第二章 9
薄く入った電磁メスが皮膚だけを斬っていく。
ぱくり、と開いた傷口にピンセットが差し込まれ、裂かれた皮膚の先端をつまんだ。
ぴいっ、とひと息に皮膚を剥ぐ。
少年は眉を動かしたが、声は出さなかった。身体も動かさなかった。
眼の前に掲げられた自分の皮膚を無言で見つめる。
腕の皮膚だった。上腕部から手の甲まで、麻酔もしない状態で、肉から剥がされた。どのみち麻酔の効く身体ではない。毒物だけではなくあらゆる薬剤も、少年の身体は無効にする。ゆえに、肉体に加えられるあらゆる『実験』を、少年は正常な状態で味わった。指を失う苦痛を、腕を斬り落とされる激痛を、腹を開かれ、臓器を抜かれる感触を、その全てを正常な痛覚を維持したまま、気を失うこともなく、味わい尽くした。
痛みは、しかし、持続しない。
数秒、長くても数分足らずで、再生が始まる。
血管が繋がり、赤い糸のような神経が絡み合うように生まれ、損失したはずの肉が、さながら無から生じるように元の状態に戻る。
――化け物が。
少年から剥がした皮膚を培養液に漬け込みながら、手術着の男が言う。
腕の皮膚はすでに再生している。
流れた血が指を濡らしていたが、それも、指先の皮膚から吸収され、体内に戻った。
その後一時間かけて、少年は全身の皮膚を剥がされた。
だが、手術室を出る時には入る前と何ら変わらず、外にいれば、少年が何をされたか知ることはできないだろう。
部屋に戻された少年を、ユミエと名乗った女が待っていた。
――検査は終わりましたか?
無邪気な貌で、ユミエは言った。そう聞かされているのかもしれない。
少年は何も言わなかった。拘束着に包まれた少年を、荷物のように運んできた男達も何も言わない。男達は少年の足に鎖付きの足環を嵌めた後、拘束着を脱がして出て行った。猛獣でも引きちぎることができない鎖はベッドに固定され、ベッドは床に溶接されている。
少年が動くと、鎖が、じゃらり、と重い音をたてた。
――あ、の……
ユミエが口を開いたが、少年は無視した。
――今日は本を持ってきたんだけど。字を教えてもいいかな。
ベッドの上に、ユミエは何冊かの本を広げた。絵本だった。本の存在を少年は知らず、もちろん、絵本とやらも初めて見る。描線から形を認識するより先に、鮮やかな色彩に眼を奪われた。少年の視線が動くと、ユミエは、にこり、と笑った。
――これが『あ』。これが『い』。
ベッドの横の椅子に腰かけ、ユミエの白い指が本の上をなぞった。
やがて、澄んだ声が、ゆっくりと絵本を読み始めるのを、少年は黙ったまま、聴いた。
数日して、ユミエは少年が物語よりも情報に関心を持つことに気づく。
たまたま持ってきた図鑑に少年が手を伸ばしたからだ。「生物」の図鑑だった。
子供用であるため、内容は簡素なものである。が、『魔物』の項が存在した。
魔物の写真が掲載され、分類と特徴、生態が記載されていた。
少年はこの時初めて魔物の存在を知る。
翌日から部屋には図鑑が溢れた。少年の様子からある程度文字が読めるようになっていると知ったユミエは、さらに辞書と現代用語の解説書を持参した。
少年は飢えた獣のように反応した。
何も知らなければ知らないままに過ごしただろう。だが、知識の存在を知った少年はさらに深い知識を求めた。
むさぼるように文字を追った。
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……Denaturation virus (変性ウィルス)に感染した患者を『魔物』と呼んだ時から、『それ』の発生はあらかじめ定められていたのかもしれない。
人々は魔物を怖れ、あるいはまた自らが感染する恐怖に怯え、いつしか狂気に捉われていく。そして――
――化け物を殺せ。
――隔離など生温い。
――殺せ。殺せ。殺せ。
狂気の嵐が全世界に吹き荒れた。
全世界で同時多発的に発生した『魔物狩り』、別名『ハロウィンの狂気』の始まりである。
――あれは悪魔です。
――神が滅ぼせとおっしゃっています。
幾つもの宗教団体が魔物の排斥を唱え、後に『魔物狩り』は宗教団体が煽動したと批判されるが、人々のパニックに宗教家も呑まれたというのが大方の見解でもある。現実に現れた『魔物』――そうとしか思えない存在を前にして、誰が冷静でいられただろうか。
ともあれ、この狂気の嵐はDウィルスに対するワクチンの開発をもって鎮静化するのだが、人間の魔物に対する恐怖は消えず、世界は再び狂気に染まる危険性を孕んだままである。
…………(魔物の誕生史――『ハロウィンの狂気』より抜粋)
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