第一章 2
十八になったら教えてやる――ケイスが、ルーカスに何度も伝えてきた言葉だった。ルーカスが辛抱強くケイスの言うとおり基礎練習を繰り返してきたのも、スキルの手っ取り早い向上のために電脳空間に用意された高速化空間に繋がなかったのも、ケイスが、ルーカスの十八の誕生日に教えてくれると言ってくれたからだ。
「何を……」
と尋ねたルーカスに、ケイスは喜色満面こう答えた。
「全てを」
それが今日、伝えられる。リリーの別れ際の言葉はこのためだった。自分はまだまだ半人前だが、ケイスの、あの稲妻のような手際をものにできれば、今までやってきたことがお遊びのように思えるだけの技術が手に入れられるに違いない。そう思い、ルーカスは興奮を抑えきれず、すこし吐息が荒くなるのを感じた。
廊下の先に一枚の扉。真ん中に縦長の窓ガラスの嵌めこまれた扉がその向こうの淡い光を薄ぼんやりとこちらに伝えているだけなので、狭い道はことさら狭く感じられる。散らかった古めかしいデッキやパンチ・カード、数世代前の携帯電話や、今や希少品にもなりつつある歯車。たまにその中の何かを踏んでしまい、足の裏が痛い。ケイスのいる部屋に辿り着いた時には、距離のわりにルーカスは疲労を感じていた。ここまで歩いてきたのも堪えたかもしれない。
「入りますよ」
と断って、中に入る。照明が思ったよりキツく、ルーカスは眩しさに瞬きする。しばらくすると、眼球の奥にじんわりとした感覚。ルーカスは昔から目のことは敏感だった。部屋は廊下とは違って綺麗に整頓されていた。辺りを見回しケイスの姿を探そうとしたところで、ぱん、という炸裂音とともに何かが顔に引っかかった。
「ハッピバースデー、ルーカス」
ケイスの右手に特大のクラッカー。待ち伏せされていた。ルーカスの目にじわりと涙が浮かんで、思わず目をこする。
「いやだったのか、こう言われるの」
「いや、そうじゃないんです。ちょっと、嬉しくて」
こすっても止まらない涙が、緊張をゆるめてくれていた。
「どうして嬉しい……」
「毎年おれの誕生日を忘れてた人が何を言っているんです」
「一度だって忘れてない。おまえが、自分の呼び方までおれの真似をするようになった時のことまで俺はちゃんと覚えているんだぜ」
「毎年すっとぼけてたわけですか」
「まあ、そんなことはいいんだ。リリーの誕生日なんだろう、今日は。これでなにか買ってやれ」
と言って、差し出される数枚の千新円。額は換算すると相当のものだが、いったいいつ発行されたものだろう。日本で紙幣が使われなくなって久しい。使えるとすれば、スプロールの露店。
「俺がついていってやるから、闇市でなにか買え。そこらの店より良い物が、それなりの値段で売ってる」
「安い店は教えてくれないんです……」
「自分で値引け、ってことさ。とりあえず、ケーキ、どうする……」
ルーカスは顔にかかった細長い紙を払って床に落としながら、ケイスが店でケーキを買ってきた様子を想像して、思わず笑った。食卓に向かうと、有名店のケーキ。ルーカスは普段ナナシノゴンベエ(こんなところ)にいる人がわざわざ街に出て、デパートくんだりにまで出かけた様子を想像してまた笑う。いつもならケイスは不機嫌そうな目を向けるだろうが、今日は機嫌がいいのか鼻歌を歌っている。古い歌だ。マイスターが歌っていた気がする。
「そういえば、師匠」
「どうした」
リビングとダイニングの境あたりに設けられた食卓について向かい合う。ケイスの青い瞳をみて、ルーカスは言葉に詰まった。彼に話を急かしても、いつものようにはぐらかされるんじゃないか――そんな思いがルーカスの頭をよぎる。ルーカスは、喉まで出かかった言葉をつばと一緒に飲み込んだ。
「師匠はいくつですか……」
「なぜ……」
訝しげなケイス。
「さっきの、マイスターが歌ってたから」
緊張してたのか、口がうまく動かずもごもごという発音になる。恥ずかしくなって目をそらす。しばしの沈黙。ケイスの声が静寂を破った。
「あいつと同い年だよ」
「あいつって、マイスターのこと……」
「ああ」
ぶっきらぼうに言ってケイスは箱を開ける。シンプルないちごのショートケーキが中に入っていた。あらかじめテーブルに積み重ねられていた小皿に自分の分とルーカスの分を取り分けた。ルーカスはマイスターとケイスの関係に詮索をいれず、ケーキを受け取る。いただきますと言おうとして、フォークがないことに気がついた。
「うっかりしてたよ」
笑って席を立つケイス。しかし、向かったのはキッチンではなくリビングの奥、まだルーカスも入ったことのないケイスの私室だった。ケーキを前に生殺し。リリーもこういう思いをするのだろうか、とルーカスは想像する。では、オシマだったら――とそこまで考えて、ケイスが戻ってきた。その手には、リリーのうなじのジャックと同じ色の直方体が握られていた。いまや骨董品じみた、大昔の構造物だ。
「それは……」
「誕生日プレゼントだ、ルーカス。十八歳の誕生日おめでとう」
受け取る手が、思わず震えた。直感的に、ルーカスはこれが何なのかを理解していた。
「さあ、ケーキを食べよう。時間はあるさ、今日はおまえの十八の誕生日だからな――――」