じゅーにがつ
ふわり、ふわりと雪が舞い、
108回の鐘が鳴る。
さいごの月。おわりからはじめに向かう月。
泣く前に、さっさと飛び立てホトトギス。いちがつは、もう目の前なのだから…
鐘が鳴りました。その音は子規が済むこの街に深く染み込んで消えていきました。
濃紺に沈む街を純白の雪が音も無く侵略して乗っ取っていきます。足下の音もコンクリートの硬い音からズボッともたついたような音に変わっていきます。
冬だ。雪が頬から刺すような冷たさを伝えてくる度、僕はあの子と出会った日はもうすぐだと自覚します。
12月31日の夜遅く。僕は家を出てはづきの墓へと向かいました。2月に買ったマフラーもしっかり持って。
僕は馬鹿だなと思いました。1月に出会ったあの子へのプレゼントを2月に買うってどういう神経でしょうか。もう少し次の1月に近い時期に買えばよかったのに。
そう自分に呆れながら雪の降る夜を歩いていきます。赤と緑のネオンが光るクリスマスはあっという間に過ぎて、もうみんな正月しか目に入っていません。
みんなどこかそわそわ忙しく落ち着かない時期。僕もまたみんなとは違う意味で落ち着きませんでした。
また鐘が鳴りました。鐘の音がする度、一年の砂時計ももう残りわずか。反転の時が近いことを感じます。
今月はまだ月の子に会っていません。けれど、ランテが言ったタイムリミットは12月です。
今日が12月最後の日。この一年のおわりの日。つまり今日がタイムリミット。
決めなければならないことは重々承知しています。プレゼントのマフラーを抱きしめ、僕は10月にランテと出会った踏切にたどり着きました。
この踏切の先の坂を登っていくとはづきの墓があります。底知れない不安を抱えたまま、僕は俯きながら遮断機が開くのを待っていました。
そして遮断機が開き、僕は顔を上げ、歩き出しました。踏切の中、線路の上に来たところで、先にある人影を見て僕はその時が来たと感じました。
「こんにちは、はじめまして。」
物腰柔らかな薄緑色の髪をした少年でした。
真っ白いコートに身を包み、僕を待っていたかのようにそこに立っていました。
「はじめまして、子規です。あなたが…12月の子?」
「そう。僕が12月。名前は、『おわり』って言う。」
「…失礼かもしれませんが、変わったお名前ですね。」
「そうだね。我ながら、変な名前を名乗っていると思うよ。」
話し方、雰囲気も、掴みどころがない不思議な人でした。
現実味のないフワフワした、どこか超俗的な雰囲気を漂わす一方で、剥き出しの欲と感情を密かに隠しているような、今までの誰よりも鮮明な『人』のようにも見えました。
「あの…会って急にこんな話変かもしれませんが、10月のランテに『僕達の仲間にならないか』って言われたんです。
それで、12月の子に答えを言ってくれって……。おわりさんに言えばいいんでしょうか…。その話とか、何か聞いてますか?」
おわりは少し辛そうに笑いました。
「いや、聞いてない。けど、かえでちゃんから君のことを聞いた時から、あいつならそう言っているかもとは思ってた。」
痛みを噛みしめるような表情が僕は少し気になりました。
「あの…どうかしましたか…?」
「いや、なんでもない。あいつ、ほんと意地悪いなって…ちょっと思っただけ。」
やはり、ランテはそう見えるのでしょうか。僕は正直、ランテにあまり良い印象を抱かなかったのですが、11月のかえではランテを「優しい」と言うわけで……。謎多き人だなと感じました。
おわりはそのことについてそれ以上言及されたくなかったようで、すぐに話を進めました。
「ところで、あいつ、もし君が仲間になるのを拒否するなら、どうすればいいかって言った?」
「言ってませんが……何かあるんですか?」
おわりは疲れたようにため息をつきました。
「やっぱりね…。相変わらずあいつが仕掛けるゲームはフェアじゃないな…。
あいつに『いたずら』の力は使われた?」
