであった。
「君は十数年前に軍部で戦争準備が進められていたことを知っているかね」
「上司から少し」
「なるほど。君にそういう話をしたうえでここに来させているわけか」
老人が立ち上がり、レースのカーテンが引いている窓に足を向けた。
指でつっとカーテンをよけて、晴れた空が広がる外を見た。
「“イヴ”が生まれて三年くらい経ったある日のことだった」
他言したことのない私の隠居先に軍部の人間がやってきた。
奴らがやって来る少し前から、軍部には良くない噂が流れているのは知っていた。隣国との関係が最近あまりよろしくない。いつの日かのための用意を、一部政府の人間と軍部上層部が進めていると。
普段することのない、複数の足音に不思議に思った私は、窓から見えたそれらの影に背筋が凍ったのを覚えている。
軍の研究機関を辞してからの私は、既に公の場から半ば以上姿を消していた存在だった。過去の論文や研究成果があるだけの存在。そんな奴の所に、軍部の人間がやってくる理由など一つしかない。クローン技術を、“イヴ”をどうにかする気だとすぐに理解した。
彼女を守らなくてはと必死で考えを巡らして、予め有事を想定して準備していた仕掛け扉の向こう側。彼女が誕生した地下の研究室へ隠した。彼女が隠れ、隠し扉の鍵をかけて少ししてから、玄関を蹴り破って奴らは入ってきた。
「単刀直入に聞こう。お前、人間のクローンを作ったな」
侵入してきた軍人たちの中で一番階級が高いと思われる将校が、開口一番にそう訊ねてきた。予想していたそのままの問いだった。
私は黙って首を横に振った。不思議と心臓は落ち着いていた。彼女が助かるならば死んでも悔いはない。その思いからであった。
「お前の以前の関係者が言っていたぞ。お前と、今は死んでこの世にいないはずのお前の妻にそっくりな姿をした、『クローン』でなければありえないほどにそっくりな女と一緒にいると」
他者に漏らしたことのない、彼女の情報がどうやって流れたのかなど、深く考えている余裕はさすがになかった。どこからか姿を見られたのかも知れないし、街に買い出しへ出た際にうっかり話してしまったことがあったのかもしれない。
もう一度。私はゆっくりしっかりと首を横に振った。
「それは亡き妻の親戚を見たのではないかな?機関に所属していた際に私の研究意欲は全て注いできた。この有様をみたまえ。今はもう研究などから離れてゆっくりと余生を過ごしていた最中であったよ」
応対している部屋を始めとして、目に着く場所に研究の名残は漂わせていない。あっても私が表舞台から姿を消して以降に発表された機関誌や、研究分野に関する著書があるくらいだ。引退したからといって、研究分野に関する書物があるのは何ら不思議ではない。隠し部屋が見つからない限り、彼女やクローンに関する自分の研究は分からないはずである。
「ほう…」
薄らと将校が笑った。嫌な笑い方であった。ブーツの踵を鳴らしながら猛禽のような目が、ぎらりと私を見ていた。
「勝手ながら」
将校とは別の軍人が集団の中から一歩前へ出てきた。
「博士の家族構成、そして奥方の家族構成全て調査させていただきました」
どきりと心臓がはっきり音を立てた。家までばれていたのだから、ここまで調べてきていてもおかしくはない。なぜそこに考えが至らなかったのか。
「調査の結果、奥方の家族親戚で現在存命の者の中に女性はいません」
「それに」
部下の言葉に将校が続いた。
「その机の上のマグカップ。まだ湯気が立っていることから、中身を入れてから時間はさほど経過していないようにお見受けする」
「近所の方が見えられてね。君たちが来る少し前に帰られたけれども」
やれやれと、わざとらしく将校が肩をすくめた。
「私は回りくどいものが苦手でね…。もう見え透いた嘘は終わりにしないか」
白い手袋に包まれた将校の指が窓の向こうを指した。
「この家の半径百メートルほどは私の部下が一時間以上前から張り込みをしている。その間、博士が言われたような人の出入りの報告は、一切ない」
にやりと将校が哂った。
私の視線が僅かに湯気を立てていた二つのカップへ向かった。ああ。すまない。“イヴ”。
死ぬ覚悟をした私の額に、ひやりと金属の冷たさが触れた。
「さて案内してもらおうか。禁断の領域とその具現を」
二、三人がかりで私の体が拘束される。
