第一章 8
部屋の照明は全て落とされていた。
窓にはシャッターが下ろされ、外の明かりも漏れてこない。
人間の眼には闇に近いだろうが、火災探知機のセンサーがONになっているため、そのわずかな光で、クジには充分に識別可能であった。
部屋の中央にクイーンサイズのベッド。ベッドの脇にはアームチェアが置かれ、部屋の主が坐っている。肉感的なシルエット。女であった。
「失敗したそうね」
女が口を開いた。シルエットは足を組んでいる。着崩れたナイトローブ。闇だと思っているのだろう。
《想定外の事態が生じた》
クジは扉近くの壁際に立っている。
「想定外?」
《対象に護衛がついた。吸血鬼クラス――Sランクの魔物だ》
「どういうこと? 話が見えないわ」
《こちらも困惑している。観察したままを口にするなら、Sランクの魔物が対象と会い、出会って十分かそこらで対象の下僕になることに同意した、と言うしかない》
――面白そうだったからな。
男はそう言った。
死ぬまで主人に服従し、逆らえば死ぬような立場が、面白い――?
出鱈目な思考パターンだが、会話は理路整然としており、知能の高さが窺えた。
危険を愉しんでいるようで、愉しんでいる己を俯瞰しているような冷静さも感じられた。殺人の禁忌を持たず、しかし、殺戮に酔うようなタイプでもない。四人の部下の首を躊躇うことなく折っているが(強化人間でなければ即死している)、息があると知っても、殺して快楽を得ようとはしなかった。
感情に乱れは無く、精神年齢は高いと思われる。
それだけに、面白いという理由だけで少女の下僕になったことが信じられない。
行動が破綻している。
所詮は魔物か……
堂間大真――
戸籍上では人間だが。
抗体検査の後で魔物化した可能性に言及したが、魔物が人間の戸籍を奪った可能性もある。記録では堂間大真は十歳で祖父と死別し、児童養護施設に引き取られているが、数日で行方不明になっている。学校に通った記録は無い。
会話の中で、声音に変化が認められたのは二箇所。
『祖父』と『研究者』――
ほとんど愉しげに応じていたが、その言葉付近では声の質が変わった。
魔物が人間の戸籍を奪ったのなら、『祖父』に反応するとも思えないが……
「クジ――」
女の声がクジの思考を中断した。
「詳細は後で聞くわ。奉仕しなさい」
アームチェアの上で、女は足を組み替えた。
女に聞こえないようにクジは舌打ちをした。
クジは強化手術で痛覚を失った。機能は残っているが、痛覚と共に快感も失われている。女を抱いたところで、快楽を得られるものではない。一方的に女を悦ばせるだけ。奉仕と言うなら、まさにその通りだ。
クジは無言で女に近づいた。
女の眼にはクジの姿は見えない。クジの手が女の足に触れた。女の身体が驚いたようにびくりと反応する。クジは女の足首を掴み、組んでいた足をゆっくりと開かせた。足の内側に沿って指を這わせていく。
(このおれも下僕のようなものだな)
自分で自分を嘲笑う。それでもクジには仕事が終われば報酬という対価が支払われる。クライアントの命令が多少意に沿わないものであっても、相応の報酬がもらえるなら文句は言わない。契約とはそういうものだ。
(ただ服従するだけに何の意味がある)
主人の命令に逆らえず、逆らえば死ぬというなら――
ならば、死ね、と命令されれば、どうなる。
男の貌が浮かんだ。
――面白そうだったからな。
愉しそうに笑いやがって。
(化け物が)
指に力が入ったらしい。女が悲鳴のような声をあげた。