第一章 4
いまだにずきずきと痛む頭をぶんぶんふりながら、ルーカスは日陰なのに眼球を突き刺す光に呻きながら、フィリポへの帰路を歩いていた。道行く人はどことなく、ルーカスの近くを通るまいとしているように思える。同時に、背中に粘着く視線。ルーカスは妄想に取り憑かれていた。まだ抜け切れていないのだ。甘く見ていたとルーカスは悔やんだ。電脳空間を体験している彼にとって、一般に言われる麻薬の作用の殆どは疑似体験したものとと代わりないと思われたのだ。余韻だけでこんなにひどいなんて。
あのプログラムは何だったのだろうか。偽物の夢なだけならこんな二日酔いのような後味は胸の奥に残っていない。つまるところ、あれは本物なのだ。ルーカスはケイスの笑い声を思い出す。
「それでも試作品よ、ただの」
構造物を外して、ぜいぜいと肩で息をしていたルーカスを前にケイスは笑った。けれどもその出来は今までのプログラムとは全く違ったものだった。ルーカスは回想する。
接続と同時に視界が暗転。浮遊感とともにふらついて、目を開けた時、異世界が広がっていた。
「見えるかい……」
ケイスの声がどこか遠い。ルーカスは、先ほどまで自分がいたはずの雑多な部屋の空中に、三匹の海月が泳いでいることを発見した。青色ダイオードの輝きを孕む真昼の月にルーカスは見惚れていた。
オワンクラゲだ。以前水族館で見たことがあった。あれはケイスに連れて行ってもらったんだっけ……。リリーは一緒だったかな……。色々な思いがルーカスのニューロンを駆け巡り、無意識のうちにルーカスは海月に手を伸ばしている。十歳くらいのころ、マイスターに連れられていった浜辺で打ち上げられていた海月をルーカスは思い出していた。
映像プログラムだ、触れっこない――そう理性が判断した時、ぬるりとした感触が指先に触れ、海月はその向きを変えた。見れば、天井や机にぶつかりそうになっても海月は身を反らしてた。まさか、とルーカス。そんなはずはない。
「こいつは……」
「応答映像よ。ルーカス、こういうの好きだろ……」
「最高だよ。おれ、こういうの作りたかったんだ」
「お前もおれと考える事は一緒か」
笑い声。海月がどいつも身をよじり、一回転する。
「おれの全てはその基盤に詰まってる。おれがおまえに教えられる技術のすべてを作って出来たのがこいつだ。あとはおまえが好きにやれ」
「好きにやれって……」
「使えってことさ(Use・it)」
目は海月に向いたまま、薄暗い部屋のどこかにいるケイスに話しかける。うず高く積み上がった古臭い書籍やごちゃごちゃした食器の山のその上を、海にいたとすればこう漂ったろうとルーカスの想像する通りにゆらめく海月。ほのかな青は部屋ゼンタをぼんやりと照らし、変哲もない黒いキューブも美しく見える。そこでルーカスは、キューブに操作板がポップアップしていることに気がついた。
「ケイス、これは……」
と聞いたあとでルーカスはしまったと溜息をつく。少し冷静になればわかることだ。これは白昼夢なのだ。ケイスにこれ(・・)といってわかるはずがない。だがケイスはすんなりと応じた。
「そいつもプログラムの一つ。項の切り替えができる。試してみるかい……。危ないものも、混じっているが……」
「昨日は誕生日だったんだ。ふらふらしてても、怒鳴られるだけさ」
操作し、表示可能なプログラムをリストアップする。並ぶファイル名には、嵐(Storm)や天空(Sky)、超現実(surrealism)の文字がズラリと並んでいる。その中で、一つだけ赤く色分け(レッドリスト)されているプログラムがあった。
麻薬(Acid)。
簡潔な文字。ルーカスは好奇心を抑えられなかった。人差し指でファイルを選択する。警告が発せられたが無視。実行。
暗転。転変。
世界は極彩色に包まれ、ルーカスは自分の身体を認識できなくなった。手足の感覚は消え、頭のなかで何かがのたうつような感覚。ケイスが何か言ってる気がしたが聞こえない。額をたらりと流れる汗がどうしようもなく心地よく、喧しい重低音が電子音楽のように全身を震わせ、頭のなかで反響、反響、反響。
ルーカスは自分が一歩も歩いていないことを知っていて、全速力で走っているような心地よさと風の冷たさを感じる。視界は意味もなく美しく変化し捻れ曲がる幾筋もの光線、それは全身を貫き通り過ぎ脳天をずぶずぶと溶かしていく至福かそれとも破滅に導く黙示録の火か。リリーが目に浮かび、裸身の彼女の官能がテンポを早め開いた口の舌先を刺激する光線とひんやりとした空気とがぐるぐると体内を犯し尽くし、閃光。一面の白。もう何も見えていないが何もかもを見ている自然な不自然こそが現在の表象と深奥を一貫する真理であり、――――貫通――――崩壊――――
ばちん、遮断。
ルーカスはぜいぜいと息を吐く自分を認識し、鋭敏化した神経に障る早鐘を打つ心臓を抑えようと、必至に深呼吸。隣にいたケイスの笑い声。ひたすら愉快そうな声に、ルーカスも一緒になって笑う。喉の中で空気が踊る感触が、筆舌に尽くしがたい快楽となって襲いかかった。全身の空気を吐き出すように笑って、ふらりと傾いた視界と側頭部に走る衝撃。そこで意識が途切れたが、すぐにケイスに体を揺すられ起こされた。
ケイスが何も言わずに差し出したコップを握り一息に飲み干す。噎せたが、吐き出すことは我慢する。ただの水だったが、喉を焼くような痛みに悲鳴を上げそうになる。ケイスはまた愉快そうに笑った。
「若者の特権だね」
「ケイスも、昔はしたんだろ」
頭がうまく働かなくてルーカスは頭を振る。ルーカスは敬語で言い直そうとするが、そのまえにケイスが答える。
「ああ、昔は中毒さ。色々あって、今じゃ普通のやつじゃ効かないようになっちまったが」
「抗体でも……」
「ま、そんなところかね――」
ケイスは笑みを絶やさず、ルーカスに手ぬぐいを渡してくれる。汚れは気にならなかった。それから少し休んで一言二言、キューブの操作方法を聞いて、ルーカスはフィリポへの帰途についたのだった。
第一章、お楽しみいただけたでしょうか。感想などいただけると嬉しいです。辛口コメントも、待ってます。