王子様!気軽に婚約者に喧嘩を売らないでください!
よくある婚約破棄物です。
あまりスッキリはしないかもしれません。
添削等でAIを活用しています。
─── マルティン•フォン・アイゼンヴァルトは困惑していた。
広間の閉まった扉の脇に立ちながら、彼の灰色がかった瞳が隈なく周りを見渡しているが、多くの者に期待していた反応は見られない。祝いの席でなければその焦茶色の髪を掻き乱していたかもしれない。
(祝いの席……だよな……?)
この日は王立中央学園の卒業パーティーのはずである。明文化された成人年齢のないこの国では、学園の卒業は成人と見做されやすい儀礼であり、近年では祝い事として重くみられる傾向にある。先ほどまでは周囲もどこか背伸びするような浮ついた雰囲気を醸し出していた。
しかしマルティンにはこのままおめでとうで終わる気がしなかった。僅かに空気が変わりつつあるのを肌で感じていた。彼の視線の先には、朝焼けの光が溶け込んでいるかのような柔らかな金色の髪と、凪いだ湖面を思わせる碧色の瞳を持つ青年が立っている。── ルーカス・アウレ・レオーベン ── 絵に描いたような白馬の王子様という見た目だが、アウレの名が示す通りアルテンライヒ王国の王族、見た目に違わぬ第一王子である。彼は学園の制服に身を包んでいた。確かに学園の制服は全ての民族のドレスコードで禁忌を廃した無難なデザインである。それでもマルティンは王族が常日頃と変わらぬ姿で儀礼に臨むことに違和感を覚えた。
(制服を着るにしても新しく仕立て直すくらいはしても良さそうだが……?まだ設立して三十年くらいだ。王族の前例が足りていないからか?)
決して洒脱でないマルティンでさえ、制服を新しく仕立て直して、その上から騎馬と門の刺繍でアイゼンヴァルト家を表した、グレーのケープを羽織っている。一流の仕立て屋が御用人として侍る王族ではあり得ない事態に見えた。
まるで普段通りの格好なルーカスだが、その朗らかな佇まいだけはすっかり鳴りを潜めていた。ただ剣呑な顔で相手を睨みつけている。
ふとマルティンの視界の端に月光を想わせる輝きが映り込んだ。見て見ぬふりを諦めたともいう。視線を移せばそこには白銀の髪を綺麗に編み込みハーフアップにまとめた少女がいた。── レーカ・フォン・ヴァルガ── ヴァルガ公爵家のご令嬢であり、ルーカスの婚約者でもある。ヴァルガ公爵家は王家を除き、諸侯の中で随一の版図を誇る。その歴史の古さでいえば王家をも上回る。東部─ヴァルガ地域─の盟主である。この2人の間に険悪な雰囲気が流れているのをマルティンは注意深く見つめていた。
「殿下、本日は栄えある卒業の日にございます。主役たる殿下がそのような態度では、皆を煩わせる事になりますよ。」
平静を装いつつも呆れを隠し切れない調子で、レーカは口元を扇で隠しながらルーカスへ声を掛けた。目元が明るい黄色に彩られているからか、アメジストを想わせる瞳が際立ち、普段よりも一層華やかな印象を強めている。
(王都では目元は赤が主流だったか?化粧までヴァルガ地域の慣習に沿っているのか……)
彼女の装いは一目で上質とわかる簡素な白いドレスの上から、藍地の貫頭衣という王都では見慣れぬものであった。貫頭衣には金糸で大樹を思わせる刺繍が施されていた。ヴァルガ地域の正装である。それも祭事を取り仕切る者にのみ許されたものだ。言い訳のように耳飾りだけが王都で流行りの意匠だった。
マルティンはこれまでの学園生活を振り返り、やや暗澹たる思いで2人のやり取りを見守っていた。
「そのような態度はやめろ……か。なぜこのような態度になっているのか心当たりがあるだろう?」
ルーカスは怒りを堪えるように頭を軽く振りながら問うた。視線だけはレーカから切らさない。一瞬だけ何故かルーカスの雰囲気が一際鋭くなった。
(……?言葉に反応した訳ではなさそうだが…… 装いになにか不満……か……?)
