第4話
翌日、俺は秋川と一緒に図書館へ行った。
「だから、ここはこの動詞が入るの」
彼女の英語の説明は判り易く、俺は問題集をすらすらと解くことが出来た。
「助かった……秋川、ありがとう」
そう感謝の言葉を口にすれば、彼女は笑って首を振った。
「ううん、こちらこそ。数学の公式……あんなに簡単に解ける方法があるなんて」
「数学はコツと、問題をどれだけ熟していくかだからな」
「そうなんだ」
気づけば閉館の時間になっていたので、俺達は参考書や問題集をバッグに仕舞うと慌てて図書館から出た。
最寄りの駅まで一緒に向かう。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ……お互い志望校合格を目指して頑張ろうな」
「うん、そうね……加藤君」
不意に秋川は立ち止まると、俺の名前を呼んだ。
「何?」
俺も立ち止まると彼女の方を振り向いた。
「あのね……もしも、志望校に受かったら………」
途中で俯いて黙り込んだ秋川の名を呼ぶ。
「秋川?」
「何でもないっ、本当に今日はありがとう。じゃあね」
そう言うと、自分の乗る電車が来るホームの方へと駆けだしていった。
「変な奴……」
俺は走って行く秋川の後姿を見送りながら首を傾げると、彼女と反対の方へと歩き出した。
「ただいま」
「おかえり!」
「おかえりなさいっ!」
俺が家に帰ると、何故か母親と橘が一緒に出迎えてくれた。
「……何で橘がいるんだ?」
「何でって、あんたが更紗ちゃんにタロウの散歩を頼んだんでしょ! だから、そのお礼に夕飯を一緒にどう?って誘ったのよ」
「はぁ?」
「あっ、あのっ……おばさんっ、私…帰ります!」
慌てて帰り支度をする橘を母親が止めた。
「駄目っ、更紗ちゃん、家に帰っても1人なんでしょ? だったら家で食べて行きなさい」
「でもっ……」
橘は窺う様に俺を見た。
「別に良いんじゃないのか。母さんが食べていけって言ってるんだから」
「そうよ、この子の事は気にしないでいいの。さっ、夕飯の準備しなきゃ」
「あ、私も手伝いますっ」
台所へ向かう母親の後を、橘は慌ててついて行った。
1人残された俺は、着替える為に自分の部屋へと向かった。
夕食を終え片づけが済むと、橘は家へと帰って行った。
「良い子よねぇ……更紗ちゃん」
テレビ見ている時に、不意に母親がそんな事を言いだした。
「何……いきなり」
「だって散歩から帰って来たと思ったら、タロウの足を丁寧に拭いた上にブラッシングまでやってくれたのよ」
「あいつ、タロウと遊べるのが嬉しいらしいからな」
「うん、確かに……ブラッシングの後、タロウに抱き付いて頬ずりしてた。ねぇ、本当にあんたの彼女じゃないの?」
母親は窺う様に俺の方をジッと見ながら訊ねる。
「はぁ? ないないっ。タイプじゃないし」
否定する俺に、母親は首を傾げた。
「何で? 可愛いじゃない。更紗ちゃん。まぁ……ジャージって言うのが変わってるけど」
橘は今日もジャージでやって来ていた。俺は慣れたけど、母親からしたら高校生の女の子がジャージ姿で来たのが驚きだったようで。
「タロウと散歩する為に、わざわざ家に着替えに行ってるって」
「そうなの?」
「学校では今時の女子高生だよ。化粧もバッチリだしさ」
「何か……想像できないわ」
俺の話が半信半疑らしくて、母親は小さく呟くと『でも、良い子よ』と言って台所へと消えて行った。
「良い子か……」
確かに毎日タロウと散歩するとか……普通は出来ないよな。俺でもサボりたい時はあるし。
「本当に犬が好きなんだ」
学校での橘とタロウと一緒にいる時の彼女を思い出して、俺はあまりの落差に笑みを浮かべた。
最近はタロウの散歩を橘が1人でする様になったので、俺は受験勉強に集中する事が出来る様になった。
それに時々、友人の土岐や秋川と一緒に図書館へ行き、解らない箇所を教えあっている。
お蔭で成績は以前よりも良くなってきていた。
「なぁ、何か食べてから帰らないか?」
図書館を出て帰ろうと歩いている時、土岐がそんな事を言った。
「そうだな、腹も減ってるし……何か軽く食って行くか。秋川も行くだろ?」
「あ、うんっ」
