「記憶」を知る
少しだけ懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
目を開くと、青空とよく映える濃緑の絨毯が視界を覆う。
あれ、と思った。
なんだろう、この喉の奥に突っかかるような感じ。どうしても、ぼくの中の何かが、この景色と共鳴している気がした。
いや、サシャの過去なんだから、見たことがある気がするのは至極当然なんだろうけど…それだけじゃない、と感じた。
ぼくは、ここを、知っている。
目の前を、白が横切った。それは、見慣れた彼女とは少しだけ違う、
真っ白なワンピース姿の幼いサシャ。
「サシャ…」
「ユラ!」
びく、と反応してしまった。これはぼくじゃない、ぼくじゃない。
だからサシャが求めてるヒトも、ぼくなんかじゃない。
「ユラ、ユラリス!早く!」
「ま…まってよ、っ」
背後から、男にしては少し高い、優しげな声が聞こえた。
振り返る。
「…あ」
少しだけ色素の薄い、茶色がかった髪。同色の大きな瞳に、どこか気弱そうな雰囲気をまとった少年が、そこにいた。
「サシャ。待ってよ!」
「まったく、遅いのよ!」
サシャの口調も口の悪さも相変わらずだけど、その表情はどこかあどけない。対してユラリスは、細っこい身体つきや目の大きさも相まって外見は幼いのだが、双眸の奥にひっそりと在る諦観はひどく大人びていて、それが妙な不格好さを生み出していた。
「そんなに急いでも、飛行機はまだ飛べないんだから…」
「馬鹿ね、だからこそよ?」
「え?」
「好きなのよね。こーやってさ、楽しみなことを待っている時のワクワクしてしょーもない感じが!今私、サイッコーに気分良いわ!」
「…そっか」
ユラリスが穏やかに笑って返すと、サシャも悪戯っ子のような笑みを浮かべる。そんなのどかな一時が、ここまで羨ましいと思ったのは初めてだった。
いいな。
ぼくだって…今はぼくが、サシャの隣にいるのに。
サシャはずっとそう。ぼくに死んだ幼馴染みの影を重ねて、本当の意味ではぼくを見てくれない。
ぼくは、彼女の罪滅ぼし。
―ふと、ユラリスが振り返った。
そんなはずはないのに、その瞳にぼくが映り込んでいるような気がして、身体を震わせる。
ゾクリ、と背中を悪寒が駆けた。
その瞬間目の奥に写し出される、断片的な記憶。
真っ暗で何もない世界に呑み込まれて、ぼくが何処かに沈んで溶けて消えていく、そんな記憶。
「――っ、あ」
漏れた声で我に返って、顔をあげた。いつしか、日は厚い雲に覆われていた。
雨が、降りだす。
『ねぇ。おいってば、ねーぇ』
「…誰か、いるの?」
『あはは、はじめまして。さて、君は還りたいかい?』
「…え?」
『このままじゃ君、消えちゃうよ。僕が君の命になってあげる』
「え、…消えちゃうって、じゃあもうあの子とも会えないの?」
『そうさ、だから、ねぇ早く。僕をここから連れ出してよ、君の体に宿らせておくれ』
「君は、ここから出られないの?」
『出られるさ。けれど、君の行きたいところには行ったことがない』
「そう。じゃあ連れてってあげる」
『そうかい、ありがとう。ああやっと暗い暗いこことは違う世界を見れる。理解れる。ああ、ああ、ありがとう』
「…君が、命になるの?生かされるって、こと?」
『そうさ。君は一度死んだんだ。だからね、決して忘れるなよ。
自分を見失わないで。一度存在の消滅した君が自我を保つことは難しい。記憶の残骸だけでアイデンティティを構築し、それを継続させようとしているのだから』
「わかったよ。…ねえ、ひとつ聞いていい?
君は、誰?」
『…あはは、面白いことを聞くねぇ』
「えっ?」
『僕のことなんて、僕にもわからないさ。ああ、概念としては多分、自我をもつヒカリなんだろう。けれど、僕はこれから君になる。君もこれから僕になる。だからそんなこと、気にしなくていい』
「そうか、ありがとう」
『いいや、では、またあとで。』
意識の奥底で声がする。
懐かしい声だ。
昔々、聞いたことがある気がした。
けれどもぼくのどこかで、思い出したくないと首を振るぼくがいる。そしてそのぼくを俯瞰するように、もう一人のぼくが見下ろしている。…いや、あれはぼくじゃない。
ぼくだけど、ぼくじゃない、何か別の存在。
それがひどくおぞましいもののように思えて、ぼくはそっと目を閉じた。
朝日が眩しい。
通り雨の止んだその日は雲1つない快晴で、飛行機を飛ばすにはもってこいだった。
丘の上、はためく白いワンピース。サシャは嬉しそうに空を眺めている。
「やっとだわ…!」
「そ、そんなに息巻かなくても…」
飛行機に乗るため、重装備のユラリスが横に並ぶ。
サシャは嬉しそうにユラリスの顔を見上げて、目を細めた。
「行ってらっしゃい。そして必ず帰ってきて、あの高い高い空から見下ろすこの星の色を、景色を、私に教えてちょうだい」
「……うん。約束するよ。僕は、飛行機に乗れない君の、目になろう」
だって、君の夢だったものね。微笑んだユラリスの瞳は
吸い込まれそうなほど澄んでいて、それは少し、ほんの少しだったけど、サシャに似ている気がした。
そして。
サシャの父親とユラリスを乗せた飛行機は、この広い大空に羽ばたいた。
地を這うことをやめた二人の男は、大切な人の夢のために、力強く滑空する。
僕も大切にしたいと願う当の彼女は、愛しそうに空を眺め続けていた。
良かったね。
夢が叶ったんだね。
ちょっとだけ、ユラリスが羨ましい。サシャにこんな顔をさせることができるのは、今もこの時もユラリスだけだった。それはきっと、ユラリスには叶えるだけの力があったからこそなんだろうけど、でも、だってしようがないじゃないか。
今のサシャの願いは、ユラリスに会うことなんだもの。
サシャは優しい。だから言わない。言わないけど、多分、そうなんだと思う。ぼくは、代用品だから。
空が滲んで、雨が降った。ぼくの頬だけに降った。その雨の意味はわからないけど、きっとぼくが忘れてしまった「大切な何か」のためだ。
「大切な何か」は乱暴にぼくの胸の扉をノックして、
どんどんどん、
どんどんどん、
『ドオォ……ォ、オオォ……!!』
嫌がるぼくを、連れ出そうとしていた。
それは、強い強い風の息吹。
上空に吹いたその吐息は、二人のことなんかいとも簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。
「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
サシャの、つんざく悲鳴も空回って空に溶けていく。飛行機は空のどこかへ消えて、ペタリと座り込んだサシャが呆然と青を見上げている。
いやだ。
いやだよ、見たくない。
こんなの見たくない、理解したくない、知りたくないよ。
でも、見なきゃ。
サシャの、決別のために。
僕は消えた飛行機を追って、青空へと飛び出した。




