第一章 3
ケーキは孤児院「フィリポ」で毎年用意されるものよりも断然美味しかった。もう十八にもなるのに、甘味で顔が蕩けるのはカッコ悪いとルーカスは恥じたが、ケイスが自分よりもはしゃいでいたので、これでいいのかと開き直った。ケイスがいれてくれた、いつもより美味しいコーヒーを何杯も飲みながら、二人で電脳空間の話題ではない世間話をする。今まで世間話をした時間全部足しあわせたくらいに長い間、話題は尽きず、歓談は弾んだ。
構造物以上に骨董品じみた大きな機械式時計がプラスチックの鳩を飛ばしたところで、「キリシマ」に出向いた。ケイスに続いてルーカスが中に入ると、先ほど聞いた炸裂音が何個も鳴った。
「お誕生日おめでとう!」
タイショー夫妻とおシマだった。おシマが話しておいてくれたのか、豪勢な和食が用意されていた。ケイスとルーカスは貧乏根性丸出しでかぶりつく。あまりの美味さに、ルーカスは何度目かの涙を流した。
「そんなに喜ばなくても」
頬を赤くしながら、おシマはハンカチで頬を拭いてくれた。無意識に頬に血液が行き、体温が上昇する。ルーカスは眼前に迫ったおシマの、リリーのものとは違う桃色の唇に釘付けになった。それから、すこし潤んだ黒い瞳と、鼻先をくすぐる黒髪。後ろでポニーテールに束ねられている。甘い匂いがして、ルーカスは無意識につばを飲み込んだ。夫妻とケイスにからかわれる。慌てておシマが離れる。ルーカスはしばらくおシマと口をきけなかった。
キリシマでの時間も、ルーカスは楽しんだ。時間は電脳空間にいるときの光幾何学模様よりも早く過ぎ去った。気づけばケイスは酔いつぶれ、ルーカスはは彼を背負ってナナシノゴンベエまで戻らなければいけなかった。
「大丈夫、ついていかなくていい……」
「一人で十分ですよ」
ルーカスはタイショーの申し出を断った。これから戻ってするであろう話は、他人にあまり聞かせられないと思ったからだった。ケイスをおぶって、ルーカスは来た道を引き返す。いつでも賑わいを保ち喧騒に包まれるスプロールが静寂に包まれ、自動掃除機がゴミを吸い込む音だけが響いている。空には月が朧朧と浮かんでいる。丑三つ時に差し掛かっていた。
ふと耳元で、ケイスの声がした。
「マトリクス――接続――高速化――障壁破り――」
意味を成さない言葉は続く。ケイスはすっかり眠っているようだった。もごもごとした小さな声が鼓膜を震わせ、無意味な反復がルーカスの眠気を呼び起こす。ケイスの部屋に戻り、なんとかリビングまで辿り着き、ルーカスはそこで記憶が途切れ、気づいた時には全身が凝り固まり、体の右半分が冷たかった。
呻きながらルーカスは立ち上がり、背伸びをする。テーブルの上には、昨晩の箱がまだ残っていた。勿論、ルーカスの座っていた側には、あのギフトも残っている。
夢じゃなかったんだ、というのがルーカスの最初の思いだった。
手を伸ばし、電脳体を手に取る。ずしりと重さが手にのしかかり、その頑丈さを保証している。少し小さい正六面体。その側面には収納型のプラグの先端が英語の文字とともにある。ルーカスは小さな乱暴な字に目を細める。フィリポで電脳化はできても、視覚の強化などできようもなかった。
「ケイス……」
ルーカスは首を傾げた。自分の師匠が律儀に、それもわざわざプレゼントに自分の名前を書いておくだろうか。
「よう、起きたか」
と背後からケイスの声。あれだけ呑んだくれていたケイスは、自分よりも元気に見えた。二日酔いとは無縁らしい。
「トーストでいいよな。そいつについては、それからだ」
