にがつ
寒くて。寒くて。けれどどこか暖かい。
ふたつめの月。豆を蒔いたりチョコをあげたり。さりげなく賑やかな月。
春はまだ先だけど、人によってはそわそわしだす人もいます。
コートの袖に手を隠し、寒い寒いと言いながら、チョコレートのお店の前をうろうろしてる人がたくさん。
チョコをいつもくれる人はもういないから、僕は仏頂面で商店街を早歩きで通り過ぎていきました。
あー嫌だ嫌だ、バレンタインデーなんて。逃げるように歩いていきます。
君がいたあの頃が嫌でも思い出させられるから。少し僕はいらいらしていました。
きゃぴきゃぴ騒がしい声をあげながらショーウインドウの中のチョコレートを指差す女子高生。なんだかいかにも高級そうなチョコレートを買っていく大人の人。
顔を真っ赤にさせながら買っていったり、何事もなかったかのような様子だったり。
君もバレンタインの時期になると、あんな風にお店の前をうろうろしていたのかな。そんなことを思った時、ふとあのつばきの花の子のことを思い出しました。
結局、あの子は一体どこに行ったのでしょう。あんな寂しそうな笑顔を残して。
そう思って少しぼーっとしていたのがいけなかったようです。前から走ってきた小さな子に僕は派手にぶつかってしまいました。
「あうう、すみましぇん…。」
10歳くらいの子供でした。ピンクの帽子を被っていて、なぜか頭には鬼のような大きな角。けれど、おどおどしていて気弱そうな小さな子でした。
手にはプレゼントと思われる箱を抱えています。
こんな小さい子も、誰かにバレンタインの贈り物をするのでしょうか。
その子はぺこりと少し恥ずかしそうに僕に謝ると顔を上げました。
そして、その時に僕はやっと目の前の子が男の子だと気づいたのでした。
僕は驚きました。その子が男の子だということにも驚きましたが、男の子がバレンタインの贈り物をしようとしていることにも驚きました。
「それ、誰かにあげるのかい?」
男の子は恥ずかしそうに顔を赤らめました。
「うん、あげるんでしゅ。マカロンはひなにプレゼントするんでしゅ。」
そう言って大切そうにそのプレゼントを抱えています。
よほど「ひな」という子のことが大切なんだな。そう思ったら、なぜか少し虚しくなりました。
「君…男の子だよね?」
「うん、マカロン男の子でしゅ。」
「普通バレンタインデーって、女の子が男の子にプレゼントをあげるものじゃないのかい?」
僕は少しだけ意地悪を言ってみました。けれど、すぐに後悔しました。
マカロンはショックを受けて慌ててしまったのです。
「そうなんでしゅか!?」
どうやら本当に知らなかったようです。なんだか悪いことしてしまったなと僕は後悔しました。
マカロンは「あうう…」と困った声をあげながらうつむいてしまいました。
「あ…別に男の子があげてもいいと思うけど。
外国じゃ男の子が女の子にあげるのが普通だって言うし…。」
「あう…でもひなは日本の子でしゅ…髪の毛黒いでしゅ…。」
そこはあまり関係ないと思うんだけどなと思ったけれど、わざわざそう言っても意味はなさそうでした。
マカロンはまだ不安そうにうつむいています。
「うう…ひなにまた怒られてしまいましゅ…」
「貰える分には誰も怒らないと思うけど。」
「あう、でもひなはマカロンのことよく怒るでしゅ。
『でしゅでしゅ言うのやめなさいようっとおしい!』とか、『男のくせにピンクなんて変!』とか、『その角邪魔だからどっかやってよ!』とか…。」
女の人って容赦無いな、と僕は少しマカロンに同情しました。
僕はしゃがんで、マカロンと同じくらいの目線で尋ねました。
「何をその子にあげようと思ったんだい?」
マカロンはしばらく泣きそうな顔をしていましたが、やがて小さな声で教えてくれました。
「お花の髪飾りなのでしゅ。
去年はチョコをあげたんでしゅけど、『チョコなんて甘ったるくて虫歯になるじゃない!』って怒られちゃったから、作戦変更なのでしゅ。」
僕は苦笑しました。どこの世界でも、女の子は気難しいんだなと思いました。
「そんなに怒られても、その子のことが好きなんだ?」
僕がそう訊くと、マカロンの表情がぱあっと明るくなりました。
そして、無邪気な笑顔で言ってくれました。
「好きでしゅ、大好きでしゅ!」
こっちの気分まで少し明るくなったような気がしました。
僕は励ますように言いました。ほんの少しのお礼の気持ちも込めて。
「じゃあ、きっと大丈夫だよ。その子も喜んでくれるよ。」
「本当でしゅか!?」
マカロンの表情が更に明るくなりました。
素直ににっこり笑えるマカロンが少しうらやましくて、けど、よかったと少し安心しました。
マカロンは僕に笑って言いました。
「おにーしゃん、ありがとーございましゅ。僕がんばりましゅ!」
そうして、手を振って、どこかに走っていって…その時、マカロンは急に立ち止まりました。
そして、振り返って僕に言いました。
「おにーしゃんは誰かにプレゼントしないんでしゅか?」
息がつまるような気がしました。僕がプレゼントをあげるような人はもういません。
もう死んでしまったんです。もうあげようと思ってもあげられないんです。
マカロンのような笑顔は、僕にはもうできないし、そんな笑顔を僕の為にしてくれる人もいません。
だから、僕はバレンタインデーが嫌いなんです。
「ほんとにいないんでしゅか?ほんとに?」
あ…まただ。
どうして、ここであの子のことを思い出したのでしょう。あの、つばきの花の子のこと。
どこにいるかもわからない。名前も知らない。また会えるかすらわからないのに。
けれど、あの寂しそうな声が、笑顔が、離れませんでした。
「さあ、どうだろう。いるかもしれないし、いないかもしれないし。」
僕ははぐらかしてしまいました。
マカロンは少し首をかしげましたが、にっこり笑って言いました。
「じゃあもし、プレゼントしたい人がいるなら、僕が応援しましゅね!がんばってくだしゃい!」
そして、マカロンはあのプレゼントの箱を抱えて、嬉しそうに行ってしまいました。
僕にはもうできない笑顔を浮かべて。
僕はため息をつきました。プレゼントだなんて言われても困ります。
あの子が何が欲しいかわからない。そもそもあの子が「何」なのかすらわからない。
そんな子に一体何をあげろと言うのでしょう?
『来年の今日も、あなたはここに来てくれますか?』
もう1度、あの言葉がよみがえりました。あの雪の日、黒い御影石と、白くて儚い、あのつばきの子。
あの時の、かじかむような寒さが忘れられません。あの子は寒くなかったのかな。
そんな時でした。小さな洋服屋の店先に、白い可愛らしいマフラーがかかっているのが見えました。
「…運がいいんだか、悪いんだか。」
僕はまたため息をつきました。立ち止まって、悩んで、通り過ぎようとして、やっぱり止めて、でもなんか少し照れくさくて、通り過ぎようとして。けれどやっぱり止めました。
財布を取り出してお金があるか確認しました。
「…馬鹿馬鹿しい。」
そう呟いて、その洋服屋に入っていきました。