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真乙さんは携帯電話を耳にあて、話しはじめた。
「あ、はい……伊田さん? どうしたの? いや、べつに迷惑じゃないよ。……相談したいこと? うん、ちょっと待って。
……すこし、外に出てるね」
僕に目配せして、真乙さんは部屋を出ていった。一瞬向けられた目が、色彩と光沢を失ったビー玉に見えた。なぜ、そんな悲しい目に見えたのか、僕はわからなかった。
「どうやら、夜椅ちゃんは友達には困っていないらしいね」
尚彦さんが、安心したようにつぶやいた。
「それは、どういうことですか? 彼女、けっこう明るくて人当たりがいいから、友達ならたくさんいそうですけど?」
尚彦さんの心配が、僕の知る真乙さんには当てはまらないような気がして、聞いてみた。すると尚彦さんは、失言したようにはっと目蓋を大きく開いて、僕の目を直視した。僕も、聞いちゃいけないことだったのか、と身構えた。
「いや、それは……。うーん……どうしたもんかな」
本当に尚彦さんは困っているらしく、右手で首を掻きはじめた。でも、今の質問はそれほど返答に困るものだっただろうか? 真乙さんは彼の姪っ子だ。楽しい学校生活を送っているようなら、彼女の素行を知っていても思わず口に出してしまうかもしれない。それでも、口ごもったりはしないだろう。今の尚彦さんは明らかに、なぜ自分がそうつぶやいたのか理由がわかっていながら、僕の言及の答え方に困っている。
「うーん。昔は夜椅ちゃんそんなふうじゃなかったからね」
「そうだったんですか?」
そうか、二人が最後に会ったのは去年らしい。それまでは、真乙さんも内気な少女だったのかもしれない。しかし、彼女は高校生になって開花した。いわゆる高校デビュー。なるほど、そういうことか。……真乙さんが?
「昔、夜椅ちゃんは……っと、君は夜椅ちゃんから聞かされているかもしれないな」
何か言いかけて言いよどんだ。僕の目を真っ直ぐ見て、かわりに謎の言葉を吐いた。
「なんのことですか?」
「……夜椅ちゃん、小さいころ事件に巻き込まれたんだ」
さっき真乙さんが『気が置けない仲』の意味を勘違いして放った言葉を聞いたときのように、尚彦さんの言った言葉を、ひとつひとつ脳で繰り返した。そして、意味を理解した。
「その反応じゃ、聞かされていないみたいだね」
「事件に……巻き込まれた? どういうことですか? 何があったんですか?」
いつもなら、僕は他人の過去なんかに興味を示さないのだが、これまでに身の上話で聞いたことのない単語をはらむ過去、しかも真乙さんに起ったことなので深入りした。
「いや、やっぱりやめよう。このことは、聞かなかったことにしてくれないかい?」
「興味があるので、知りたいのですが」
どんな事件に巻き込まれたのかは知らないが、どんな事件であり、他人に話せるわけがない。そんなことはわかっているのだが、どうしても聞きたいという気持ちが前面に出た。
まったく、柄じゃない。わかっているが、食いさがっていた。
「……まあ、君は夜椅ちゃんと仲がいい。だから知っておいてくれた方が、夜椅ちゃんのためかもしれないな」
尚彦さんは難しい顔を解き、前置きをしてから話した。
「夜椅ちゃんが六歳のとき、ちょうど幼稚園を卒園した春休みに、家に強盗が入ったんだ。そのとき家に夜椅ちゃんはひとりで、その強盗に刃物で首筋を軽く切られた。さいわい、姉――つまり夜椅ちゃんの母親だが――はすぐに帰ってきたから、強盗は逃げ出し、夜椅ちゃんの治療もすぐにできた。だけど……」
そこまで話して、彼はいったん話を切った。テレビドラマだけかと思っていた話で、予想の範囲をこえている僕としては、途切らず話を進めてほしかったのでたたらを踏む気分だった。
「だけど……?」
尚彦さんの言葉を繰り返してうながすと、彼は重そうな口を開いた。
「だけど、夜椅ちゃんはそのショックで、事件以前の記憶をほとんど失くしてしまったんだよ」
頭が混乱した。つまり、それは記憶喪失……あの真乙さんが? 信じられない……!
