第二章 5
悪魔の契約、魔獣の使役、妖魔召喚――
古より魔の力を利用する伝説、伝承の類は枚挙に暇がない。ならば、Dウィルスによって誕生した現代の魔物も同じように利用できるのではないか――少し考えれば、誰もが思いつくことであった。
多くの魔物が捕えられ、いかにして『隷従』させられるかの実験が繰り広げられた。
生きたまま頭蓋骨に穴が開けられ、脳にメスが入れられた。あるいは大量の薬物が投与された。死んでも構わない実験である。
Dウィルスに感染した患者を『魔物』と呼んだ時から、人間達は魔物を同じ人間だと思っていない。
結論から言えば、人間が魔物を『隷従』させることはできなかったが、魔物同士であれば、あっけないほど簡単な方法が発見される。
言葉によって下僕になることを誓約する――
それだけで、下僕は『主人』である魔物の命令に逆らえなくなる。逆らえば、死ぬことが判明したのだ。
命令に逆らった瞬間から始まる細胞破壊を伴う多臓器不全と生命反応の停止。魔物の生命力でも数分と保たずに死に至ると言う。
完全死の前に『主人』が死ねば、命令は無効になるが、だからと言って自由になれるとは限らない。『主人』の支配力は下僕の精神にも及ぶ。
眼の前で『主人』を殺され、発狂した下僕は少なくない。
下僕にしてみれば最悪な、まさに悪魔的とも言える誓約(Demon Testament)であった。
「それを、した――?」
愕然としながら、ターニャは少女に眼を向けた。
少女は人形のように坐っている。
子供のようにあどけない貌。
桜色の唇に浮かぶ無邪気な笑み。
眼が合うと、にこり、と笑う。
この少女が『主人』――
ドウマの――
「煙管、落ちるぞ」
はっとなって、ターニャは視線を落とした。火はすでに消えていた。
灰を捨て、煙管箱に煙管を置いた。
背後の棚からグラスと酒のボトルを取り出す。銘柄は見なかったが、グラスに注いで、バランタインと知った。一瞬、勿体ない、と思ったが、今さら戻す気になれない。
ひと息に呷って、グラスをカウンターに置いた。
ドウマの眼が、愉しそうにそれを見ている。
新しいグラスを取り出し、氷を入れた。ボトルを傾けると、琥珀色の液体が氷に触れ、ほのかに甘い匂いが立ち上った。
ドウマに渡す。未成年という概念は魔物には意味を持たない。
ドウマは水のように呑み、平然とグラスを置いた。
四十度のアルコール度数に貌色ひとつ変えない。アルコールは体内に入ると同時に無毒化すると聞いたことがある。二杯目を注ぐと、今度はすぐに呑まず、ゆらゆらとグラスを揺らした。香りを愉しんでいるようである。
悠然とした態度はいつもと変わらない。
「本当に下僕になったのね。この子の――」
「ああ」
「どうして」
「下僕にならないか、と言われたからな」
「それだけ?」
「まあ、面白そうだ、とは思ったかな」
口許に浮かぶ笑み。
わかっているのか。この男は――
嘆息して、貌を近づけた。
「逆らえば死ぬってのに。なに考えてんのよ」
「逆らえるだけの自由意志が残るなら問題ないと考えたさ」
「どこが問題ないのよ。主従契約で怖いのは死ねと命令されることよ。従っても、逆らっても死ぬわ。言うなれば生殺与奪権を渡したのよ。……なに笑ってんのよ?」
「似たようなことを言われた。――成り行きで己の生殺与奪権を他人に渡すのか?とな」
「さっきのクジという男?」
「ああ」
「で、あんたは何て答えたわけ?」
「――面白そうだったからな、と」
くっくっ、と喉の奥で笑う。
愉しそうな貌は、どこまで本気かわからない。
「呆れた男ね」
首を振って、身を起こした。
笑みを浮かべたまま、ドウマがグラスを口許に運ぶ。
黒い眼は闇よりも深い。快楽に狂った眼ではない。
この男が、面白い、だけで下僕になるとは思えなかったが、これ以上訊いてもはぐらかされるような気がした。話す気があるなら、とっくに話しているはずだ。
ターニャはボトルに手を伸ばした。キャップを外し、グラスに注ぐ。
独特のバニラに似た匂い。
琥珀色の液体が、グラスの中でゆらゆらと揺れた。




