第3話
橘は俺に告げた通り、毎日タロウの散歩に付き合ってくれた。
そして、彼女とタロウが遊んでいる間、俺は近くのベンチに座り、参考書を読むのが日課になった。
「橘……毎日タロウの散歩に付き合ってくれるのは有り難いけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫って?」
今、俺たちは遊び疲れたタロウが芝生で寝そべっている傍で、2人並んで座っていた。
「いや……就活とか」
俺の言葉に彼女は『うーん……』と、考える様に腕を組んだ。
「私……自分がやりたい事が判らないの。だから思う様に就活が出来なくて」
そう言うと、タロウの艶やかな体毛をそっと撫でた。
「就職が決まらなかったら、アルバイトでも探す」
「そっか……」
「うん、だから気にしないで……タロちゃん、起きて」
橘の声に、タロウが目を開け俺達の方を見た。
「私帰るね、タロちゃんバイバイ」
タロウの頭の後ろを撫でると、橘は立ち上がった。
「私の事、心配してくれてありがとう。でも加藤君が気にする事はないから……じゃ、バイバイ。また明日ね」
俺たちを見て笑みを浮かべると、彼女は手を振りながら公園を出て行った。
「タロウ、帰るか」
「きゅーん」
橘の姿が見えなくなると、俺はタロウのリードを持ち立ち上がった。
橘は毎日、公園で待ち合わせをして、タロウと1時間程散歩を楽しむと、そのまま帰って行く。
本当に動物が好きなんだと、彼女を見ていると分かる。
毎日散歩をしていると、同じ様に犬の散歩をしている人達と顔見知りになっていた。
「あっ、ルルちゃんとルルちゃんママ。こんにちは!」
橘がタロウのリードを持ち直しながら、向かいから歩いて来た女性に笑みを向けた。
「こんにちは、更紗ちゃん。それにタロウちゃんと雅樹君」
「わんっ」
「こんにちは。岸田さん」
そう言って、俺は軽く会釈をした。
岸田さんは、60代半ば位のご婦人で物腰が柔らかい。そんな彼女の愛犬は柴犬のルル。
まだ子犬であるルルは、何度目かの散歩でタロウと仲良くなり、俺たちを見かけると駆け寄ってくる。
今もタロウの周りをくるくると楽しそうに回っていて、タロウはそんなルルを自分の子供の様に構ってあげている。
「ルルちゃん、タロちゃんの事が好きなんだねー 本当に仲が良いんだもん」
橘が嬉しそうに2匹を見つめていると、岸田さんが『ふふっ』と小さく笑った。
「更紗ちゃん達だって……」
「えっ? 岸田さん何?」
彼女はタロウ達から岸田さんへ視線を移すと、首を傾げた。
「何でもないわ」
そう言って、岸田さんはニッコリと笑みを浮かべると、ルルを呼び寄せ『じゃあね』と立ち去った。
「加藤君」
ある日、授業が終わり帰り支度をしていた俺は、背後から名前を呼ばれ振り返った。
そこには同じクラスの秋川早織がいた。
「秋川……何か用?」
俺はバッグを肩に掛けると、彼女の方へ向き直った。
「あのね、明日……図書館に行かない?」
「図書館?」
俺が聞き返すと、彼女は頷いた。
「うん、数学で解らない所があって教えて欲しいなって……それに、最近なかなか話す機会も無いから」
そう言うと、はにかみながら俯いた。
秋川と俺は1年から同じクラスで、結構仲が良い方だ。友人は『付き合ってるのか?』と聞かれるが、お互いそんな気は無いと笑ってる。
「あぁ、良いよ。俺も英語で教えてほしい所があるんだ」
秋川は英検2級を持っていて、夏休みにホームステイに行った事もあるから、会話力もかなりのものだ。
「いいわよ、じゃお互いで解らないとこ、教え合おうか」
彼女の言葉に俺は頷き、明日図書館へ行く約束をして教室を出た。
「あ…そうだ、橘。明日は散歩無しだから」
今日も散歩について来た橘に俺は告げた。
「えっ、何で?」
「俺に用があって、タロウを連れて来れないから」
「そんなぁ、タロちゃんと遊べないのっ?」
端から見ても判る程に、がっかりしている彼女の手をタロウがそっと舐めた。
「タロちゃん、明日は会えないね」
「くぅーん」
悲しげな橘とタロウを見ながら『大袈裟な』と思ったが、あまりにも真剣な様子に、俺はふと思い付いた事を口にした。
