第一章 月の光に花はほころび
第一章 月の光に花はほころび
いい月であった。満月ではないが、それに近い。
ほの白い光が夜の大気に滲み、朧に霞んだ月の輪郭がやけに艶めかしい。
どこからか、甘い匂いが漂ってくる。湿った土の匂いと濃厚な草の匂い。その中に、細い糸のように甘い匂いが混じっている。
(花でも咲いたか)
ゆるく息を吸い、吐きながら、ドウマはその匂いを嗅いでいた。
いい匂いである。
月下美人――
そんな花の名前が浮かんだのは、眼前の月のせいだろう。匂いは月下美人のそれではなかったが、闇のどこかで咲いたこの花も、月下美人のように美しい花かもしれない。
ふ、とドウマは口の端で笑った。
匂いを頼りに花を探すか。そんな他愛もないことを思いついたのが可笑しかった。
それとも、このまま眠るか。
それも悪くない。
甘い匂い。甘い夢が見られそうである。
草の上で、ドウマは仰向けになっていた。両手は指を組み合わせ、頭の下に入れている。
眼を閉じた。
風がさわさわと草を揺らし、ドウマの身体を弄るように渦巻いてから、夜の大気に広がってゆく。その感触が心地好い。
閉ざされた空間は好きではない。家の中で眠るよりも、外で寝るのをドウマは好んだ。特に場所を決めずに適当にうろつき、手頃な場所があれば、そこで眠る。雨が降ってもそれは変わらない。さすがに雨を遮るものを探すが、見つからなければ雨の中で寝ても構わなかった。
――野生の獣のようね。
そう言われたことがあるが、縄張りに縛られる獣よりは自由だと思う。
「ねえ――」
声がかけられた。
女の声であった。まだ若い、少女の声である。甘く、無邪気な響きが、ドウマに片眼を開かせた。
「ほう――」
思わず感嘆の声が洩れた。
月の下に、美しい少女が立っていたのである。
人形のように整った顔立ちだった。
十六歳くらいだろうか。
月の光と同じ色の髪が、ゆるやかに波うちながら腰まで伸びている。
身体つきは華奢で、まだ女を感じさせない。スリムな身体に白いワンピースがよく似合っている。袖の無いシンプルなデザインだが、淡い光沢はシルクだろう。高価なものと知れる。
そのシルクよりも少女の肌は白かった。
闇に浮かぶような白い貌の中で、子猫のように大きな眼が透明な光を放っている。
紫色の眼だった。その眼が、真っ直ぐにドウマを見つめている。
ドウマは両眼を開けて、少女を見た。
視線が合うと、少女は、にこり、と笑った。
「隣――いい?」
あどけない貌で言う。ドウマの隣に近づいていいか。そう訊いているのである。
普通の少女ではない。
少女から見れば、ドウマは夜中に外で寝ている得体の知れない男である。普通の少女なら、近づくことはおろか、声をかけることさえ躊躇うはずだ。
ドウマは唇の端を上げた。
「いいよ。――おいで」
右手を頭の下から抜いて、招くように振った。
にこり、と笑って、少女が動いた。
スカートから伸びる白い足。光沢を帯びたサンダルを、淡い色のリボンで足に固定している。細いヒールは草むらには不向きだと思うが、少女の動きは軽やかだった。
弾むように近づいてくる。
ドウマは右手を頭の下に戻した。
仰向けのままである。
少女の足がドウマの頭の横で止まった。
ドウマを見下ろす少女の眼。その眼が、人間にしては怖ろしく澄んでいる。
「魔物かな」
「あなたも、でしょう?」
ふわり、と坐りながら、少女が言う。
スカートが花のように広がる。草の汁がつくだろうな、と思ったが、少女は気にした風ではない。
「どうしてそう思う?」
「わかるよ。だって」
空気が違うもの――くすくす、と少女は笑った。
「へえ」
「何者か、訊いてもいい?」
「何に見える?」
ドウマが言うと、少女は愉しそうに笑った。
「姿は人間ね。変身する?」
「いいや」
「吸血鬼じゃなさそう。あなた、精悍すぎるもの」
「美形じゃない、と正直に言っていいぜ」
「あなた、素敵よ」
子猫のように笑いながら少女が言う。
無邪気な貌だが、台詞だけ聞けば、男を刺激しているとしか思えない。
「子供の台詞じゃないな」
「子供じゃないよ」
少女の貌が近づいた。ドウマの上に少女が半身を傾けたのだ。
「キスしてもいい?」
桜色の唇が囁いた。小さな唇は、ほころび始めた桜のようにほんのりと紅い。
「いいよ」
仰向けのまま、ドウマは言った。
少女の右手がドウマの頬に触れた。ひんやりと冷たい。
「吸血鬼かな?」
「吸血鬼に見える?」
「他の魔物にしては綺麗過ぎる」
くすくす――
人形のようなあどけない貌が無邪気に笑い、桜色の唇が天使のように降りてくる。
甘い匂い。
どこかで嗅いだ――いや、先ほどから嗅いでいた、あの甘い匂いだった。
少女の髪が、蜜のような匂いを放っている。
(月下美少女だったな)
花にちなんだ言葉が浮かび、ドウマは小さく笑った。
少女の唇が唇に触れる。
吐息までも甘い。