「はい、二回。一回目はすぐ発動して…二回目はまだ…。」
おわりはもうわかっているといった様子でうなずきました。
この人は、もしかしたら僕のような人に会うのは初めてではないのかもしれません。
おわりの様子を見て少しそう感じました。
「実のところね、僕もまだ、あいつの要求をどうやったら拒否できるのかはっきりわかっていないんだ。」
「え…!?」
「理不尽だろ? あいつ、そういう奴なんだ。最初から、君が望むかどうかなんてあんまり気にしてないんだよ。
あ、でも今回はまだましな方かな。一応考える時間を与えたわけだしね。
『いたずら』がまだ発動してないのがちょっと問題なんだよね。あれは、人に必ず一度不幸を与える力。
たとえ君が拒否しても、『いたずら』が発動したら、君に不幸が降りかかる。」
淡々と、慣れた様子でおわりは言いました。唖然とした僕の様子に全く動じず、その様子は動じないというよりむしろ何か諦めているようにも見えました。
少しの怒りと大きな戸惑いを感じました。これでは、僕がどちらを選んでも意味が無いではないですか。
その時、鐘の音がしました。僕の不安が確信に変わるのを伝えるようでした。
前から思っていたのです。ランテの要求に応えると、何かまずいことが起きる気がすると。
そのまずいことの正体がなんとなくわかったような気がしましたが、言葉には出しませんでした。
「じゃあ…どうしろと…。」
「多分、だから君の答えを僕に言えと言ったんだろうね。」
「……どういうことですか?」
言っていることの意味が理解できませんでした。また、鐘の音がしました。
僕が困った様子で居ると、おわりは急にぱあっと笑って言いました。
「突然ですが、五日遅いメリークリスマス!プレゼントはなにがいいかなー?」
僕はポカーンと口を開けました。突然何を言い出すのでしょう、この人。
するとおわりは急にまた真面目な様子に戻って言いました。
「これが対抗策だよ。あいつに『いたずら』の力があるように、僕にもちょっとした力があるんだ。
12月って、やっぱりクリスマスだろう?『プレゼント』…それが僕の力でね。相手の願ったものを一つ与える力…具体的な物じゃなくて抽象的な物でもいい。
お願いを一つ叶える力と言った方がわかりやすいかな。」
「もしかして、それで…『いたずら』を打ち消したりできるんですか?」
おわりは少し哀しそうに首を振りました。
「できなくはない。でもお勧めしない。次の10月にあいつに会ってまた『いたずら』の力を使われたら意味がなくなるからね。」
「じゃあ…どうすれば…?」
すると、おわりの目尻が急につり上がり、覚悟を持った恐い顔になりました。
強い風が吹きます。コートが風邪になびき、雪がぶあっと舞い上がってまたしんしんと降り落ちていきます。
困惑する僕を導くようにおわりが言った内容は、思いがけないものでした。
「どうすれば? なら、君に問うよ。君は、僕達月の子との縁を切る覚悟はありますか? もう二度と会わない覚悟はありますか?」
一瞬、何のことだかわかりませんでした。理解した後、頭をよぎったのはやはりあの椿の花の子でした。
嫌だ! と僕の心が叫びました。この一年、僕は楽しかったんのです。はづきを失った悲しみはまだ癒えず、心に傷を負ったまま生きていくのは辛かった。
けど、月の子達が居てくれました。あの子達が居てくれたから、辛かったけど楽しかったのです。
毎月毎月、この月の子はどんな子だろうと、密かに楽しみにしていたんです。
みんなと話すことで、僕はみんなから元気を貰っていました。みんなが居たから、はづきを失った悲しさから少しずつですが立ち直ってくることができたのです。
月の子達ともし出会わなかったら、きっと僕は今も全てに絶望しきった仏頂面でここに来ていたでしょう。笑うこともできずにいたでしょう。
月の子達との縁を切るなんて……
「嫌だと思っただろう?」
