第8話
秋川と別れて家に帰ると、門の前を行ったり来たりする橘を見つけた。
「……おい、橘。何で中に入らないんだ?」
俺の呼び掛けに驚いて振り返る彼女。
「あ、あの……亜季ちゃんから聞いて……だから私…」
「ほらっ、タロウ達が待ってる」
そう言って橘の手を掴むと、2人で家の中へと入った。
「ただいま。母さん、橘が来たよ」
俺の声が聞こえたらしい母が、家の中から出てきた。
「まぁっ、更紗ちゃん! 来ないから心配してたのよ」
「おばさん……ごめんなさい」
「母さん、橘は風邪をひいていたから、みんなにうつさない様にって来なかったらしい」
俺が空かさず答えると、驚いた表情を浮かべた橘に心配そうな様子の母が訊ねる。
「そうなの? 大丈夫?更紗ちゃん」
「あ……はい」
小さく頷きながら答えた彼女に、母は『無理はしないでね』と安心した様に言った。
「あり…がとうございます。心配してくれて……嬉しいです」
「何、言ってるの。当たり前でしょ。さっ、タロウ達に会ってあげて」
母はそう言うと、橘の手を掴み庭の方へと向かった。
「タロちゃんっ! 会いたかったよー かえでちゃんもけいとも!」
「わんっ」
「くぅーん」
「みぃ」
1人と3匹が久しぶりの再会に、大騒ぎしている。
「うるさいぞ……橘」
俺がそう呟くと、彼女は慌てて謝って来た。
「ご、ごめんね。煩いよね……」
「雅樹、更紗ちゃんを苛めるのは止めなさいよ。本当は自分だって嬉しいくせに」
俺達の会話を聞いていた母親が呆れた様に口を挟んだ。
「なっ……俺は別にっ」
「はいはい、照れないの」
焦る俺を無視して、母は橘に笑顔で話し掛ける。
「更紗ちゃん、一緒に散歩に行きましょう?」
「はいっ」
嬉しそうに頷く橘を見て、俺も何故かホッとした。
「あ、雅樹。あんたはけいとと留守番ね」
母はそう言うと、けいとを俺に手渡し、橘と2人でタロウとかえでの散歩へ出掛けて行った。
「みぃー」
俺の腕の中でけいとはこちらを見上げて鳴いた。
「置いて行かれたな、俺達」
けいとに向かって呟けば、腕の中の子猫は気持ち良さそうに眠りについた。
そんなけいとを見ながら、俺は小さく息を吐いた。
散歩から戻ると橘はタロウやかえでの足を丁寧に洗った後、『帰ります』と言ってバッグを手に一礼し玄関へ向かおうとした。
「更紗ちゃん、良かったら家でご飯食べて行って?」
彼女の背に母が声を掛けた。
「あ……でも……」
振り向くと困った様な表情で、俺達の顔を見た。
「たまには……食べて行けば?」
俺がそう言うと、何故か母と橘が驚いた。
「何だよ?」
2人があまりにもこちらを見るので、思わず眉間に皺が寄る。
「ううん、何でもないわよ。ねっ、更紗ちゃん、雅樹もこう言ってるんだから。何なら更紗ちゃんのお母さんには私から連絡するわ」
「あ、あの……良いんですか?」
躊躇いがちにそう訊ねる橘に、俺は『良いんじゃないか?』とだけ答えた。
すると彼女は『じゃ、お母さんに電話します』と、慌ててスマホを操作し始めた。
電話が通じたのか、橘は一言二言何かを言うと通話を切って笑顔で答えた。
「お母さんが『ご迷惑をかけない様に』って、許してくれました」
「良かった! 迷惑なんかじゃないわ。更紗ちゃん、夕ご飯の準備手伝って貰える?」
「はいっ」
母と橘は楽しそうに台所の方へと消えた。
俺はそんな2人を見て、少しだけ心が浮き立った。
父親は仕事が遅くなるとかで、夕食は3人で食べた。
主に母と橘が話をしていて、俺はその会話を黙って聞いている。
「ね、雅樹」
不意に母に呼び掛けられ、俺は視線を向けた。
「何?」
「あんた、聞いてなかったわね」
「あ……」
咎める様な表情の後、母が小さくため息を吐いた。
「まぁ、良いけど……」
「何?」
