021:Shadow Gate
ムンディアル・シエロに住まう者としてディアーネ王女も空と無縁であったはずはない。とはいっても戦闘機に乗るのは初めてのはずだ。それでも王女は怯えている風な感じはない。憂い気な顔はあっても、それは国を見捨てることに対する罪悪感であり、恐怖ではないように見える。もっともこれはすべてブルースの主観であり、実際に彼女に渦巻いていた感情は知るべくもない。
ブルース自身はもうすこし心が凍っていた。あの空、あの煮え滾る地獄が嘘のように冷たい感覚の中にいた。地獄の一番底に辿り着いたのかもしれない。
「先にお乗りください、殿下」
複座機に乗るのは空軍士官学校時代の練習機以来である。あの時初めて、空が思っていたよりずっと過酷な世界なのだと知った。幻想は打ち砕かれた。しかしブルースはそれでもなお空を愛した。
しかし――今、その空への愛すらも薄れている。というより、あらゆる情動が摩耗している。なにも感じなくなっている。
そんなブルースの肩をリーアムが叩いた。
「今は今に集中しろ。考えるのは落ち着いてからでいい」
「なにも考えられないから困っているんです」
「それならそれでいい」
彼も気遣ってはいるのだろうが、同じように憔悴しているのは変わらない。
リーアムは自機に搭乗した。先に空に上がっていく。自分が囮に過ぎないことは――きっと分かっているのだろう。それでも任務を忠実にこなそうとする態度は、斜に構えた優男風にして、実際には軍人の鑑だった。
そしてディアーネはヘルメットを被り、なにも言わずにARC-10〈ワイルドイーグル〉の後部座席に搭乗した。すこし背を屈めさせているが、座席へのハーネスの装着は思った以上に器用にこなしていた。覚悟が決まっているというのだろうか……
「〈ランスロー8〉離陸を許可します」
ブライトン基地管制のオペレーターは例に漏れずに女性だった。彼女もここで死ぬつもりなのだろうか。その声は石のように固い。
これが滅びゆく国、ということなのだろうか。
「つらい飛行になるでしょうが、どうか我慢下さい」
ブルースは後部座席のディアーネに言った。王族にどう接していいか、まだ惑いがある。しかしそんな現実的なことを考えている内はまだいいのかもしれない。
「私にできることがあれば、なんでも仰って下さい」
「じっとしていて下されば、それで十分です」
「はい。頑張ります」
逃亡部隊の本丸、王女を乗せた戦闘機が離陸する。奇妙な離陸だった、通常なら離陸した後は「必ず帰還せよ」のような言葉が送られるものだ。だがこの時はただ「幸運を」とだけ言われ、戻ってこいとは言われなかった、当たり前と言えば当たり前であるのだが、ブルースはそこにちょっとした違和感を覚えたのだった。
「それにしても複座機とはね。こんな骨董品をよく残していたものだ」
リーアムはそんなことを言っていた。
ARC-10が主力戦闘機だったのはもう半世紀前ほどになる。
半世紀前は、戦闘機の主流は複座機だった。操縦と通信索敵の役割を分担する為である。それが地上管制の進歩、AWACSの導入、戦闘機自体に搭載される魔導波感応器、そしてそれに付随する経済的要求により、現在では戦闘機はほぼ単座になっている。
ちなみに複座機を採用していたのはそういう理由だったので、男女のペアになるのが多かったらしい。とすれば、これはある意味先祖返りだったのかもしれない。乗せるのが王女である、という最も重要な部分を除けば。
そんなに高高度を飛行する予定はなかった。あまり目立ってはいけないからだ。ボリス連邦空軍がどこからやって来るかは分からない。万一戦闘となってしまったらどうするのか――操縦桿を握る手がやや固くなっているのにブルースは気付いた。地上にいた時は無情動だったが、空に上がるとネガティブな感情が湧き上がってくるのだった。
「戦闘機動を行う可能性は捨てきれません、その時は、申し訳ありませんが、私に付いて来てください」
