第一章 7
《堂間大真――》
ざ、という音と共に声が聞こえた。
マスクを剥がした影からだった。
反射的にシアを背後に移動する。一瞬、この行為は下僕だからか、と考える。
下僕は本能的に主人を護るという。ならば、無意識の行為や意識的な行為にまで影響が出るはずだが、今のところ、自我や意思を変容させようとする圧力は感じられない。
(思ったよりも普通だな)
その耳に、影の声が届く。
《0歳、三歳時のDウィルスワクチン接種済み。五歳時の検査で抗体を確認。人間と判定。現在、十八歳。両親とは幼少期に死別。その後祖父と同居。――ああ、こちらも死別か》
「……さっきまでと声が違うな」
低い声で、ドウマは言った。
「誰だ?」
《クジという。そこの四人のリーダーだ》
影のスピーカを通信機代わりにしているのだろう。そこの、と言うのだから、本人は別の場所にいるに違いない。
「リーダーのくせに前線に出てこないのか」
ドウマの声に皮肉な響きが混ざった。
《少女の身柄を確保するだけの仕事だ。部下で十分だと判断した。貴様という伏兵は想定外だ》
「そいつは悪かったな」
《想定外は貴様もではないのかな?》
クジと名乗った声が続ける。
「――?」
《そこの少女、知り合いだったか?》
「いや」
《初めて会った少女の下僕になることを想定していたか?》
「なるほど。そういう意味か」
ドウマは唇の端で笑った。
「まさか。想定しているわけがない。成り行きだよ」
《成り行きで己の生殺与奪権を他人に渡すのか?》
「面白そうだったからな」
《面白い――それが貴様の行動原理か?》
クジが質問を重ねる。
「こいつは尋問かな?」
愉しそうにドウマは言った。
《貴様には興味が湧く。ひとつ、人間と判定された者が魔物化していること。随分と人間のふりがうまいようだが、さすがに魔力を使う時はそうはいかないようだな。契約を交わす瞬間、センサーが破壊された。吸血鬼クラスのD反応だ。ワクチンが効かない者はいるが、抗体を獲得した後に魔物化した例は聞いたことが無い。貴様の存在を知れば、研究者どもが眼の色を変えるだろう》
「おれを捕えて引き渡すか?」
冷ややかに応じた。
《それが仕事ならばな。だが、現時点の目的はそこの少女だ。貴様に興味が湧くと言った理由はこちらの方が大きい。下僕と言うからには主人を護ろうとするだろうな?》
「だろうな」
《つまり、その少女を手に入れようとした場合、貴様が最大の障害になるというわけだ》
「そうなるな。なるほど。思考パターンの収集か」
――こいつは尋問かな?
先ほど放った質問の答えに自ら行き着く。
《そうだ》
淡々とクジが告げる。
《貴様を障害イコール敵と見做した時点で、こちらは情報収集に入った。敵の思考パターンは戦略を決定する上で重要な情報だ。会話ひとつでも分析材料になる》
「分析は済んだのかな?」
興味を覚えてドウマは訊いた。
《貴様は危険を好む傾向がある。こちらが貴様を探っていると知って、愉しそうにしている。この手の敵は危険な罠を用意してやれば、自分から飛び込んでくる。ある意味、単純で与し易い相手だが、絶対的に守護しなければならない存在――そこの少女のような存在を抱えた場合、攻撃は最大の防御という行動に出る確率が高くなる》
「へえ」
《非常に危険であり、可能な限り速やかに排除すべきと考える》
「どうする?」
愉しげに、ドウマは眼を細めた。
《とりあえず、指名手配をさせてもらう》
「指名手配?」
《ビル爆破の容疑者だ》
「!――」
シアの腰を抱え、後方に跳んだ。
予備動作抜きで十メートル近く。着地点でさらに跳ねる。今度は四十五度の角度。距離と高度をとる跳躍だ。
鉄柵に触れずに越える。
影の身体にオレンジ色の光が点った。
その光が広がる。
閃光に包まれる直前、ドウマの身体は水平方向への運動エネルギーを失って落下した。腕の中にシアの身体を抱え込んでいる。跳び越えたばかりの鉄柵が、爆風でひしゃげて、身体の上を通過する。
四つの爆発音が響き、オレンジ色の炎が夜空を赤く照らした。
その炎が瞬く間に小さくなる。
身体が落下しているからだ。十メートル、二十メートル、三十メートル……
漆黒のビルの壁面に、背中を下にしたドウマの身体が映っている。
腕に抱えたシアの髪が翼のように広がっている。
ドウマは左拳をビルに叩き込んだ。
ガラスが割れる。急制動。完全には止まらない。ドウマの左手が鉤爪の形でガラスを下に引き裂いていく。窓枠でがくんと止まった。
地上まで残り数十メートル。
ガラスの破片だけが落ちていく。
足の下で地上を走る車のライトが光の帯となっている。
その帯が乱れ始めた。ドライバー達が爆発に気づいたのだろう。炎に包まれた破片が次々と地上に落下している。
「やってくれる」
唇の端を歪め、ドウマは言った。
あの時点で影達にはまだ息があった。襲ってきた連中の生死を気にかけてやる義理は無いが、まだ生きている部下を自爆させる行為には、さすがに嫌悪を覚える。
サイレンの音。警察と消防が動いた。車のライトの中に赤い光が混ざり始める。
「やれやれ――」
その赤い光を見ながら息を吐いた。
「いい場所だったのにな」
ビルの屋上を丸ごと草原にしてあった。土の匂いが気に入っていたが。
ねぐらがひとつ潰れたな、とぼやく。
腕の中で、シアが窺うように貌を上げた。あどけない貌に恐怖の色は無い。ドウマと視線が合うと、にこり、と笑う。
「怖くないか?」
「どうして?」
怖くないよ――人形のような貌に無邪気な笑みを浮かべて言う。
「ふん――」
ドウマは口の端で笑うと、窓枠から指を離した。
下には車から降りたドライバー達や爆発を知って集まりだした者達がいる。
ほとんどの眼が屋上の炎に向けられている。
ビルの壁面を蹴った。四車線の道を挟んだ対面のビルでさらに跳ねる。
気づいて反応する者は誰もいなかった。