第1話
今まで関わる事が無かった人が、掛け替えのない存在になるなんて、その時は思いもしなかった。
「ただいま」
「お帰り。雅樹……悪いけどタロウを散歩に連れて行ってくれない?」
「別に良いけど」
学校から家に帰ってきた途端、母親に頼まれた俺はそう返事をした。
タロウは我が家で飼っているゴールデンレトリバーで、淡い茶色の毛は母が念入りに手入れをしている為艶やかで、光の角度では金色にも見える。性格は温厚。年齢は8歳になり、人間なら50歳位だろうか。
俺が庭に回ると、タロウは芝生の上で眠っていたが、人の気配に彼が顔を上げた。
「タロウ、散歩に行くか?」
「ワンッ」
尻尾を振って、俺を見上げるタロウの首輪にリードを着けると、そっと首周りを撫でた。
気持ち良さそうに目を閉じるタロウを見て、笑みが浮かぶ。
暫くその手触りの良い毛を撫でていたが、このままではタロウが眠りそうだったので、俺は彼に声をかけた。
「じゃ、行こうか」
そう言ってリードを引くと、タロウは身を起こした。
タロウの散歩コースは家からかなり離れた場所にある公園で、園内にはジョギングをする人たちの為に整備された舗道もある。
その道を少し早い速度で一緒に歩く。
最近、運動不足だったから丁度良いな。
高校3年の俺は、大学進学の為に受験勉強の毎日だ。
将来の夢は獣医になる事−−−それは小さい頃からの夢。
俺の父親は元々、盲導犬の訓練士をしていたが、今は飼い犬の躾を主とするドッグトレーナーをしている。
母親はペットショップでトリマーとして働いていて、家にはタロウの他にも『かえで』と言う名前のトイプードルのミックスがいる。その前にも何匹か飼っていたから、生まれた時からずっと犬が一緒にいると言う生活だった。
だから俺にとって、犬はペットと言うよりは家族の一員。
そんな彼らが病気や怪我をした時に、何も出来ない自分が歯痒かった。
だから獣医になって、少しでも手助け出来たらと思い、大学を目指している。
「タロウ? うわっ!」
不意に立ち止まったタロウに声をかけると、次の瞬間−−−物凄い勢いで走り出した。
いきなりのその行動に、俺は手にしていたリードを放してしまった。
「タロウ! 戻って来いっ!」
普段なら聞き分けの良い筈のタロウは、俺の命令を無視して一直線に走って行く。
その後を見失わない様に走っていた俺は、遥か遠くに見えるタロウが道を曲がった瞬間、『きゃあっ』と言う女性の声を聞いた。
俺が少し遅れて道を曲がった時、そこには座り込んだ女性とタロウがいた。
「タロウ! 駄目だろ、離れるんだ」
リードを持ち直してタロウを自分の方に引き寄せる。
「すみません。うちの犬が迷惑をかけて……大丈夫ですか?」
座り込んだまま動かない女性に、俺は声をかけた。
「あっ、はい……大丈夫。驚いてしりもちついただけだから」
そう言って慌てて立ち上がった彼女を見た。
髪は綺麗な巻き髪、顔はしっかりメイクをしているけど、着ているのは俺と同じ高校の制服だった。
確か隣のクラスの橘……だったか?
その派手な見た目から、俺が絶対に関わる事は無いタイプが今、目の前にいた。
「本当にすみません。怪我は無いですか?」
橘は俺の事を知らない様だから、出来るだけ事務的に話す。
「怪我はしてないけど……」
何故か橘の視線は俺ではなく、タロウに向いていた。
「ねぇ! この子、撫でてもいいっ?」
不意にこちらを見たと思ったら、期待に満ちた表情で訊ねられ、思わず頷いた。
「あ……あぁ、いいけど」
俺の返事を聞いた瞬間、橘は身を屈めるとタロウに抱きつき、その艶やかな毛に顔を埋めた。
「きゃあ! 可愛いっ、毛がモフモフで気持ち良いっ」
「キューンッ……」
初対面の人間には警戒心が強いタロウが、気持ち良さそうに彼女に撫でられている。
家族以外には懐かないタロウの無防備な姿に、俺は驚いていた。
「ねぇ、この子の名前、何て言うの?」
タロウに抱き着いたまま、橘が俺に訊ねた。
「タロウ」
「タロウ? タロちゃん! 可愛いっ」
名前を呼びながら、タロウに頬擦りしている彼女。
タロウもそんな橘の頬をペロペロと舐め始めた。
「擽ったい! タロちゃん、止めてっ」
そう言いながらも、橘は何故か嬉しそうだ。
「あの……」
じゃれあっている1人と1匹に、俺は恐る恐る声をかけた。
「何?」
橘はタロウに顔を舐められながら、笑顔でこちらに視線を向けた。
「髪……と顔、グチャグチャになってるけど」
「へっ……?」
タロウに顔を舐められた為、橘のメイクは落ち、髪の毛も巻き髪が崩れていて普段の彼女とはかなり違っていた。
「あー、本当だ……」
髪に手をやりながら呟くが、橘はタロウから離れようとはしない。
「ごめん、うちのタロウが……」
「タロちゃんの所為じゃないから。気にしないで……私もタロちゃんと遊べて嬉しかったし」
「だけど……」
タロウが飛びついた時に付いただろう制服の汚れ、それに髪はグチャグチャになっていて申し訳ない思いでいっぱいだった。
「大丈夫、家に帰るとこだったし。気にしないで……それよりも、またタロちゃんに会えないかな?」
橘は、未練たっぷりと言った視線を、タロウに向けながら俺に訊ねた。
「あぁ……毎日、この時間に散歩に出るから、もしかしたら会えるんじゃないかな」
「本当? じゃ、明日も会える?」
縋る様な視線を俺の方に向け、彼女は訴えてくる。
思わず頷くと、本当に嬉しそうに笑ってまたタロウを抱き締めた。
「タロちゃん! 明日もまた会おうね」
「わんっ!」
タロウは橘の言葉に応える様に、千切れんばかりに尻尾を振っている。
「じゃ……タロウ、行くぞ」
名残惜しそうな1人と1匹にそう告げると、漸く橘がタロウから離れた。
「バイバイ、タロちゃん。また、明日ね……加藤君も」
「は? 俺の事、知っているのか」
不意に名を呼ばれ、驚いて橘を見る。
「うん、隣のクラスの加藤雅樹君。いつも試験で1位か2位でしょ?」
まさか、橘が俺を知っているとは思わなかった。
「君は橘さん……だよね?」
「うん、橘更紗……私の事、知ってたんだ?」
俺が橘の名前を知っていた事に、彼女は驚いた表情を浮かべた。
「あぁ……隣のクラスだし」
「あははっ、まさか頭の良い加藤君と、莫迦な私がこんな風に話をするなんて思ってなかった」
橘はそんな事を言いながら笑った。
「じゃ、私、帰るね……加藤君、タロちゃん、バイバイ」
そう言ってタロウの首周りを撫でた後、何度も振り返りながら彼女は帰っていった。