ろくがつ
ぽつり、ぽつり、雨降る月。ひとつ、ふたつ、またひとつ。
見上げる空は鈍色で、向こう側なんて見えなくて。
むっつめの月。恵みの雨が降り注ぐ月。
やがて重たい雲が晴れ、夏が来る瞬間をきっと見るでしょう、人の子は。
ぽつぽつぽつ……と今日もあの音が聞こえます。最近この音しかしません。
傘をさしながら僕は早歩きで公園の横を歩いていきます。
雨は嫌いです。重たい鈍色の空を見るとこちらまで重たい気分になるから。
花や木にはありがたいのだろうけど、僕にはちっともありがたくありません。
薄暗い雲の下、綺麗な紫色の紫陽花の花が目立ちました。
その時、沢山の紫色の紫陽花の群の中、一つだけ青っぽい塊があるのに気づきました。
正しくは紫色が混じった青色、よく見たらそれは紫陽花ではなく一人の少女でした。
髪の色が紫色混じりの青、更にワンピースの色も同じ色で、正に紫陽花の花のような子でした。
見慣れない色、不思議な雰囲気、おそらく月の子です。
てるてる坊主を吊した白い傘をさし、紫陽花の花の前で何かをしていました。
僕はその子の近くまで行ってみました。ティッシュを丸めて、丸めたティッシュを更にティッシュでくるんで輪ゴムで留めて…どうやらてるてる坊主を作っているようです。
けれどティッシュで作ったてるてる坊主はすぐに雨に濡れて破けてしまいます。
僕は思わずその子に言いました。
「ティッシュじゃないので作った方がいいよ。」
少女はビクッと震え上がって振り返り、僕を見ました。どこか無機質な瞳が僕を見ていました。
少女は抑揚の無い声で言いました。
「なんでジュンに話しかける?」
「えー……っと、ジュンって君?だって、居るし……。
てるてる坊主、ティッシュで作ったら濡れて壊れやすそうって思ったから。」
「じゃあ、どうしたら壊れない?」
無機質なようで、真っ直ぐな眼でした。少し困って僕は考えます。
多分紙より布か何かの方がいいでしょう。
僕は地味な紺色のハンカチを取り出しました。
「白じゃなくてごめん。でもこれなら壊れないと思う。」
僕は丸めたティッシュにハンカチを被せて輪ゴムで留めました。本当は中身もティッシュじゃない方がいいかもしれませんが今は仕方ありません。
できあがった紺色のてるてる坊主をジュンに手渡しました。ジュンは黙っててるてる坊主を見つめたまま。
気にいらなかったらどうしようと思った時、突然ジュンは言いました。
「……よし、こいつは『やきにく』だ!」
「え、はあ? ……何が?」
ジュンは無視して自分の傘にてるてる坊主を吊しました。元からあった白いてるてる坊主と合わせて、てるてる坊主は二人になりました。
ジュンは白いてるてる坊主を僕に紹介してきました。
「こっちが『かばやき』だ。お前に貰ったのは『やきにく』にした。」
どうやら「やきにく」だの「かばやき」だのはてるてる坊主の名前のようです。ひどいセンスです。
でもどうやら気に入ってもらえたようで、無表情だけどどこか楽しそうに傘を回していました。
その時、僕は傘の内側を覗き込んであることに気づきました。
「その傘綺麗だね。内側に柄があるなんて珍しいな。」
ジュンの傘は内側に空の絵が描いてありました。この雨雲とは随分違った爽やかな青空の絵でした。
市販の傘ではないようで、どう見ても素人が描いた下手な絵でしたが、でもとても綺麗でした。
「サツキが勝手に描いた。『おまえに青空ってもんを見せてやる』とか言ってた。
ジュンの傘に勝手に描いた、うざい奴だ。」
勝手に描いたところがサツキらしいなあと一人で感心していました。
けれど僕は一つ疑問に思ったことがあります。
「ジュン、青空見たことないの?」
「何回かある。」
「何回か?どうして?