ルーカスは頷いてキューブをもとに戻し、テーブルの上を片付けた。今では勝手知ったる我が家だった。ケイスはしわくちゃのジーンズとぼろになりつつある長袖シャツという簡素な格好で、前のボタンしか留めていない。無精髭も伸びきってだらしない格好だが、アウトロー的魅力があるのか、エキゾチックな美女がたまに訪ねてきては、よろしくやっているということをルーカスは知っている。その女性に話を聞いたからだ。
あいつは女に困っちゃいないが、私が必要なのさ――と女性は言った。
「坊や、ケイスの弟子。好きなモノは手放しちゃダメよ」とも。
好きなものと言われて、真っ先にルーカスは電脳空間のフラクタルを思い出す。ケイスがカウボーイをやっていた頃はまだアナログな部分があって今ほど無秩序ではなかったらしい。ルーカスは真っ白な気持ちで接続するのが好きだ。もしもウイルスに脳を焼かれたら……。想像するだけで、ルーカスは怖気を覚えて、ぶるりと震える。あれがないなんて考えられない。そもそも、どうやって生きていけというのだ。
「ほいよ」
とコーヒーとトーストが運ばれる。ケイスはマーマイト、ルーカスはいちごのジャムを塗って食べる。
「よく食えますね、そんなもの」
「年をとるとな、案外こういうものの方がいいんだよ」
笑うと、ケイスの顔の上で波が踊った。ルーカスは思う。けれど、マイスターよりは若く見える。あの人はまるでよぼよぼのじいさんのなりかけだ。
「おまえのお陰で生きなきゃならなかったからな」
「生きなきゃ……」
まるで死ぬつもりだったと言わんばかりの口調に、ルーカスは驚く。
「おまえは知らないことだがな、昔、大きなヤマがあったんだ。それも、ヤバイやつが。そいつが終わって、色々手に入れて、失って――おれはそこでお終いだったのよ。
燃え尽きたみたいに太陽見上げて口開けて、それを何日も続けた。接続する気にもなれなかった。あれがなくちゃ生きていけないと解っていたが、離れていたかった。これからのことを考えたのは初めてだった。目の前の火の粉を払い続けてただけだったからな。とにかく燃えていたかった。閃光――マトリクスを迸る電子みたく輝いて――けど夢は叶えてしまっちゃ呆気無い」
懐かしむような声。ルーカスは、ケイスが消えてなくなりそうな気がした。なんとなく、これ以上話してほしくなくって、コーヒーのおかわりを頼んだ。マグの中にはまだ黒い液体が底で波打っている。マトリクスの隙間は、ちょうどそれだった。
ケイスもルーカスも食事をとって、皿の上はパンの残りかすだけとなり、コーヒーも、もう残り香しかない。
「それじゃあ、本題に入ろうか」
と、ケイスは皿をどかしながら両肘をついて上体を乗り出した。ルーカスはごくりとつばを飲み込む。
「それ」
とケイスはルーカスの手許にあった構造物を指さす。ルーカスはその、アサルトライフルのマガジンほどの黒い直方体を二人の中間くらいのところに置いた。
「こいつは……」
「見ての通り構造物だが、特別製のROM構造物だ」
「メモリ……」
ルーカスはケイスと構造物とを見比べる。現代の技術ならばもっと上等なものが作れるはずだと思ったからだ。わざわざ化石みたいにする必要はないはずだった。
「特別製なんだ、こいつは。というか、いまのやつじゃあどいつもこいつも常時共有さ(オンライン)れてる。こいつは独立している必要があった」
「どういうこと……」
「なんだと思う、坊や……」
にやにや笑いのケイスに、ルーカスは知るもんか、と喉まで出かかった言葉をこらえ、考える。当然、ふりだけだ。ケイスがこういうことをするときは、たいがいからかい半分だ。真面目な話なのだから、いつもより少しは真面目にできないのかとルーカスは反感を覚える。思った通り、唸ってみせるとケイスは豪快に笑った。
「接続すればわかる。ここでしてもいい」
側面のプラグをうなじに差し込めというジェスチャー。ルーカスは迷わず、接続した。