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尚彦さんの部屋は遠く感じた。さほど距離はないのだが、行きたくないという僕の意思から、感覚的に部屋を遠ざけたのだろう。
「そういえば、尚彦さんって苗字はなんなんですか?」
七号車の扉が開くのを待って、僕は真乙さんに聞いてみた。彼女はそっけなく、「森村。森の村」と答えた。
「明日の朝も訪ねようかな? ねえ、どう思う?」
尚彦さんの部屋のドアをノックしながら、真乙さんが尋ねてきた。何を聞いているんだと思いながらも、答えた。
「さあ。森村さんが平気なら、身内だし、べつにいいんじゃないですか? でも、僕は遠慮しますよ」
言い終えると同時に、ドアが横にスライドしながら開き、中から尚彦さんが現れた。僕に文句でも言おうとした真乙さんは、声のやり場が増えたせいで話す相手に困った。
「おや、もう来たのかい? 早いね」
呆れたというより、それを予感していたように、穏やかでいて朗笑しそうな雰囲気を尚彦さんはかもしだしていた。
「夜椅ちゃんは、いつから行動派になったんだい?」
尚彦さんがそう言うと、真乙さんは照れたように微笑した。いや、わざと照れたんじゃないか、と考えをかえた。
「さて、君は?」
怪訝そうな目をして真乙さんを見ている僕に、彼は興味深そうに聞いてきた。
「あ、僕は――」
「彼はね、私と同じ学校で、同じクラスの赤木くん。バスで全国をさまよいそうなところを、私が捕獲したの」
僕の言葉は、むなしく真乙さんにさえぎられた。宙に薄れ、消えていく言葉が具現化して見えるようだった。
「ちょっと待って、真乙さん。捕獲って……」
にっこり笑顔のまま、真乙さんは僕の背中を叩いた。叩かれた場所から、アリがうごめくような感覚が湧き出た。いわゆる、生理的嫌悪。
「そうか。赤木くん、よろしく」
僕は軽く辞儀して「こちらこそ」と言ったが、弱々しいものとなった。それでも、尚彦さんは満足そうにほほえんだ。
「さて、ここで話していても立ち疲れるだけだ。中に入りなさい」
部屋の中に一歩下がり、尚彦さんは僕らを招き入れた。
「おじゃまします」
「失礼します」
彼の部屋は、先に見た二部屋とはまた違っていた。ベッドに横になっても、天井の曲線部まで窓が迫っているので天上が見える。他に、机まである。たぶん、客車の中で一番高い部屋であろう。
「すごい……」
真乙さんは感嘆し、
「…………」
僕は無言になった。真乙さんじゃないけれど、好奇心がくすぐられる。
「何ももてなすものはないんだ、悪いね。まあ、座りなよ」
ベッドを指差して、彼は机の椅子に座った。「どうも」と真乙さんが座り、彼女の三〇センチほど横に、「それじゃあ……」と座った。
「この間は何?」
めざとく真乙さんは指摘した。
「気にしないでください」
手を振って、偶然的なものだと主張しようとしたが、彼女は関係なしに続けた。
「そんなに、私が近くにいるのが嫌なの?」
「は……いや、いえ」
「…………」
「……それじゃあ『女性恐怖症』ということにしといてください」
「本当なら、大変だね」
「まったくもって」
話者自身奇妙だと感じる会話を、尚彦さんはほほえましそうに眺めていた。僕は授業で指された問題を間違えてしまったときのように、場都合が悪くなった。
「君たちは仲がいいね。コンビでも組んで、お笑いでもやれば? 夫婦漫才?」
尚彦さんの冗談に、僕は凍りついた。
「叔父さん! 冗談にもほどがあります!」
冗談とわかりきった口調で、真乙さんが怒鳴る。尚彦さんは笑ったが、僕は複雑な心境だった。指先で背筋をなでられるような、こらえがたい寒気がした。
「あら? 赤木くん、どうしたの?」
笑いながらも、すこし不気味そうに真乙さんが僕の顔を覗き込んできた。
「まさか、本気にした?」
「…………。そんなことがあったら、僕は今頃、遺書を書いていますよ」
わけのわからないことを言いながらも、赤面するのがわかった。それは、恥ずかしさからではなく、呆れや戸惑いから、頭が混乱しているからだ。
「そういう言い方されると、けっこう傷つくよ」
「そんなか細い神経、あなたが持っているようには、到底思えません」
「言ったな!」
耳元で騒ぐ真乙さんから目を逸らし、尚彦さんに助けを求めたが、彼は笑っているだけだった。
「ハハッ。やっぱり二人は仲がいいよ。気が置けない仲とは、まさに君らのことだ」
「いや、そんな仲ではないですよ」
真乙さんと仲がいいと、僕は思わない。
「そうですよ。気が置けないって、私たちそんな仲じゃありませんよ!」
僕に続けて、真乙さんも怒声を上げた。意外なことに驚き、僕は嬉しいような、悲しいような気分になって彼女を見た。
「気を使ったりはしてませんよ! 赤木くんとはとってもフレンドリーですよ」
しばらく僕も尚彦さんも沈黙した。どうも、真乙さんの言葉が矛盾しているのだ。たぶん僕も尚彦さんも聞き間違いではなかろうかと思っていたから、すぐに指摘することができなかったのだ。
「夜椅ちゃん、もしかして『気が置けない仲』の意味をは間違って覚えてないかい? この言葉の意味は、『気を使う必要もない仲』というんだよ」
尚彦さんの説明に僕は首を縦に振ることで相槌をうつ。真乙さんは理解できていないようで、「え? え?」と僕らを交互に見た。
「……え、だって……ああ、うん。なるほど……知らなかった」
「まあね。よく間違えられる言葉だ」
と、部屋の中に電話の着信音が鳴り響いた。鳥の赤ん坊のような、弱々しくも、持ち主に伝えるという固い意思がこもった着信音だ。
僕らは肩を震わせたが、すぐに各自、自分の携帯電話を確認する作業をおこなった。
鳴ったのは、真乙さんのものだった。