心中を打ち抜くようにおわりは僕を指差して鋭く言いました。僕はそんなに悲しい顔をしていたのでしょうか。鏡が欲しくなりました。
「嫌だろう? 辛いだろう? 月の子達と会えなくなることは、君にとって間違いなく『不幸』だろう?」
「……はい。」
正直に言いました。今の僕にとってこれほど辛いことはありません。
「『いたずら』で君に訪れる『不幸』を僕の力ですり替えてしまえばいいんだ。
避けようがなく、抗いようがない危険な『不幸』じゃなくて、君が乗り越えることのできる『不幸』に変えてしまえばいい。
その『不幸』が、月の子との関わりを絶つということだ。
そうすればきっと、君は僕達と同じにならずに済む。月の子になるということ自体が、月の子という存在に関わるということだからね。
それを叶える『プレゼント』…君はお気に召さないかな?」
なんて酷いクリスマスプレゼントでしょう。僕はあの子にあげるマフラーを抱きしめながら思いました。泣いていいなら泣きたかった。
その『プレゼント』を貰ったら、僕は二度と月の子達に会えないのです。みんなと話し、笑うことはもうなくて、あの椿の子にも会えないのです。
このマフラーを渡せないのです。「もう一度ここに来てくれますか。少しだけ笑ってくれますか」……あのお願いにも応えてあげられないのです。
けれどそうしなければ何が起こるのか、もう予想はついていました。
「子規君。二つのプレゼントがあります。一つは『いたずら』を受け入れ、僕達の仲間になるプレゼント。もう一つは僕達とのあらゆる縁を切って、人として生きてくプレゼント。」
雪で霞み、うっすらとしか見えないけれど、おわりの顔もなぜか今にも泣きそうに見えました。
「さあ、どっちがいいですか?選んで。決めて。僕には何も言えないから。」
酷すぎると叫びたかった。けれど、ここで投げたらいけないとも思いました。
おわりは告げます。
「タイムリミットは、明日まで。」
また除夜の鐘が鳴りました。僕は時計を見ました。新年まで、あと5分を切っています。
急に焦りだし、前と後ろを何度も何度も見ます。正面にははづきが眠り、あの子が待つ丘があり、後ろには、少し向こうにはづきが落ちた海が見えました。
踏切のど真ん中、僕はどちらを選べばいいか分からず立ち尽くしてしまいました。
自分のせいではづきが死んだくせに、その上あの子を一人置き去りにするつもりか。僕を責める声がしました。
あの10月からずっとずっと錘のようにのしかかってきた罪悪感が重くて仕方がありません。
はづきが死んだのは誰のせい?おまえでしょ?おまえが一人にしたんでしょ?
じゃあはづきそっくりのあの子の傍に居てあげなきゃ駄目でしょ?
あの子また来てほしいって言ってたでしょ?
笑ってたけど、悲しそうだったよ?すっぽかすの?
最低だね、お前のせいで死んだのに、まだ悲しませる気なんだ?
最低。最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低
頭の中で聞こえる黒い声に応じるように鐘が鳴り、心臓の音も僕を焦らせるように早くなりはじめました。
あと何分ある? 鐘はあと何回残っている? 急いで時計を確認してみると、もう残り2分程。もう時間はあまりありません。
おわりは俯いたままこちらを見ることはありません。よく見ると口元だけ時々ぼそぼそ動いていました。
そして次の鐘が鳴った時、おわりは鐘の数を数えているのだと気づきました。
「106……」
新年までの時間はもう僅か。108回目の鐘が鳴ったら、新しい年が来ます。
前と後ろ、道は二つ。丘と、海と。残る時間が少なくなればなるほど焦りだし、頭の中の黒い声も強くなっていきます。
どうするの、急がなきゃ。もう時間が無いよ。早く決めちゃいなよ。
はづきはきっと苦しかったよ、悲しかったよ?じゃああの子を大切にしてあげなきゃね?
罪は償わなきゃね?重いでしょう、早く軽くなりたくない?