俺の問いかけに、秋川は慌てて頷いた。
「それじゃ、この先のファミレスにでも……あれっ?」
土岐が通りの向こうを見て、言葉を止めた。
「なぁ……あれ、隣のクラスの橘じゃないか?」
「えっ?」
俺は慌てて彼の見ている方向へ視線を向けた。
そこには道端で、何かを抱えて蹲る橘が見えた。
「橘っ」
彼女の名前を呼びながら俺が走り寄ると、橘はゆっくりと顔を上げた。
「か、加藤君……」
「お前、どうした……って、その猫は?」
橘の腕にすっぽりと収まっている小さな黒い猫---怪我をしているのが分かる。
「帰ろうとここを通りかかった時……この子がバイクに跳ねられてっ……私、どうしていいか判らなくてっ……」
泣きだした彼女から子猫を受け取ると、微かに動いた。
「大丈夫、病院に連れて行こう」
俺は彼女を立ち上がらせた。彼女の制服には、怪我をした子猫の血がついていた。
それでも気にする様子も無く、橘は猫の様子を心配そうに見つめている。
「おい、加藤…」
「悪い、土岐、秋川。俺……橘と一緒にこの猫を病院まで連れて行くから」
「あ、あぁ……分かった」
病院へ向かおうと橘を連れて2人に背を向けた時、秋川の声が聞こえた。
「何で? 加藤君が橘さんの猫を一緒に病院まで連れて行くの? 彼女の猫でしょ」
「おいっ、秋川っ」
土岐が咎める様に秋川の名前を呼ぶけど、彼女は更に言葉をぶつけてきた。
「橘さんも自分の猫くらい、自分で面倒みなさいよ。加藤君が優しいからって……」
「秋川」
俺が彼女の方を振り向いて名前を呼ぶと、黙ってこちらを見た。
「俺は獣医になるのが夢だ……そんな俺が今、この猫を見捨てたら俺は獣医になる資格なんて無いと思う。それにこの猫は橘が飼ってる訳でもない。たまたま目の前で怪我をした猫をこいつは助けようとしてるんだ」
「………」
「じゃ、俺達病院に行ってくるから。行くぞ、橘」
それだけを言うと、2人に頭を下げた橘を連れて知り合いの獣医の元へと向かった。
「大丈夫、骨に異常はないよ。ぶつかった時に、頭を打ったみたいだね。それと少し擦り傷があるだけ」
獣医の江口先生はそう言うと、小さな猫の傷を消毒してくれた。
「良かったぁ……」
先生の言葉に、橘はその場に座り込んでしまった。
「おい、橘」
彼女の手を引っ張り立ち上がらせると、俺の方を見て嬉しそうに笑った。
「ありがとう、加藤君。加藤君が来なかったら、私どうしていいか解らなかった」
「いや、別に……」
橘の笑顔を見て、何故かドキドキして俺は焦った。
「今日は念の為、一日預かるよ。明日、引き取りにおいで」
「はい、先生ありがとうございます」
「先生、ありがとう!」
橘は頭を下げて先生にお礼を言った。そんな彼女を見て、先生は俺の方へ視線を向けると笑みを浮かべた。
「雅樹、良い子だな。お前の彼女か?」
「違う……ただの同級生だよ」
「ふーん、ねぇ…君、名前は?」
先生にいきなり名前を訊ねられ、橘は慌てて答えた。
「橘更紗です」
「更紗ちゃんね。僕は江口隆博って言います」
「江口先生、この子よろしくお願いします」
橘はもう1度、頭を下げた。
「先生、子猫の治療費だけど…」
「あぁ、いいよ。お前の親父からもらうから」
先生と俺の父親は小学生の頃からの友人で、今でもよく飲みに出掛けるほど仲が良い。
「あ、あの……私が連れて来たから、私が払います」
俺達の会話を聞いた橘は、慌てて先生に告げた。
「この子、更紗ちゃんの猫じゃないでしょ?」
「はい……でも…」
「君は優しいね。野良の子猫を助けて病院に連れて来るんだから……この子も感謝してるよ、きっと」
そう言うと、先生は診察台の上で丸くなって眠る、小さな黒猫を見下ろす。
「更紗ちゃん、この子飼うの?」
「あ……」
橘は困った表情を浮かべた。
「飼いたいけど……無理です……」
「先生、橘の家……アパートだから、動物は飼えない」
「そうか……それなら知り合いに捨て犬や捨て猫の里親を探してくれる所があるから、頼んでおくよ」
先生の言葉に、橘は笑顔を浮かべながら子猫を見た。
「よろしくお願いします……良い飼い主さんが見つかるといいね」
そう彼女が話しかけると、子猫は小さな声で『みぃ』と鳴いた。