第七章 10
無数のカラスの群れがドームに溢れた。
羽ばたきの音が豪雨のようにドームを満たし、黒い塊が渦を巻きながらバルコニーを襲う。
びちゃり、と肉が潰れる音が響いた。
びちゃ、びちゃ、と泥の跳ねるような音と共に、大量の血が落ちてくる。
血塗れの羽毛が散る。
潰れているのはカラスだった。
バルコニーの上で、少年が片手を身体の前に突き出していた。
開いた掌の前で、見えない壁にぶち当たったカラスの群れが、次から次に肉片と化していく。だが、カラスも潰れていくだけではない。血と肉片の中から再び嘴が生まれ、黒い翼が開く。あぁ、と啼いて飛翔し、少年に向かう。エンドレスの動画を見ているようだ。
少年の貌が歪んだ。
ぴっ、と少年の頬が裂けた。
一羽のカラスがすり抜けた。別のカラスが続く。
少年の背後で、少年の防御を破ったカラスの塊が子供の姿に変わる。
伯爵だった。
アッシュブルーの眼が青白い光を放ち、指の先に指よりも長い爪が伸びる。
ゆらり、とシアが動いた。少年の前に出る。下僕は本能的に主人を護る。
同時に、ドウマも動いていた。すでに身体はバルコニーの上だ。
シアと伯爵の間に割り込む。
伯爵の爪が、ドウマの額の前で止まった。
止めたのは伯爵の意志か。それとも――
銀色の蛇が伯爵の手首に絡みついていた。一匹や二匹ではない。髪の毛のように細い蛇が幾匹となく絡みつき、ぎりぎりと伯爵の手首を絞めつけている。
伯爵の眼が動いた。
ドウマも眼を向けた。
白銀の髪の毛を蛇のように揺らしながら、長身の女が立っていた。
服装は男の恰好である。派手なコバルトブルーのスーツにネクタイはオレンジ。サングラスをしているが、それが誰だかドウマにはわかった。伯爵もわかっただろう。
「ターニャ――」
名前を呼ぶと、ターニャの口に歪んだ笑みが浮いた。
「悪いわね。伯爵。そのメンツ、誰ひとり殺させるわけにはいかないのよ」
サングラスを外しながら言う。瞳孔が縦に細長い蛇の眼。伯爵の手に絡みついた蛇はターニャの髪の毛だった。
「少女が死ねばオーマが自由になってしまうし、ぼうやが死ねば少女を動かすことができなくなる。オーマが死ねば計画が遂行できない」
「計画?」
伯爵が口を開いた。その声が氷よりも冷たくなっている。
「そのぼうやが言ったでしょ。ワクチンの供給システムの破壊と人間社会の崩壊――よ」
「あれは君の考えか」
「そうよ。言わなかったかしら。伯爵。あたしは人間なんて滅んじゃえばいい派だって」
伯爵の爪が一閃した。
斬、と音をたてて、ターニャの髪の毛が切断された。無数の蛇の首が飛ぶ。
しゃあっ、とターニャが吠えた。
「やめろ。伯爵。ターニャ――」
「ラヴィア。ドウマオーマに命令しろ」
背後で少年の声がした。首を捩じると、腰の辺りに少年の貌があった。黒い眼が暗い光を放っている。シアの身体は少年の後ろに移っていた。
「その吸血鬼を殺せ」
「――!」
ドウマオーマに命令する
その吸血鬼を殺せ――
シアの手が人形のように持ち上がり、伯爵を指差した。
どくん、と心臓が動いた。押さえたが、止まらない。
眼の前に伯爵の身体が浮かんでいる。
伯爵と眼が合った。アッシュブルーの眼が青白い光を放っている。
全身の細胞が、殺せ、と叫んだ。
ぶん、と頭を振ったが消えない。
「オーマ」
ターニャの声。褐色の貌の中で、白い蛇の眼がドウマを見つめている。
「邪魔だ。退がれ」
低く言い放つ。ターニャが退がった。慄くような表情を浮かべたが、構っていられない。
眼の奥に闇が広がり、視界も闇に染まろうとしている。