今は梅雨だけど、七月八月にもなれば梅雨明けするだろうし、それに春や秋は普通に晴れるんじゃ……」
するとジュンは少しだけつまらなそうな顔をしました。何か禁句を言ってしまったような気がしました。
「ジュンは『ろくがつ』だから、しちがつやはちがつには行けない。
ジュンのいちねんは30日だから、春や秋にも行けない。
ろくがつが終わったら、また次の年のろくがつが来る。」
軽率な発言をした…そう後悔しました。月の子と人の子の差をはっきりと感じました。
ジュンは「ろくがつ」そのものなのです。ジュンの「いちねん」は「ろくがつ」なのです。12の月を巡って「いちねん」を過ごす人間とは違うのです。
全てを理解しきれてはいませんが、多分ジュンは永遠の六月を過ごしている…ということはなんとなくわかります。他の月の空など、わかるはずありません。
謝ろうとした時、ジュンは急に僕をしっかり見据えて言いました。
「お前は人だな?」
「そうだけど……」
「人、おまえ、虹って見たことあるか?」
「虹?あるよ、たまにしか見れないけど……。」
ジュンは興味津々で僕から目を離しません。虹に興味があるようでした。
「ジュンは虹見たことない。
サツキが、空が青い日に出てくるやつで、赤でオレンジで黄色で青で藍色で紫だって言ってた。わけがわからない。」
確かにわけがわからない説明ですが、間違ってもいません。
けれど具体的な言葉で説明したところで、虹がどんなものかはわかりづらいでしょう。
「ジュン、何か描く物持ってる?」
「ある。サツキがここに隠したって言ってた。」
そう言うとジュンは紫陽花の木の下からお菓子の缶を取り出しました。
中には色とりどりのマジックペンやら絵の具やらクレヨンやらが入っていました。
「ちょっとその傘に描いてもいい?」
「んー……サツキよりうまく描くならいい。」
うまく描けなかったらごめんなさい、とか思いながら僕は自分の傘を閉じてジュンの傘を受け取りました。
そして傘に描かれた青空の上から、赤、オレンジ、黄……と色を乗せていきます。
何でこんなことをし始めたのかわかりません。少し前の僕なら適等な説明をしてさっさと帰ってしまったような気がします。
けれど今は、なぜか慣れない絵を描いてでも、この子に虹って何なのか教えてあげたくなったのです。
「おまえ、サツキよりうまい。げーじゅつかみたいだ。」
「そう?ありがとう。」
ありがとう、その言葉すらどこか懐かしく感じるのはどうしてでしょう。ずっと忘れていたような気がします。
やっと時間が動き始めたような気がしました。はづきが死んだあの一月から。
小さい頃、雨上がりに見た虹の記憶を思いおこしながら青空に虹をかけていきます。
永遠の雨空なんてつまらないでしょう。だからせめて、気持ちだけでもいつも晴れでいられるように。
「できた。」
思わず声が出ました。白い傘の内側の空には七色の虹。
絵なんてあまり描かないので決してうまくはないけれど、それでも精一杯晴れを祈って。
僕はジュンにその傘を手渡しました。
「はい、どうぞ。」
傘を受け取ったジュンはじっとクレヨンの虹を見つめ、それからその傘を差してみました。
くるくると傘を回しながらジュンは傘の中の虹と青空を見つめています。
その時、突然ジュンの手が止まりました。
「あ……!」
ジュンが空を指差しました。僕もつられて空を見上げます。
眩しい光が射しました。そのことに驚きました。
そういえば僕はもう傘を差していません。雨の音も聞こえません。
目が眩みましたがそれでも目を見開いてみると、雨雲の真ん中にぽっかりと穴が開いているのが見えました。
「描く必要なかったかもね。」
穴の中には澄んだ青空と眩しい太陽。そして大きな虹が。
僕が描いた絵なんかよりもずっと美しい七色が浮かび上がっていました。
ジュンは虹の掛かった傘と虹の掛かった空を見比べ、それから本物の空の方から目を離さなくなりました。
青空でさえ久々に見るのでしょう。初めて見る虹はどんな風に映ったでしょう。
「本物の方が綺麗だ。やっぱおまえへたくそだ。」
そしてジュンは次に言いました。
「けど、これで毎日『虹』だ。ありがと。」
僕は初めてジュンの笑顔を見ました。
「どういたしまして。」
そう言った僕も、どこか嬉しい気がしました。
虹の掛かった空の下、もう雨は降っていないのにジュンは傘を差したまま、どこかへ歩いていきました。