第一章 1
たとえば、電車でぼんやりと外の景色を眺める時間。
たとえば、シャワーを浴びて汗を流している時間。
たとえば、真っ白なカンバスの前に立ち尽くしている時間。
ルーカスはそういった空白の間、美しいプログラムのことを考え続けていた。リリーとは先ほど別れ、いま、ルーカスはひとりフクオカの街を歩いている。博多の沿岸部、もっとも外国人労働者が多い地域だ。道行く人種は多種多様だが、白人は少なかった。日本人とイギリス人のハーフのルーカスは、彼らのうざったい視線をいつも肌で感じる。
退廃。スプロールは無秩序だ。
ルーカスは今日、十八歳になった。思春期もいよいよ終わりに近く、将来のことを考える時期だ。リリーも心配しているし、間違ってもやくざな職にはつけないな、とルーカスは頭を振る。デジタル・アーティストがやくざな商売とは、どうしてそういった誤解が生じるのだろう。溜息を吐いて、多色LEDのネオンの下を歩く。夜の帳が下りていた。
ルーカスは師匠のところへと向かっていた。昔は一流の電脳空間カウボーイとしてスプロールに名を馳せたそうだ。彼に連れて行かれたバー「キリシマ」では、彼のことを知らない男たちはいなかった。
デジタル・アーティストは違法ではない。だが、娯楽用の公共プログラムの作製は、高度な技術が必要になる。残念なことに最先端の技術を手にしているのは電子のマトリクスの間隙を縫って、夜烏のように生きていくカウボーイだった。ルーカスは違法行為に手を染めるつもりはなく、だからこそ師匠のような人はありがたかった。マイスターは見咎めているようだが、知ったことではなかった。
名もない通りに沿って人工の光の強い方へと向かえば、ビルの谷間を行くように路地裏に入る。何度も路に迷っていたので、ルーカスは蜘蛛の巣状に張り巡らされた道をすっかり覚えてしまっていた。「キリシマ」のある通りの行き止まりに、師匠のねぐらはあった。これも、道と同じで名のないマンション。「ナナシノゴンベエ」が日本の伝統的な何かだと勘違いしたオーナーがつけた名前だと、師匠は言っていた。たまに見かける、技術の恩恵を受けていない皺だらけの老人がオーナーだとルーカスは踏んでいたが、真偽の程は不明だった。
キリシマの前を通ると、丁度道の前を掃除していたおシマに声をかけられた。
「あら、ルーカスくん。今日もお師匠さんのところ……」
「こんばんは、おシマさん。十八になったので、その報告に」
初対面でシマさんと呼んだ時、名前の前におをいれてくれと彼女が言っていたことをルーカスは覚えていた。師匠や他の人はワカオカミと呼んでいたが、それがどうしてかは判らなかった。
ルーカスはリリーを可愛いやつだと思っていたが、おシマに対しては、それとは違った魅力を感じていた。だから、リリーには気楽に話ができるが、ついおシマに対しては一歩引いた言葉遣いをしてしまう。ルーカスの動悸が高まった。
「へえ。誕生日、いつだったの?」
入口付近の掃除を止めて、おシマはルーカスに向き直る。仕込みの途中だったのか、服装は割烹着のままだ。予備が三枚あるのよ、とおシマは師匠に酒を注ぎながらルーカスに語ったことがある。そのうちの一つなのだろう。
「実は今日なんだ」
照れくさそうに、ルーカス。
「あら。それなら夜はうちに来るの……」
「あぁ、多分ね。今日は幼馴染の誕生会をしたから、きっとおれのは明日か明後日だろう」
「幼馴染――リリーさん、だったかしら……」
「ああ」
ケイスはわざとらしく、急がなきゃといった素振りをした。
「それじゃあ、また」
「ケイスさんによろしくね」
向日葵のように笑って、おシマはルーカスに手を振った。おシマには、あまりリリーの話をしたくなかった。
ルーカスはおシマに頭を下げて、綺麗になったコンクリートの上を歩く。何十年分かの人生が詰まっているような廃れ具合だった。コンクリートに穿たれたいくつかの窪みが人の顔に見え、不気味だ。ルーカスは顔を上げて歩き始める。
路地裏はゴミ溜めのようだ。しかしルーカスはそれが作り出す混沌を気に入っていた。師匠に出会ったのはこんな混沌の中でチンピラに絡まれた十五の夏だった。
路地の奥からふらりと現れた師匠――ケイスは一瞬で三人のチンピラを地面に這わせていた。どうやったのかその時のルーカスには判らなかったが、今では理解る。セキュリティコード=コード07と公共コード=コード08とをクリアした高負荷プログラムをプライベートエリアで実行したのだ。そうすれば合法的に他人の電脳を過負荷させて、動きを封じることができる。だがそのためには半合法的に他人の電脳に侵入することが必要になる。並大抵の技じゃない。その手際と、自分のお礼も聞かずに去っていこうとしたケイスの姿に憧れて、意味もわからず弟子にしてくれと頼み込んでいた。
ルーカスがデジタル・アーティストになろうと思ったのもケイスが原因だった。弟子入り後少ししてケイスが公共電脳空間で実行してみせたプログラムにルーカスは心奪われた。変哲もないマンションの一室を不条理で混沌とした、それでいて美しい異世界に変貌させたプログラム。足元では光が踊り頭の上では雛人形がストンプを演じ、ルーカスは生まれて初めて、アートを骨で感じた。
これだ、とルーカスは思った。この感動をみんなと共有したい。だがこれは旧態依然な絵画や文学といった形態ではなく、現在進行形の無秩序な混沌を持ったものでしか伝えきれない。ルーカスはそう断じた。
実態もなく、ふわふわとした電脳空間。人間の電子世界への初接続から五十年が経ち、いまではコンタクトレンズ型レイヤーをつければいつでもどこでも公共電脳空間にアクセスできる時代だ。昔は、音楽は骨で感じるものだったということをルーカスは聞いたことがあったが、今ならば、音楽に限定されない。事実、違法合法関係なく、体験型プログラムというのはすでにあちこちで出来ている。
ならば、もっと美しいものを。原始的な快楽と理性的な感動を同時に味わえるものを作ることができるはずだ。ルーカスはそう考えていた。そのためにも、師匠の技術が必要だ。
気づけば、ルーカスの足は師匠の部屋の前にまでルーカスを運んでいた。深呼吸をして、インターホンを鳴らす。ルーカスが初めてここに来た時から、意味なく続けていたうちについた癖だった。
「ルーカスか……」
と、スピーカ越しの声。ケイスの声だった。ルーカスは返事をする。築六十年にもなるぼろマンションの一室がケイスの拠点だった。そこに広がる世界は、深すぎて底が見えない。ルーカスは落ち着くために、もう一度深呼吸する。
「入れ。鍵は開けてある」
ぶつりという音。スピーカを切ったのだった。ルーカスは冷たいスチールのドアノブに手をかけ、中に入った。