「それなら、橘……明日は俺んちに来て、タロウを散歩に連れ出してくれ」
「えっ?」
橘は驚いた表情を浮かべ、俺を見た。
「俺が行けない時は、母さんが仕事を終えた後に散歩に連れ出してるんだけど、橘が連れて行ってくれるなら助かる……」
「やるっ! 是非させて下さい」
そんな橘を連れて、俺とタロウは家へと向かった。
「ここ、俺んち」
家に帰ると、庭にタロウを放す。タロウはお気に入りの芝生の上に寝そべった。
「うわぁ……加藤君ち、広ーい」
橘は2階建ての家と庭を見て呟いた。
「そうか?」
生まれた時から住んでいる俺としては、普通の家と思っているけど。
「うん、私みたいなアパート暮らしから見たら、豪邸だよ」
「大袈裟な……まぁ、庭はタロウ達が思いっきり遊べる様に、広くなっているけどな」
そう言いながら、家へと向かう。
そんな俺の後を、橘はついて来た。
「タロウ達……って、タロちゃん以外にもいるの?」
「あぁ、昔から犬は飼っているから……」
玄関を開けて、橘を先に家の中へと促す。
「あ……お邪魔します」
彼女は小さい声でそう言うと、恐る恐る靴を脱いで中へと上がった。
そんな橘を俺はリビングへと案内した。
すると、リビングでは母親がかえでのトリミングをしていた。
「ただいま。あれっ、母さん……今日は休み?」
「お帰り、雅樹……えっ、彼女?」
俺の声に振り返った母が、橘を見て驚いた表情を浮かべた。
「違うっ…こいつは…」
「きゃあ! トイプードルっ、可愛いっ! あのっ、名前は何て言うんですか?」
かえでを見た橘は俺を押し退け、かえでに近づいた。
その様子に圧倒された母は、少し後ずさりながら『この子はかえでって言うの』と橘に告げた。
「かえでちゃん、初めまして! 私は更紗。タロちゃんの友達だよ」
そう言ってかえでを抱き上げると頬ずりをした。
「きゃうんっ」
かえではいきなり現れた見知らぬ人間に、怯えた様子で俺達の方へ助けを求める様に視線を向けてきた。
「あの……橘。かえでが怯えてる……」
俺の言葉に我に返った彼女は慌ててかえでを解放した。
床に下ろされた瞬間に、かえでは母の後ろへと逃げ込んだ。
「ご、ごめんね、かえでちゃん」
シュンとして謝る橘に、声を掛けたのは母だった。
「大丈夫、かえでは驚いただけだから……えっと、更紗ちゃん?だっけ」
「は、はいっ! 橘更紗です」
母の声に彼女は慌てて自己紹介をした。そんな橘を母はニコニコと笑顔を浮かべて見ている。
「初めまして、私は雅樹の母で雪乃って言います」
母の挨拶に橘は頭を下げながら『初めまして』と、返事をしていた。
「雅樹、更紗ちゃん……可愛いわね! 彼女?」
「違うっ……」
「ち、違いますっ! 私は加藤君の隣のクラスで、タロちゃんの散歩に勝手について行ってるだけで……寧ろタロちゃんと友達と言った方が正しいです」
「あらっ……」
橘の言葉に母が驚いた様な表情を浮かべ、俺の方を見た。そんな母に俺は黙って頷いた。
「そうなの? タロウの友達って事は……犬が好きなの?」
「はい、大好きです。犬だけではなくて動物はほとんど! だけどアパート住まいなので、飼えなくて……だから加藤君に無理を言って、タロちゃんと遊ばせてもらってます」
「まぁ……動物好きなのね!」
ますます嬉しそうに笑う母に、俺は連れて来た理由を話した。
「橘が明日、俺が用事でタロウの散歩が出来ないから、代わりにしてくれるって……だから、家に案内してきたんだ」
「え? 用事って何よ」
「図書館に友達と勉強しに行く約束をしたんだ」
「そう、それなら仕方ないけど……でも更紗ちゃんに頼むのは……」
浮かない表情を浮かべた母に、橘が力強く宣言した。
「おばさんっ! 私っ……ちゃんとタロちゃんの散歩、やり遂げるからっ」
真剣な表情で母に訴える橘に、母は小さく笑みを浮かべると『わかった』と呟いた。
「それじゃ、明日は更紗ちゃんにお願いするわね」
「はいっ」
そしてその後、何故か母親と橘は意気投合して、かえでを挟んで色んな事を楽しそうに話して過ごしていた。