マルティンの意識が逸れる中、周囲はどこか楽し気であった。多くの者が彼らに注目している。しかしどこか呑気に、痴話喧嘩を楽しむような品のない空気が漂っている。徐々に生徒達が二人を中心に緩く輪を描いていく。マルティンだけは壁際で、臓腑を直に撫でられるような怖気に堪えていた。レオーベン家とヴァルガ家の諍いという事実が、彼に目を背けることを許さなかった。
「そうは言われましても、何か怒らせるようなことを私がしてしまいましたか?」
惚けるというにはレーカはあまり自然体であった。本当に心当たりがない。そう判断したのだろうか、ルーカスは思わず自身の背後にいる少女に一瞬だけ目線を向け、より一層剣呑な表情でレーカを睨みつけた。本来なら鎮静に向かうはずの教師たちが見あたらない。扉の外で何かざわめきが聞こえる。
(外でも何か問題が起きたのか……?)
マルティンは胃を抑えながらルーカスの様子を冷めた目で見つめ、躊躇いを振り切り足を一歩前へ動かした。
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王立中央学園
異なる言語、法、慣習を持つ多くの国を貪欲に呑み込んだアルテンライヒ王国において、先代の第九代国王─賢人─ヨーゼフ二世によって設立された、貴族の子女に十六歳から二年間に渡って、アルテンライヒ王国としての重要事項を教え込む学舎である。
そう先代国王がわざわざ学舎を作らねばならぬと決断する程に、アルテンライヒ王国の内情は複雑怪奇となっている。
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マルティンにとってルーカス・アウレ・レオーベンとレーカ・フォン・ヴァルガは共に重要人物である。季節の挨拶を欠かした事はなく、親しみまではいかずとも、表面上の雑談程度は熟せるだけの仲である。しかし同時に、どちらにも肩入れしたと見做されないよう細心の注意を払ってきた。つまり、いざという時に互いを諫められるほどの関係ではなかったのである。これまでもルーカスが零す不満を耳にしたことはあった。しかしそれはあくまで愚痴の範疇だった。少なくとも、公衆の面前で婚約者へぶつけるようなものではなかった。だからこそ今回の危機を招いたのだと理解し、己の未熟さを激しく罵りたい気分になった。
「レーカ!本当に理解していないというならば仕方ない!あえて私が教えよう!」
ルーカスがレーカに向かい大きな声で宣言した。周囲が声を押し殺しながら、演劇でも見ているかのように興奮しているのが見てとれた。そしてそれをレーカがさりげない仕草で、気づかれぬよう見下したのをマルティンだけが気づいていた。あれほどの才女があんなにもあからさまに惚ける訳がない。明らかな政治的メッセージである。それも場合によっては深刻になり得るものだ。そして今までを振り返れば察する事はできる。ルーカスがあれだけ怒るのは誰の為か。そしてその怒りの原因の多くはすれ違いによるものだと。卒業の高揚感と飛び込んできた非日常の空気が混ざり合い、普段なら賢明な者ですらその事に無頓着であった。
「殿下……!私は大丈夫ですから……!」
周囲の気迫に押されてか、ルーカスの背後にいる少女は身を縮めるようにしながらも、震えるような小声で彼を懸命に止めようとする。その仕草が庇護欲を呼び、かえって逆効果になるだろうことを彼女は知らないのだろう。周囲からは好奇の視線が降り注ぎ、この空間が娯楽として消費されている。
少女は琥珀色の大きな瞳を細かく揺らし、普段通りの制服姿で身じろぎをして視線に耐えていた。亜麻色の髪は肩口程の長さで、貴族としてはあまりにも短い。貴族の女性にとって長い髪を綺麗に保つことは、半ば義務ともいえるステータスである。つまるところそうでない身分という事だ。
(確か先の戦役で西部に所領を得た男爵家、その嫡男が現地で産ませた庶子で──)
「アンナ、大丈夫だ私を信じてくれ。君が怖がる必要など何もない。」
ルーカスは背後の少女──アンナ・フォン・リート──の瞳を覗き込み安心させるように話しかけた。アンナの恐怖が少し和らぐ。
(まるで吟遊詩人が歌う安っぽい恋愛劇に巻き込まれたようだ。)
マルティンはこの政略結婚の重みに気づいているものが、この後に及んでもまだいない事に恐怖を覚えた。
──アルテンライヒ王国が大陸東部において大国の地位を保つ上で、ヴァルガ公爵家の存在は欠かせない。第六代国王─征服王─フリードリヒですら、山脈に守られたヴァルガ王国を武力で屈服させることは叶わず、高度な自治と祭礼用香木の支援を条件に従属関係へと組み込むのが限界だった。その後、旧ヴァルガ王国は分割統治によって公爵家の支配領域こそ縮小したものの、ヴァルガ地域における影響力はいまなお絶大である──