はづきに対する罪は、あの子に償えばいい……。
その時、「違うよ」と聞こえたような気がしました。けれどなぜそう聞こえた気がしたのか、なぜ「違う」のか、まだわかりません。
その時、また鐘が鳴りました。
「107回……」
おわりが告げるのと同時に、踏切がカンカンカンカンとやかましい音をたてはじめました。
赤く点滅するライトが危険を知らせています。残る鐘はあと1回。
次の鐘が鳴るまでに、列車が来るまでに、丘か、海か、選ばなければ――
「なんて理不尽なんだろう。」
黄色と黒の遮断機が降り始め、前も後ろも塞いでいくのを見つめながら、急にそんな想いがこみ上げてきました。どうして両方は選べないのでしょう。
もし理想を語っていいのなら、僕は今年のようないちねんがいつまでも続けばいいのにと思っていました。
毎月毎月月の子達と出会い、お話しながら平穏な人生を送れればいいのにと思っていました。
そんなふうに過ごせたならどんなに幸せだろうって、僕はそんな風に考えていました。
でもそれは不可能なのです。もしかしたらそれは、ランテのせいだけではないかもしれません。
この一年が蘇ってきました。どの月の子もはっきり思い浮かべられます。
あの子へのマフラーを買い、マカロンと会った2月。ひなに会って月の子の存在を知った3月。4月の桜花に会ってあの子を再び強く意識し、5月のサツキと会って僕は笑顔を思い出しました。
6月のジュンと会って月の子達の運命を知り、7月の彦星と会ってもう一度あの子に会うと誓い、8月のひまわりと会って、僕ははづきの魂を出迎え、見送りました。
そして9月……。そこでハッと何かに気づきました。
「私はね、月ツキじゃなくて月ルナであり、ルナじゃなくて月ルナである。1月の子も……きっと同じだ。」
9月の月ルナに言われた言葉を思い出しました。今になって急に、あの言葉はとても大切な言葉だったんじゃないかと思い出しました。
10月。ランテと出会った月。ランテに見せられたものはとても辛い記憶……けどありのままの現実でした。
けど、あの時突きつけられたのは辛い記憶だけではないことに気づきました。どうして今になってやっと気づいたのでしょう。
ランテはあの子の名前を言っていました。
そして11月。かえでの幸せそうな笑顔が忘れられません。幸せだと、ひとりぼっちじゃないと、堂々と胸を張って言えるその姿は、今も僕の中で強く輝いていました。
そして僕はかえでのその笑顔を、信じてみたいと思いました。
「あの子は……『つばき』だ。」
遠くから天からの光のように舞い落ちる雪を見上げて、ぽつり、僕は呟きました。
遮断機が降りきるところでした。遠くから列車の音が聞こえてきます。
僕は走り出しました。走り出して、マフラーを握りしめて叫びました。
「さようなら!僕は君達の仲間にはなれません!
もう二度と月の子にも、つばきにも会えなくてもいいから!!」
108回目の鐘が鳴りました。
深く心に染み渡る、趣深い音でした。
その音と共に、列車の重たくて耳につく音が響きわたりました。
おわりを告げました。
「あけましておめでとう。」
そして、僕の願いに答えるように、おわりの周りで勢いよく雪が舞い上がり、白雲母を散りばめるように淡く光り輝いて空に昇っていきました。
あの子へのマフラーを大事に抱え、膝や袖についた雪を払いのけて僕は立ち上がりました。遮断機を急いでくぐり抜けた時に転んでしまったのです。
まだ電車が通り過ぎる音がします。おわりは僕の隣には居ません。
踏切によって分けられた二つの道。僕の居る側にあったのは、僕が選んだのは……海でした。
緊張で高鳴っていた胸の鼓動がおさまっていくのと同じ頃、電車の音も遠ざかっていきました。もう鐘の音も聞こえません。静かな静かな新年です。
振り返ると、もう踏切が開いていて、その向こうにまだおわりが居ました。
おわりは、少し前までの、何か諦めたような表情はしていませんでした。
夢でも見ているような、驚いた顔をしていました。
「それで……いいの?」
「はい。」
「これは……夢じゃないんだよね? 本当に、それでいいの? 君の望む方を言っていいんだよ?」
「……はい、いいんです。」
僕ははっきり言いました。マフラーを握る手がまだガクガク震えていました。
震えが止まりませんでした。ほんの少し気が緩むだけで、壊れてしまいそうで怖かったのです。
おわりはまだ僕の言ったことが信じられないようでした。
「どうして…? どうしてそんなことが思えるの?」
おわりの言ったその言葉が、自分の内側からも聞こえてきました。
僕の中の錘は当然消えてはいませんでした。今も重たくて重たくて仕方在りません。