ブルースは控えめに言ったつもりだったが、その声が自分でも分かるほどに冷たいのが分かり、もどかしかった。幸いにもディアーネは気にしていないようだった。彼女自身も余裕がなく、感じ取れないのかもしれない。
「はい。ケイン少尉、すべてをあなたに任せます」
アルビオン家の王女にそんなことを言われるのは、恐るべき栄誉なんだろうな――とブルースは皮肉気に思っていた。何故なら、彼はその点についての栄誉は感じていなかったからだ。ただ、ひとりの女性を守るという飛行というのは、それはまた別の話である。
「アルスターの大地が、遠くに見えます……」
「……そうですね」
結局のところ、自分たちは敗残兵に過ぎない。個人で負ける気はなくとも、戦争とはそういうものである。
「空とは、冷たいものなのですね」
「そういうものであります、王女殿下」
複座機というのは基本的に縦列なのでお互いの顔を見ることは出来ない、しかもヘルメットを被っているので声もくぐもって聴こえる。それだけがふたりを繋いでいた。
「そこに生きる戦闘機パイロット様は尊敬に値します」
「恐縮です。しかし私はただここに生きているだけです」
航行は順調だった――どこに向かえばいいのかを除けば。順調というのは敵に見つかっていないという意味である。
そこが気になって、ブルースはリーアムに問うた。
「ところで、我々はどこに向かえばいいのですか?」
「今、空賊に秘匿通信を行っている。もう少し待て」
「空賊? 民主ユニオンではないのですか?」
てっきりブルースはそちらに向かうものだと思っていたのだった。しかしどうやらそうではないらしい。その辺りの作戦はマクラーレン大佐とリーアムが相談していた。この隊の指揮は彼が執っている。
それにしても、空軍とは……?
「ヴァルハラ・民主ユニオンに王女が亡命したとなれば一気に二大国の政治的緊張が高まる。そこで空賊だ。そこに身を隠し、俺たちは――殿下も含めて――いなくなったものとして扱われるのが一番いい」
その通信はディアーネも聞いていたようで、そこに口を挟んだ。
「彼らは私を受け入れてくれるでしょうか」
彼女の疑問はもっともだった。お気楽な空賊が「アルスター王国のお姫様」を鷹揚に出迎えてくれるとは思えない。
「貴種流離譚ってヤツですよ、殿下」
リーアムはおどけて言った。王女が空賊に匿われるとは、確かに子供の頃に読んだロマンスものに通じるものがある、しかしそれが現実となり、そして自分がその命を預かっているとなるとまったく笑えない。
「私はあなた方の判断に従います」
彼女はすでに死んだ気でいるのかもしれない。すべてを受け入れたような覚悟が声からも滲み出ている。ブルースはここに至るまで、王族というのを軽く見ていた。ただ国民に担ぎ上げられ、気ままに生きているものだと。しかし今のディアーネには気品と覚悟か見て取れる。王に足るものとはそういうものなのだと、彼は今知った。
幸いにも戦闘は起こらなかった。夜明け前に出発したあと、今は既に陽光は南東側に上がっていて、空も青い。やや雲が多いような気がしたが、それは逃亡には丁度良かった。しかし心は決して晴れやかではない。
「これからどうなるのでしょう。ボリス連邦はほかの国にも戦争を仕掛けるのでしょうか」
「分かりません。しかし我々に残された道はひとつ――生き残るだけです」
ブルースは言った。
それからリーアムの通信が入った。
「向こうさんの通信があった。彼らは既に戦況を把握している――その上で俺たちを受け入れてくれるだとさ。向こうにどんな銭勘定が出来ているかは知らんが、俺たちはそれに甘えるしかない。分かるな? ブルース」
「了解しました」
答えたのはブルースではなくディアーネだった。それにリーアムはおかしそうに笑った。
――彼らにとっての戦争の始まりとは、そういうものであった。
(第一章終)




