第10話
日課となっているタロウの散歩。
俺は大学の授業を終えて帰宅すると、タロウを連れていつもの散歩コースをゆっくりと歩く。
暫くすると仕事を終えた橘が合流するんだけど−−−今日はいつもと違った。
散歩コースを2往復しても橘が来る気配が無くて、俺とタロウが帰ろうとしていた時、職場から直行してきたらしい橘が必死に走って来るのが見えた。
「遅い」
「ご、ごめんなさいっ……帰ろうとしたら、お客様が来て…」
息を切らしながら彼女が告げた。
「もう、帰ろうとしていたんだけど」
「そうなんだ……タロちゃん、ごめんね」
「くぅーん」
謝る橘にタロウは近付き、彼女の手を舐めた。
そんなタロウの仕草に橘は『ごめんね、タロちゃん』と言いながら、そっと頭を撫でる。
橘は高校を卒業すると、俺の母が経営するペットショップでバイトをしていた。
そして、翌年にトリマーになる為に専門学校へ入学した。学業とバイトに明け暮れていたが、橘はとても楽しそうだった。
2年間通った学校を無事に卒業した彼女は今、念願のトリマーとして働いてる。
「……もう少し、歩くか?」
「わんっ!」
「いいの?」
タロウの頭を撫でていた彼女が笑みを浮かべてこちらを見た。
「タロウが良いならな」
「タロちゃん?」
視線をタロウへと向けると、タロウは分っているのか俺を引っ張る様に歩き出した。
「良いみたいだな……ほら、リード」
橘へリードを手渡すと代わりに彼女のバッグを取り上げる。
「えっ?」
「タロウとこの辺、歩いて来いよ。俺はここで待ってるから」
そう言って手を振ると、橘は『じゃ、行ってくるね』と言いながらタロウと散歩コースを歩いて行く。
その後姿を俺は見送った。
「でね、そのお客様がわざわざ私を指名してくれて……初めてだったから嬉しかったの」
タロウとの散歩から戻って家へと帰る道程、今日の遅刻の理由を橘は話し始めた。
別に怒ってもいないし……気にしてもいないんだけど。
そう思っていたら---
「アオちゃんって名前の柴犬なんだけどね、私に懐いてくれて」
アオ?
俺はその名前に聞き覚えがあった。
確か……母親が『アオちゃんの飼い主さんが、更紗ちゃんに好意を持ってるみたいなのよね。彼は若手実業家で、見た目も申し分ないの。あんたがいなければ、更紗ちゃんにお薦めしたいくらいなんだけど』って言ってた奴か。
「ふーん、良かったな」
興味が無い振りをしながらも、内心ではその飼い主の事が気になっていた。
「うんっ!」
屈託なく笑う橘に俺はそれ以上何も聞けなかった。
「あ、今日はねタロちゃんをお風呂に入れてあげたいんだけど良いかな?」
「お前が?」
「ママさんには了解してもらったけど、いつもは加藤君がお風呂に入れてあげてるって聞いたから、一応了承してもらおうかな?って思って」
小首を傾げてこちらを見る橘は、学生の頃の様な派手さは無くなり今はどちらかと言うと清楚な雰囲気があった。
1度だけ『学生の時の様に化粧はしないのか?』って聞いたら、彼女は笑いながら『お店に来るペット達が嫌がるし、私もお化粧するのが面倒』との返事が返ってきた。
「駄目かな?」
化粧っ気の無いその表情は愛らしいと言う言葉が似合う。俺は『良いよ』と一言だけ返事をすると、視線を逸らせた。
「タロちゃん、今日は私がタロちゃんを綺麗にしてあげるね」
嬉しそうにタロウに言う橘に、タロウは尻尾を振って答えた。