目を閉じればはづきが落ちたあの海がまだ見えます。苦しくて。悲しいです。
それでも、僕は海を選びました。
「…その答えの前に。おわりさん、ちょっとお訊きしてもいいですか?」
おわりは頷きました。心なしか、先ほどよりも人らしく、表情豊かに見えました。
「108回目の鐘が鳴った時、僕がまだ踏切の中に居たら、どうなっていましたか?」
「…さっきの列車に、ひかれていただろうね。」
「じゃあ、僕がそちら側に行っていたらどうなりましたか?」
僕はおわりを指差して言いました。
「…それは、月の子になりますと言ったら……ってこと?」
僕は深く頷きました。おわりは少し疲れたようにため息をつきました。
おわりが答えるまでにやけに長い間が空きました。きっと、言いづらいことなのでしょう。
「やっぱりひかれてたんじゃない? もしかしたら、脱線したりしてたかもね、さっきの列車。そうでなくても……」
その先、おわりが言おうとしていることはすぐにわかりました。
「じゃあやっぱり、月の子になるには、一度死ななくちゃいけないんですね。
『人』をやめなきゃ、月の子にはなれないんですね。」
おわりは優しく、ゆっくり頷きました。
月の子は人ではない。人ではないのなら人をやめなければなりません。きっと、人間をやめるための……死ぬためのきっかけを起こすための『いたずら』なのでしょう。
事故か何か……何らかの『不幸』で人は死に、月の子となる。そういう仕組みだったのでしょう。
「だったら、僕は月の子にはなれません。死ぬわけにはいきませんから。」
僕は堂々と言いました。
「僕の苦しみを、つばきに押し付けるわけにはいきませんから。」
お前のせいではづきが死んだ。お前のせいだ。今も何度も何度も言われているような気がします。苦しくて苦しくて仕方がありません。
そこからはづきそっくりのつばきに良くしてやらなきゃいけないと、傍に居てやらなければならないという気持ちが強く沸いてきます。
はづきを失ってすぐの頃、よくこう思うことがありました。このまま生きていたって何一ついいことは起こらないんじゃないかと。死んでしまいたいって。
この苦しさから早く解放されたいとずっとずっと思っていました。
けれど、それは僕のエゴではないでしょうか。つばきの為だと、理由をつけているけれど、結局自己満足に過ぎないのではないでしょうか。
僕がここで死んで月の子になったらつばきはどう思うでしょう。
はづきを失った時の僕と同じことを思うのではないでしょうか。「私のせいだ」と。
例え月の子として傍に居ることができたとしても、死というものがそんなに軽いものではありません。
つばきはきっととても優しい子でしょう。はづきと同じ心を持っているのならなおさらそうでしょう。
ずっとずっと自分を責め続けるでしょう。きっと会う度に苦しむことになるでしょう。
それでは結局、僕の錘がつばきに移るだけです。それじゃ駄目なのです。
僕はつばきに幸せになってほしいんです。
だから僕はこの苦しみを、錘を、背負い続けることにしました。
償うことも解放されることもなく、苦しみながら悲しみながら生き続けることにしました。
今はまだ辛いけど、耐えながら生きていけば前より少し楽になっているかもしれません。
月の子やつばきの居ないいちねんはきっととても寂しいです。けれど少しずつでも、乗り越えて、前に進んでいけたらと、僕はそう思います。
「みんなともう会えないのは寂しいけど、僕はこれからも頑張っていきます。
これが僕の願いです。もしも僕について何か言われたら、そう伝えてください。」
震える頬を無理に緩ませて、ぎこちない笑顔を作りました。今はこれが精一杯です。
それを見て、おわりはやっと信じてくれました。
「そう…よかった。……ありがとう。」
「お礼を言うことじゃないかと……? 僕がそう願っただけですが。」
「うん、でも、そう言いたくなった。」
そう言って、おわりは何かから解放されたように笑顔を浮かべました。
僕も少し安心しました。ずっと、おわりの少し哀しげな姿が気になっていたので。
新しい年が生まれて間もない時を味わうように、しばらく間があきました。
ふわふわと舞い落ちる雪が世界を始まりの白に染めていく姿を僕はそっと見守りました。
それから、おわりが言いました。
「じゃあ、ここでお別れかな…? 後悔は無いね?」
僕は笑って頷こうとしました。ですが、遂に我慢ができなくなりました。
手に持ったマフラーの包みに、ぽたりと何かが落ちました。目元が濡れていることに気づきました。
声を出そうとすると口元が震えてうまく話せません。ああ、もう本当にお別れなんだ。
