第二章 7
薄闇の中、影から湧き出るように男が現れた。
長身の男である。男が現れると同時に背後から光が照らされ、そのせいで、男の顔立ちを見ることができない。年齢もわからない。輪郭だけがわかる。
上半身は裸だった。
余分な肉が無い。肩幅は広いが、胸から腰のラインはぎりぎりまで引き締まっている。細いと言ってもいい。おそらく、あばら骨が浮いているだろう。だが、貧弱な印象は無い。厳しい修行に耐えた修行僧のような身体である。
髪は長く、肩の線を超えている。
男の貌が横を向いた。鼻筋が通っている。顎には髭が生えていた。喉仏のあたりまで伸びている。それもまた修行僧のようである。そうでなければ古のメシアか。
男が横を向いたのは、男の横手から巨大な牛が現れたからだ。
いや、正確には牛ではない。肉塊のような巨体を支える後肢は牛のそれだが、前肢は明らかに人間の腕であった。頭部は牛だが、角は異様に長く伸び、口から覗く牙は草食獣のそれではない。
魔物であった。
ぶぇぇぇぇぇ――
耳を覆いたくなるような声で牛が鳴いた。
男は平然と立っている。牛の足が床を蹴り、男に襲いかかった。
次の瞬間、斬、と音をたてて、牛の首が飛んだ。
濃厚な血を散らしながら宙を飛び、床に落ちて、くるくると回る。
止まると、ぶぇぇぇぇ、と鳴いた。
巨大なギロチンが地面に刺さっていた。天井から落ちてきたそれが、牛の首を斬り飛ばしたのだ。斬り口から大量の血が噴出し、直前まで襲いかかろうとしていた男の身体に、ばしゃばしゃと降りかかった。
男が両腕を広げる。
血の雨を避けようとしない。
貌は天を仰ぎ、口を開けている。
その貌にも、口の中にも、魔物の血は降り注ぐ。
男の口は、明らかに笑いの形に開いている。
――創世神の加護により我は魔物化しない。
男の声が響いた。
「――創世神を信じれば、ウィルスに感染しても魔物化しない、というのが、この男、教祖の主張よ」
映像を止めて、ターニャは言った。
口を開けて笑っている、その姿のままフリーズした男。
輪郭だけの姿。逆光のせいもあるが、全身が血に濡れているせいもある。
「まあその手のカルト教団は幾つもあるわけだけど、これはインパクトがあった。全世界に五千万とも八千万とも言われる信者、オム・ナァの子等を生んだ」
「神の名にしては意味不明だな」
ドウマは右の眉だけを動かした。
「教祖の言葉、神は無より来る――from null が訛り、神の名として転化したそうよ」
「ほう」
「まあ、名前の由来はともかくとして。この教団の教義は、信じれば救われる、といった生易しいものじゃない。あんただって知ってるでしょ。こいつらは魔物を殺して殺して殺し尽くそうとする、反吐が出るような殺戮教団よ」
ターニャの眼に血腥い光が揺れる。ドウマは肩をすくめた。
「オーマ。見えないよ」
腕の中で、シアが身動ぎした。
ドウマは左腕でシアの頭を抱え、そのまま左手でシアの眼を塞いでいた。
ターニャが画像をOFFにする。それを見て、シアの頭を解放した。
「どうして見えなくしたの」
貌を上げて、シアが言う。
「子供が見るものじゃない」
「子供じゃないよ」
子猫のように大きな眼で、子供のように言う。
ターニャが、ふふん、と鼻を鳴らした。
「子供だから下僕になったんじゃないの? あんたって女と子供にめちゃくちゃ甘いんだから」
「子供が好きなの?」
シアが嬉しそうに反応した。自分も好きなんだよ、と言いたげだ。
「て言うか、あれね。この男は自分が悲惨な子供時代だったものだから子供に優しいのよ」
ターニャの言葉に、ドウマは視線を上げた。
「悲惨な子供時代だったなんて話をしたか?」
「第二世代以降の魔物なんて多かれ少なかれ悲惨な子供時代よ」
ターニャの白い眼が細くなった。きつい光が眼の奥で揺れる。
「差別と迫害。お嬢ちゃんもそうでしょ?」
「シアは知らない」
「そう。幸せだったのね」
「しあわせ?」
「生きていることを呪うような苦痛と地獄の泥を舐めるような屈辱を味わっていないのなら、幸せだったのよ」
透明な眼が何度か瞬きをし、何も思い当たることは無かったのだろう、シアは幸せな子供のようにどこまでも無邪気な笑みを浮かべた。
ターニャの眼が少し和らいだ。
「何か食べる? 簡単なものでよければ作ってあげるわ」
「シアは花が欲しい」
「花?」
「シアは花が好き」
にこり、と笑う。
「生野菜ならあるけどねえ」
「野菜でもいいけど――」
苦いから好きじゃない――野菜嫌いの子供のように言う。
「花が主食って何の魔物? オーマ、知ってる?」
「いや」
「花鬼。または花喰う鬼」
答えたのは、シアではなかった。
「吸精鬼の亜種のようだね。ドウマオーマのfemale lord」
子供の声が響いた。