「更紗ちゃんに、またタロウの散歩をお願いするから」
「良いんじゃない? 俺も受験が追い込みだし」
「ホントに良いのっ?」
俺の返事に、何故か橘は驚いた顔で訊ねた。
「良いけど……なんだよ、嫌なら……」
「ありがとう! 暫く来なかったから、任せてもらえないと思ったから」
嬉しそうに話す彼女を見てたら、何故かドキドキしてきた。
「あれは……半分は俺のせいだし。秋川にはちゃんと話をしたから」
「そう……」
俺の言葉に彼女は俯き『私、帰ります』と告げた。
「更紗ちゃん、帰るの? 雅樹、更紗ちゃん送ってきなさい」
「おばさん、大丈夫…」
「送る」
そう言って立ち上がると、橘のバッグを取り上げ玄関へと向かう。
「かっ、加藤君っ……まって! おばさん、ご馳走さまでしたっ」
「また、明日ね」
背後でそんな会話が聞こえた後、パタパタと近付いて来る足音がした。
「加藤君、私1人で帰るから…」
「時間も遅いし、家まで送る」
断る彼女にそう言うと、2人で一緒に家を出た。
暫く無言で歩いていたけど、不意に橘が立ち止まった。
「橘?」
振り返って彼女を見ると、俯いていてその表情が見えない。
「ごめんなさい」
「えっ?」
いきなりの謝罪に、心当たりの無い俺は戸惑った。
「何…?」
「秋川さんの事……加藤君と秋川さんが、付き合ってるって知らなかったから……けいとの事で秋川さんに嫌な思いさせてごめんなさい」
そう言うと橘は深く頭を下げた。
「違う……橘は悪くない。それに俺と秋川は付き合ってなんかない」
「えっ?」
驚いて顔を上げた彼女と目が合う。
「だって……彼女は加藤君の事……」
「秋川からは好きだと告白された。だけど俺は、彼女の事は同級生としか思えないから」
「そう…なんだ」
橘は小さく呟くと、その後はただ黙って歩いていた。
橘の住むアパートの前まで来ると、俺は持っていたバッグを彼女に手渡した。
「送ってくれて、ありがとう……勉強の邪魔してごめんなさい」
「大丈夫だよ。いい気分転換になるし……それより、お前は大丈夫なのか?」
「えっ、大丈夫って…何が?」
首を傾げてこちらを見上げる橘に、この前から気になっている事を訊ねた。
「卒業したら…進路はどうするんだ?」
「あ…」
俺の問いかけに、彼女は躊躇いながら答えた。
「あの……実は、おばさんに相談したんだけど、私……トリマーを目指そうと思って」
「え?」
思ってもいなかった返事に驚いた。
「そしたら来年の入学を目標に、おばさんのお店で4月からバイトをさせてもらえる事になったの。勿論、掃除とかの雑用だけど」
「俺…何も聞いてないけど」
自分の知らない所で、母や橘が勝手に話を決めていた事が、何故か面白くなかった。
「あっ、あのね…トリマーになりたいって思ったのは、本当に最近なの。大好きな動物に関わる仕事で、私にも出来る仕事って何かなって思ってたら、おばさんに『犬を綺麗に可愛くする仕事はどう?』って言われてっ…」
必死に話す橘に俺は思わず笑いが込み上げた。
「いいよ、そんなに必死にならなくても。別に怒ってる訳じゃないし…」
「おばさんを怒らないでね?」
「はっ?」
橘の言葉に俺は呆気にとられた。
「加藤君が、私とあまり関わりたくないのは分かってるから……出来るだけ加藤君の視界に入らない様にするから…」
そう言うと俯いてしまった。
「俺が無事に合格したら、またタロウと散歩するから…その時は橘も付き合え」
俺の言葉に彼女は驚いた様に顔を上げた。
「いいの? 私も一緒で」
「あぁ…その方がタロウも喜ぶ」
その言葉に、橘は嬉しそうに笑った。
「ありがとう!」
「じゃ、俺の受験が終わるまで、タロウの散歩頼むな」
「うん、任せて」
ニッコリと笑みを浮かべながら頷く橘。
そんな彼女を見て、俺は受験が終わるのが楽しみになった。