第七章 5
月が浮かんでいる。
都会の空は濁っていて、朧に霞む月は実際よりも大きく見える。
シアは左手を月に向かって伸ばした。
銀色のナイフを握っている。
月の光がナイフの刃にまとわりつき、冷ややかな刃が柔らかな光に包まれているように見える。
「綺麗――」
子供のようにシアは言った。
月が綺麗だと言ったのはオーマだった。
シアの中に何が綺麗だと判断するだけの記憶は無い。
それなのに、名前が言える。
マンションの場所も知っている。
いつから住んでいるのか知らないのに。
どうしてそこに住んでいるのかわからないのに。
たぶん、必要最低限の知識だけ植えつけられているのだろう。
人形のように――
「オーマはシアが人形だと気づいているのかな」
きっと気づいていると思う。
それでもそばにいてくれる。
「シアの望みは――」
歌うようにシアは言った。
「シアが死ぬまでオーマがシアのものでいてくれること」
これも植えつけられたものだろうか。
――死ぬまでおれはおまえのものだ。
それともオーマの言葉が生んだシア自身の想いだろうか。
わからない。
わかるのは、これが危険な状況だということ。
――下僕は主人の命令に逆らえない。
では、その主人が人形だったら。
誰かの人形だったら。主人ごと下僕も誰かのものにされる。
「オーマはシアだけのものだよ」
銀の刃を首に当てた。
ひんやりとした感触。
下に引こうとした瞬間、手の中で銀のナイフがぼろぼろと砕けるように壊れて落ちた。
「困るなあ。死なれちゃ――」
誰かの声。
愉しそうな声はまだ若い。少年の声だと言ってもいい。
「だあれ?」
シアは首を巡らせた。
眼の届く範囲には誰の姿も無い。
「他人のために死ぬなんてこと誰に教えてもらったの。ドウマオーマ?」
「オーマを知ってるの?」
「知ってるよ。よおくね――」
あ――はは、と甲高い笑い声。
「どこにいるの?」
シアのまわりで、風がざわざわと草を動かす。シアの髪もなびく。
ふいに月の光が陰った。月が雲の中に入ったのだ。
シアの前に人影が立っていた。小柄な身長はシアよりも小さい。子供のようだった。
影がゆっくりとシアに片手を差し伸べる。
迎えに来たよ、シア・ラヴィア
わが下僕――
その瞬間、シアの意識は虚ろになった。
右手が操り人形のように持ち上がり、影の手に重なった。
「はい。ご主人様――」
感情の無い声でシアは答えた。
影の口許に、歪んだ笑みが浮いた。
「手に入れたよ。ドウマオーマ。おまえは僕のものだ」