「あの人、そんな暗い過去があったんですか……」
「うん。何もかも忘れてしまって……。事件以前から、姉夫婦は東京に引っ越す予定があったから、事件のあった三日後には静岡を離れたんだ。姉としては、夜椅ちゃんを知る友達が学区とかの関係でひとりもいない静岡の小学校に進ませるよりも、新しい土地で新しい友達と巡り会った方がいいだろうって思ったんだろうね。あの子は事件前までは友達がたくさんいるような明るい子だったんだけど、友達がすくなくなったのはそのあとからかな……」
尚彦さんの話は、やはりヘビーなものだった。誰が、無鉄砲気味な真乙さんの表情の裏に、そんな過去を背負った少女の面影を見ることができる? 誰もできないだろう。それほどまでに、彼女は明るすぎる。
そんな過去があるなら、自分の殻にこもってしまうことも考えられる。だが、そんな雰囲気、一度も感じたことはない。どうやら僕は彼女に対して、間違ったとらえ方をしていたらしい。今までは、どこにでもいる気楽な女子高生として、僕はとらえていた。しかし、それは間違いだったらしい。
しーんと室内は静まり返った。電車の振動音も消え、人が二人存在しているだけの感覚だけがあった。
その沈黙の中、携帯電話が鳴った。
電話は尚彦さんのものが鳴った。
「ちょっとごめん。……もしもし? あ、こんばんは……え、今? はい、いちおう時間は取れるんですが……」
尚彦さんの言葉から、僕は退室した方がいいと悟り、椅子から立ち上がって部屋を出た。出る前に、尚彦さんに礼をするのは忘れなかった。
「またおいで」
電話を押さえて、そう言ってくれた。僕はありがとうございますと言って、ドアを閉めた。
車両の出入り口で、開閉ドアでもたれるようにして、真乙さんが携帯電話を握りしめてデッキに座っていた。彼女の真上に位置する窓には何も映っていなかった。
「どうしたんですか、そんな場所に座ったりして?」
僕が声をかけると、彼女は安心したようにくだけた笑みを浮かべた。
ゆっくりと、それも苛つくぐらいゆっくりと彼女は立ち上がり、もう一度ほほえんだ。
「どうしたんですか?」
再度尋ねると、「立ち疲れただけ」と言った。
車両は、瀬戸内の海を渡る巨大な橋の中に入り、こぉーという音が車内を包み込んだ。マンガやSF映画に出てくるタイムマシーンに乗っているような気分になった。
「夜だから、海もよく見えないね」
残念そうに、真乙さんが窓を覗き込んでつぶやいた。陽があるうちなら、前回バスから見た陽の吐息を優しく受け取り留めているような波と光の風景が見れたはずだ。今は、アスレチックのように組み立てられた鉄骨群があるだけだ。
僕らは寝台に戻った。
真乙さんは、自分の寝台にうつ伏せになって、そなえつきの窓に目を向けた。うつ伏せのまま、自宅のリビングにいるようにくつろいでいる彼女は、アザラシとかわりはないように思えた。尾ではなく、足をばたばたさせている。魚ではなく、おもしろい話を与えれば大喜びするのではないかと思った。
「真乙さん、僕の昔話を暇つぶしに聞いたりしませんか?」
僕は通路に立ったまま、寝転がっている真乙さんに問いかけた。彼女の真下にある寝台では、堀先輩がうつ伏せで寝ている。
彼女の過去を、彼女の許可なしに知ってしまったのだから、僕の過去もばらすべきだ、と気まぐれから考えたので言ってみた。
「あら、珍しい? どうしたのいったい?」
「ですから、暇つぶしにですよ」
体の向きをかえて、寝台から僕を見下ろす。何をたくらんでいる? 真乙さんの目は、そういった疑いの色が見えた。
「まあ、いいや。君の過去を聞くのも、おもしろそうだし」
梯子を降り、彼女は僕の寝台に腰かけた。
「……立って、話せと?」
「もちろん」
「…………」
いくら押し黙っていても、真乙さんは早く話してよと急かせるだけだった。
僕は咳払いをし、通路の窓にもたれながら話した。