「どうしたの…?」
おわりが心配そうに言いました。
本当は、カッコ悪いから涙は見せたくありませんでした。後悔なんて無いと笑って言って帰りたかったのですが、無理でした。
口をつぐもうとすればするほど、耐えきれないと心が叫びます。
涙があふれました。少しくらい、カッコ悪くちゃいけないでしょうか。
「今年…じゃなくて去年の1月……つばきは僕に言ったんです。『もう一度ここに来てくれますか』って。『少しだけ、笑ってくれますか』って。
それが忘れられなくて、もう一度つばきに会いたくて、絶対に会いに行くって誓ったんです。
つばきにあげようと思って、マフラー買ったんです。七夕の時も彦星さんにお願いしたんです。
けれど駄目だった…。それが、悲しいんです。すいません……男のくせに、泣き虫で。」
僕は涙を拭きました。まだ溢れてくる涙を必死にこらえておわりの顔を見ました。
いつまでも泣いていたらおわりが困ってしまいます。自分で決めたのだから、辛くても泣きたくても耐えないと。
僕はつばきにあげるマフラーをおわりの方に突き出しました。
「一つ頼んでもいいですか。このマフラー…つばきに渡してくれませんか。
それと、ごめんって、伝えてください。お願い、聞いてあげられなくてごめんって。
馬鹿野郎って罵っても恨んでもいいよって。全部受け止めるから。」
深く頭を下げて、まだ泣きやめないことを隠して頼みました。返事はなかなか来ませんでした。
顔を上げるのも怖くて、おわりの向こう側にある丘を見たらそれだけでまた涙が出てしまいそうで、ずっと頭を下げていました。
すると、おわりは意外なことを言いました。
「……まだわからないよ?」
「え…?」
怖かったはずなのに、その言葉を聞いた僕は驚くほどあっさり顔を上げていました。
おわりは何か考え込みながら僕に言いました。
「もしかしたら…まだ大丈夫かもしれないよ? そのマフラー、渡せるかも。」
「え……どうして?」
「だって、現にまだ、君は僕が見えている。」
確かにその通りです。確かに、僕はもう月の子に会えなくてもいいと願ったはずなのに。
おわりは僕に訊きました。
「7月の彦星に、お願いした…って言ったね。なんて願った?」
「え……『もう一度、あの椿の花の子に会えますように』って。」
それを聞いて、おわりは納得したようでした。
「わかった、それだよ。あのね、僕やランテのような特殊な力を持った子はね、もう一人居るんだ。
それが彦星。あいつにした願い事はね、必ず叶うんだよ。」
先ほどとは違う暖かい雫が頬を伝って落ちました。僕は急いで涙を拭きました。
こんな顔をしていたらまたつばきを不安にさせてしまいます。笑顔で会いに行くと決めたんですから。
「本当に……本当なんですね?」
「さあ? 多分ね。本当かどうか確かめたかったら、行ってみればいいじゃないか。」
上がりきった踏切の遮断機が門を守る騎士のようでした。騎士は通行を許可しています。
向かい側の道ど真ん中に立っていたおわりが横に避けて道を空けました。
僕の正面には、純白の絨毯が敷かれたあの場所へと続く道がありました。
「行っておいで。」
最初は一歩踏み出すことが怖かったのですが、一歩、また一歩と踏み出していくうちに歩む速さは段々速くなっていきました。
またあのカンカンカンとけたたましい音を思い出し、踏切を渡っている間、妙な緊張感がありました。
踏切を渡りきり、対岸にたどり着いた僕はおわりの姿を先ほどよりも近い場所で見ました。
思っていたよりもずっと優しい顔をしていました。
「おわりさん、色々ありがとうございました。それと、もし伝えられたらみんなに伝えておいてくれますか。『楽しかった。ありがとう。』って。」
「うん、わかった。……じゃあ、さよなら。」
「さよなら。」
おわりは少し微笑み、僕を見送っていきます。そして僕はおわりに背を向けて正面にある坂道を見上げました。
雪を踏みしめて進む度に後ろに足跡が残ります。振り返らずに進んでいく度、脳裏をかけめぐるあの子の声はだんだん強くなっていきます。
雪の道は滑りますし、ここの坂道は急で足が疲れます。ですが今日はそんなことは気になりませんでした。
あの子は、つばきは元気でやっているでしょうか。
1月そのものではなくつばきであり、はづきではなくつばきである、あの女の子。
坂道を登りきり、漆黒の空を見上げるとふわふわと白色が舞い降りて新年を祝っていました。
こうして、鳥の名を冠した少年のいちねんは終わり、また新しいいちねんがやってきたのです。
あの時に、あの場所に帰ってきました。
僕ははづきの墓へ向かいました。はじまりの場所へ、おわりを告げるために。




