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二か月がすぎた。もちろん、あの奇妙な合宿の旅からだ。
今日は高校の文化祭で、僕は朝から化学室の一箇所でうたた寝を繰り返していた。先輩たちは、いつの間にやら文化祭の準備を終え、プラネタリウム用の暗幕やテントも設置し終えていた。プラネタリウムは、暗幕で覆ったテントの中で、投影機から放射される画像を暗幕に映し、色々な星座の説明をする方式らしい。
それにしても、文化祭がはじまって二時間も経ったのに、客は誰も来ていない。この化学室に、時間ごと取り残されたような気分になる。化学室を一歩外に出れば、やかましいぐらいの音量を聞かされるし、ドアを開けておくだけで、いちいち窓の外に見える校舎を確認して「そうだった。今日は文化祭だ」ということを思い出す必要もないのだが、先輩も僕も、そんなことはしなかった。ただただ、この静かなときの進みを味わっていた。
何回目かに外を見やったとき、玄関に何人か私服の人間がいることに気づいた。その中に女性二人組みがいた。漠然と親子かなと思った。ひとりは母親という雰囲気をしていた。もうひとりは、髪が長く背が低い少女のように見えた。僕はすぐに視線を化学室内に戻したが、その親子と思われる片方の女性が、どこかで見たことのあるような背格好をしていたので、脳にその後ろ姿が刻まれていた。
そう、この学校を去った同級生……彼女の身長や髪の長さが符合しそうだった。
――まさかね……。
僕はまた、うたた寝を開始した。
沈黙が破られたのは、化学室をどんどん叩く音がしたからだ。僕はその音に叩き起こされた。目の前で堀先輩も、目をゆっくりと開けた。僕はなんとなく、いつから先輩はこんな近くで寝ていたのだろうと考えた。
「はいはい」
桜井先生がそう言いながら、ドアを開けた。鍵なんかないのだから、さっさと入ってくればいいのにと思いながら、またうたた寝を開始した。しかし今度は、すぐに叩き起こされた。文字通り、叩かれた。しかも後頭部だ。
「いってー!」
言いながら後ろを振り返ると、口を半円に描いてほほえんでいる人の顔があった。
「おはよう。久しぶりだね」
「……ああ」
僕は、まだ目も耳もはっきりと能力が起きてこないから、それが誰であるのかがわからなかった。だが、嬉しそうな桜井先生のソプラノが耳にとどき、
「ほらみんな! 夜椅ちゃんよ!」
やい……ヤイ……夜椅=真乙さん。その結びつきが成り立った。そしてようやく、「久しぶり」と僕は言った。
「まったく、真乙さん。人を後ろから叩くなんてどうかしている。今後一切、そういうことはしない方がいいよ」
「まったく、赤木くん。人がせっかく来て上げたのに、その言い方はないと思うよ」
真乙さんは、あの日とかわらない笑顔を浮かべ、白い歯を見せた。
僕らが話していると、先輩たちも集まってきた。
「真乙が私服……合宿のときも思ったんだが、似合わん……」
「まったくもって言えてる」
「年齢詐称だろう。ぜったい中学生だ」
伊森先輩、堀先輩、高島先輩の順に嫌味を言った。真乙さんは激怒し、いつか見たコントのようなやり取りを僕は傍観した。それにしても、真乙さん。あなたには、スカートより長ズボンの方が似合いますよ。……言わないでおいた。
「で、真乙さん。向こうで友達はできましたか?」
一段落したとき、僕は聞いた。真乙さんは伊森先輩の座っている椅子を蹴ってから、僕の方に振り向いた。
「まだ、学校がはじまって一週間だよ。まだまだ無理さ。でもすぐになんとかなるさ」
彼女は笑顔でそう答えた。
「そうか……それじゃ、大丈夫だね」
「もう、君の助けを借りる心配はないよ。……ところで、アドレス教えてあげたのに、なぜ一度もメールをくれないんだい?」
「メール? 僕からは送りませんから、暇ならあなたから送りなよ。適当に返事は返すからさ」
僕は、先輩と同じように椅子を蹴られ、バランスをくずした。なんとか姿勢をたもって座りなおしたとき、ただ広い化学室が笑い声であふれた。
あの日と同じように笑っている。かわったことといえば、僕が真乙さんに対して敬語をあまり使わなくなったことくらいだ。そう考えると、彼女がいなくなったことは惜しむことなのかもしれない。
その日は、文化祭終了ギリギリまで真乙さんは化学室にいた。彼女がやってきてしばらくすると、彼女の小母さんもやってきて桜井先生と意気投合していた。そして帰り間際、
「それじゃあね」
別れを告げる真乙さんに、最初から最後まで飄々とした態度を貫いた僕は、やはり飄々として、
「それじゃまた。いずれどこかで会いましょう」
と応えた。
「…………」
「どうした?」
「え、いや……また会いましょうなんて、言われると思ってなかったから」
真乙さんは微苦笑を浮かべた。
「もし君が僕を友人と認めているならば、またどこかで出会えるかもしれないでしょう。だからその日まで、いちおうお元気で」
僕がそう言うと、彼女は「それもそうか。それじゃあ、またいつか」と、化学室を去っていった。
――またいつか、会えるかな? 来年の文化祭ぐらいに?
僕は、すこし前ならどうでもいいようなことを考えて、またうたた寝をはじめることにした。
土曜日の午後、世界から閉ざされたような空間で、友人の流していた涙を思い出しながら、以前よりはすこし明るくなった夢へと落ちていった。
以上で『Holiday-Night Train-』は完結です。これまでお読みいただき、誠にありがとうございました。