黙したままの私へ標準を全くぶらすことなく、銃口が冷たい脅しをかける。それでも臆さず黙っていられたのは彼女のためならば、死は恐ろしいものではなく尊いものとすら感じたから。私が黙っている限り、研究室の在処は分かりやしまい。一人の元研究者が消えるだけであった。
研究室には一週間を過ごすことのできる飲食物を置いてある。更には私が三日経っても呼びに行かない際は、一緒に隠した金を持って研究室から通じる裏口から逃げるように“イヴ”には言い聞かせていた。
しかし、運命は皮肉なものだった。
拘束され、床に転がされた私のポケットから小さな音と共に、隠し扉の鍵がこぼれ落ちた。当然見逃されるはずもなかった。床を張った私の手よりも早く、ある軍人の手が鍵を掴んだ。沈黙が意味を失くした。
あとはもう言葉にならなかった。
暴かれた隠し扉。それが開かれる音。複数の銃口を突き付けられ、死ぬこともできず彼女の元へ向かうことしかできない、拘束されたままの自分。
暗闇の研究室。点けられた照明。かたりと立った物音。一斉に向けられた軍人たちの視線。どうか、どうかネズミや何かが倒れた物音であれば。願っても願っても、届くことはなかった無意味で無慈悲な神への祈り。
物音がした場所へと足が進む。音が立ったそこには、いないことを願った影が一つあった。
彼女は生まれたポッドの陰に隠れるよう、目覚める前と同じく身を丸めていた。
「ほう…。これが……」
将校の口から漏れたその言葉は、決して感嘆の類いではなかっただろう。
“イヴ”の存在は軍にとって、一部政府関係者にとっては都合が悪い存在。それ以外の何物でもないのだから。奴らにとって都合の悪いものの行き先は「消去」。他の選択肢はほとんど存在していない。仮に気まぐれで生かされても拘束・監禁が待ち受けている未来のいずれかだ。
傍らの部下へ将校が何かを耳打ちした。指示を受けた軍人が丸まっていた彼女を立たせた。“イヴ”は一切の抵抗を見せなかった。私が銃口を向けられて拘束されていたからかもしれない。いや、賢い彼女であったからどうなるか分かっていたのかもしれない。
私は叫んだ。彼女の傍へ行くことも許されない代わりに。彼女の穏やかな瞳が私を映した。彼女は私が愛してやまない妻と同じ顔で微笑んでいた。私が一番好きなその表情で、何一つ臆する様子を見せずに。
ガチリと撃鉄の上がる音がした。彼女に向けられたのは将校の拳銃。それでも彼女は私から目を背けることをしなかった。私が目を背けることも許さず。
ただ。ただ静かに微笑んでいた。
「よく見ておけ。貴様の犯した罪の末路を」
将校の指が引き金にかかって、そして一瞬のことであった。狭い研究室に響いた銃声。発砲後特有の硝煙と火薬臭。支えもなく倒れていくだけの彼女の体。次第に強くなっていく鉄混じりの臭い。
床に散った彼女の血は私たち人間と変わらず紅く、熟れた林檎すら連想させた。
“イヴ”は最期まで私に微笑んでいた。まるで聖母のように。私の罪すら受け入れ赦すかのように。
彼女を聖書のイヴだとしても、生み出した私は神などでは決してない。
私は、私の存在はイヴが楽園追放になった原因である知恵の実を食べさせた蛇以外にはなれない。
仮にこの世を楽園とするならば、意図せずして“イヴ”を楽園から追放させた片棒を担ったようなものだ。妻のクローンである“イヴ”の番のアダムにすらなれなかったのだ。
そして。彼女の命を奪ったのはあの拳銃から放たれた一発。それは間違いない。
けれども、本当の意味で彼女の、“イヴ”を殺した凶器は違う。
本当の凶器は彼女を生み出した、私のどうしようもない弱さ。妻を失った弱さに負けて私は“イヴ”を生んだ。私の弱ささえなければ、彼女はあんなことにならずに済んだ。
私の弱さ。それが“イヴ”を殺した真の凶器であった。
(四)
老人は自らの過ちを語り、一息つくかのようにコーヒーを口に含んだ。乾いた口を潤し、老人はその後を語った。
その後の老人は、即日軍が所持している研究施設へ研究顧問という名目の幽閉の身となった。軍は“イヴ”を作製した老人とその技術を利用しようと、彼女の目撃情報が手に入った時点で画策していたようであった。
「だから私の上司と直接関わりがあったのですね。あの人が、あなたの研究を引き継ぐような形だったと」
「その通り」