伯爵の姿と、こればかりは光に包まれたようなシアの姿だけが眼に映る。
「悪いな。伯爵――」
獣のような息を吐きながら、ドウマは唇の端を吊り上げた。
「契約の強制力が発動した」
距離を詰め、左手を振った。伯爵の身体が二つに裂ける。と同時に、霧散した。霧が渦を巻き、周囲を満たす。
吸血鬼の霧はどこにでも侵入する。
シアに眼を向ける。虚ろな表情は唇を薄く開いている。
シアに近づく霧を見た瞬間、頭の奥で『闇』が炸裂した。
空気が悲鳴をあげた。
シアの周りで閃光が渦を巻き、オゾンの匂いが充満する。
霧に灰が混ざった。シアの手前で、白い霧が灰と化して散っていく。数条の霧が逃げるように流れ、バルコニーの下、大理石の床で塊となった。
陽炎のように青年の姿が現れた。
感染前の姿だろう。二十代後半でDウィルスに感染し、子供の姿になったと聞いたことがある。
青年貴族の貌に血の気は無かった。
髪の毛は半ば空気に溶け、身に纏うダーク系のスーツも輪郭が揺らいでいる。
「そう言えば、服まで自分の細胞だ――と言っていたな」
床に降りて、伯爵に近づきながらドウマは口を開いた。
伯爵の眼の下がどす黒く変色している。アッシュブルーの眼だけが凍るような光を放ち、ドウマを睨みつけてくる。
「人間の敵になるのだな。ドウマオーマ」
「おれの敵はシアに危害を加える者だ。伯爵。おれがシアの前に割り込まなければ、シアの額を貫いたか?」
「否定はしない。君達の誰かが欠ければ主従契約は崩壊する」
「そうか」
その瞬間、ドウマの身体は伯爵の前に在った。
伯爵の首に手をかけ、床に叩きつけた。
大理石の床にひびが入り、伯爵が苦鳴を洩らす。
身を起こそうとする。その身体に、ドウマは馬乗りになった。
左手で伯爵の肩を押さえ、右手の指で伯爵の胸を貫いた。五本の指が伯爵の胸に潜り込む。肋骨が砕け、大量の血が散った。
「心臓を……外しているぞ」
ごぶり、と血を吐いて、伯爵が嗤った。
「外したのさ」
唇の端を上げた。
「変化しろ。伯爵」
アッシュブルーの眼が大きく開き、次の瞬間、伯爵の身体は消え、無数のカラスが現れた。黒い羽毛を散らしながら、ドームの天井に向かって飛翔していく。
バルコニーの上で、少年とターニャが驚愕の表情を浮かべた。
「ビルを封鎖して」
少年が叫び、ターニャが端末を取り出す。
シアは人形のように立っている。白い貌も、紫色の眼も虚ろだった。
「シア――」
その貌に笑いかけた。
もう一度、おまえの笑顔が見たかったが。
今の命令は拒否する
ひっ、とターニャが悲鳴をあげた。
少年が唖然と口を開く。
「な、なんで? 下僕を失ったらラヴィアは用無しだよ。始末してもいいの?」
「おまえはシアに執着している。今も護った」
ドウマが伯爵の前に割り込んだように、少年もまたシアを庇うように背後に移動させた。
遡れば、ゾンビ事件の時、シアのマンションにいたのもシアが気になったからだろう。ドウマを支配するだけの道具のつもりでいるなら、シアがゾンビになろうと構わなかったはずだ。
ならば――
「おまえはシアを殺さない」
ぐしゃり、と音をたてて、身体の中が潰れるのを感じた。全身の毛孔から血が噴き出し、血飛沫に視界が染まる。霞む視界の中で、バルコニーが斜めになっていく。
胸を押さえながら、頭から倒れていく。
「兄さん――!」
少年の声。一瞬、意識が覚醒した。床に落ちる寸前、途方に暮れた子供のような貌が見えた。
ああ。そうか――
弟だったな。
――弟を生んであげるね。