軍上層部の人間に何かあった時の代用、例えば病に侵された箇所の移植。クローンであれば拒絶反応などのリスクは格段に減少する。また病だけでなく、怪我を負った際にも応用することができる。
そして人類が古来より願った不老不死も可能までとはいかないが、テロメアの減少などを解明、技術の発展で寿命を延ばすことも可能になるかも知れないと、政府と軍は目を付けたらしい。
しかし“イヴ”の存在が露呈すれば、宗教界など各方面からの非難は免れない。そうなるとクローンとそれに関する技術を私用した研究を行いたい者たちとっては非常に都合が悪い。
そのために彼女は殺された。存在を抹消。老人の存在は一部を除き、ひた隠しにされることとなった。 「君は最初に私へ問うたね。“神にも逆らうような研究を行い、しかもそれを軍にもひた隠しにしたのか”と」
男は一度頷いた。
「私はね。ただ、もう一度妻に会いたかった。私には彼女しかいなかった。研究のことを軍に言って協力の元に進めることができても、きっと彼女は笑ってくれなかっただろう」
これまで無表情だった老人の目尻が下がった。
「彼女がそばにいて、笑ってほしかった。研究を行った理由も、軍にひた隠しにした理由もそれだけだったのだよ…この弱さが彼女の凶器だったのに、私はそれでも今でも…」
言葉が途切れた。
何と声を掛けたらいいのか。言葉に詰まり、男は出されたコーヒーを口にした。冷めたコーヒーはほんの少し苦かった。
「そして私は生かされた。どうせならばあの時に一緒に殺してくれればよかったのにな」
“イヴ”の遺体に触れることは許されず、秘密裏に処理されたと老人は続けた。灰も何も残すことは許されなかった。更には老人が二度と目の届かない範囲でクローン作製を行わないように、“イヴ”の元となる妻の遺髪も処分されたようである。
それすら神から老人への罰と言わんばかりに。
結局、軍へ彼女の情報を漏らした者が一体誰かを、老人は知らないという。これからもきっと知ることは叶わないのだろう。欲に目がくらんだ者かもしれないし、目をつけた軍がでっち上げた偽の情報だったかもしれない。
もしかしたら禁断の領域を侵したことに対して神からの罰だったかもしれない。可能性を上げればいくらでも上がってくる。判明したところでその者や神を恨む気持ちは全くないと、男は老人の悲しみを聞いた。
二人の“イヴ”は、もうこの世にはいない。そのうち一人は老人が殺した。それは何をしても変えようのない事実なのだから。
男は上司が語らなかったわけを悟った。
妙なところで情のある人間である上司は、男が軍属研究者としてどうありたいか。かつて起きた事件は話せども、自身でその先を知って考えろという気持ちだったのだと。
「実をいうとだね。君の上司から、君の話は聞いていたんだよ」
今日やって来る以前に、見込みのある研究者が入ったと。軍部と政府の闇が暴かれ、老人が幽閉されていた時代の派閥などは今や解体された。
老人の目の前にいる男は、この先の未来の一つだと。
「君はこれから多く迷い、選択していく。その先で自分が思わぬところで凶器を握っている。それをどうか、忘れないでほしい」
これまで淡々と話を紡いでいた老人の声が震えている。
男は再び頷くことしかできなかった。
「最後に、一つだけ聞いてもよいでしょうか?」
クッキーがなくなり、白が増えた部屋で男が尋ねた。
老人が無言で先を促す。
「どうしてこの部屋はこんなに白ばかりなのでしょうか」
「白ばかりで目がきついかね」
「いえ…」
「それともおかしくなりそうか?」
「えっと、その…はい、正直ずっとこの部屋で過ごすのは怖いと、失礼ながら…」
「いいや構わないよ。暗いとだね。だめなんだ」
白い皿が光を反射する。
「暗いとまた私は逃げてしまうだろう。だからもう逃げないように。私が何をしたか、自分の罪から逃げないように。だから白いのさ。少しの黒でも見えるように」
そうして男は老人の白い家を辞した。
あの家が建っている場所は幽閉以前に住んでいた場所に似ているため、老人が解放される際に終の住処として願ったという。形だけの妻と“イヴ”の墓も許可を得て作ったらしい。
研究所に戻りながら、男は上司への報告を考える。
自分もどこかで持つかもしれない凶器の存在と、老人の手には凶器がもうないことだけは伝え忘れないようにと誓いながら。
<了>