「……殿下……」
ルーカスとアンナの明らかに互いに想いあっているとわかる振る舞いに、マルティンは王族に対して離れた場から呼びかけるという無礼をしてでも、こちらに注意を向けさせるべきか悩んだ。いくらなんでも婚約者……いや公衆の面前で行うには場を選ぶべき行為だ。しかし、それよりも先にレーカが仕掛けた。
「婚約者である私の前でそのような振る舞いをして…… 自分の行動の意味を理解していないのはどちらだというのでしょう?」
レーカは冷めた目つきでルーカスを見つめながら、扇を顎に当て小首をかしげるように尋ねる。ルーカスに詰問された時と同様の声色であった。つまりどちらもくだらないと思いながら、義務的に問うているに過ぎないのだ。あまりにも真っ当で、だからこそ防ぎたかった一言だった。
──社交が面倒だと壁側に避難するんじゃなかった。いや自分以外が止めていれば問題なかった。止めれてないから問題なんだよ──
走るわけにもいかず未だマルティンは渦中に間に合わないまま、言い訳と自省が飛び交う中で自分の優先順位をまとめていく。── 全ては家を救うため。レオーベン家とヴァルガ家で諍いが起きれば、被害が出るのは要衝•アイゼンヴァルト領なのだから──
「私は何人にも恥じる振る舞いはしていないさレーカ。怯えている者を安心させる事は王家の責務である。」
ルーカスはゆっくりとアンナから視線を切りながら、堂々と自身の考えを訴え、そしてレーカの顔を見据えた。
(学園で何を学んだんだ?東部の人間にその考えは危険だろう。──だからヴァルガ地域の正装か……!)
そもそもアルテンライヒ王国は家を大切する考えが強い。なぜならこの時代において自らの身分を保証するものが家であり、その価値は時に自分の命よりも重い。しかしその中でも特に東部のヴァルガ地域は家の重みが顕著である。祖霊信仰を中心とする宗教観により家族という繋がりがより強固となっている。家を守る為であれば死を受け入れるのが当然という状態を理想視している点からもそれは窺える。だからこそ祖霊の加護や死後の帰還をひいては家を害するとして不貞を恥とする文化が根強い。ましてやヴァルガ公爵家はその祭礼を取り仕切る家である。
(──だからこそ、その結婚相手にはより慎重な立ち回りが要求される。王族である以上は側室を避けることは困難だが、その差配は正妻の特権であるべき。それはこの学園でも習うはずだが、無視しているからこその当てつけか……!)
ルーカスは気づいていない。未だに何が悪いとも思わずに、なおもレーカを問い詰めようとしている。マルティンは東部出身者が身じろぎをしたのを横目で見た。いや、周囲の浮き足立つ空気で目立たなかっただけで、東部出身者は徐々に一部に固まり、不快感を我慢している。
(あの振る舞いはまだ中央や西部では咎める範疇でないからか……)
マルティンは苦悩した。東部の理を飲み込んだ事で落とし所が見えなくなったからだ。自身が思っていたよりも、在学中のルーカスの振る舞いは東部出身者を不快にさせていたらしい。ただ止めるために声を上げることは出来る。しかしそこで止まらなければ先がない。悩んでいる内に話が進んでいく。
「何人にも恥じない……ですか?その振る舞いが……?婚約者を相手に女性を背後に隠して、あまつさえ相手に顔を近づける行為が?」
レーカは顎に当てていた扇を開きながらそっと口元を隠した。その内容を聞けば中央出身であろうと一部で眉を顰める者も出てくるだろう。もっとも声色は変わらないため、彼女の内心はわからない。私的に傷ついているのか、単なる政治的に発言に過ぎないのか。少なくとも政治的にはかなり攻撃に踏み込んだといえるだろう。
「確かに私はアンナに心惹かれていることは認めよう。しかしそれは決して疾しいものではない。学園でも習ったであろう。何人も精神的な愛情の結びつきを侵すことは叶わないと!」
ルーカスは胸を張って答えた。ここ最近王都で周知が進んできた西部諸国の価値観を掲げてきた。王城への登用が多いからか、共通文字の普及が遅れ、最近ようやく実効支配地域から公的領土に行政区分が変更された地域だ。より古くから従属し難事にも協力している東部への慣習を無視しておきながら、新参者の価値観を振りかざす。単に話題性の高い地域を選び勉強しただけなのか、あるいは政治的に計算された発言なのか、マルティンにはルーカスがわからない。
(少なくとも俺なら関係が深い人間の文化を優先して学ぶが…… 失敗したら死ぬからな。)
マルティンは昔に会った東部の領主を思い出す。初陣となった共同討伐の折、その領主は騎士達へ意図的に負荷をかけ、アイゼンヴァルト家の対応力を測ってきた。本来であれば、貴族たるマルティンが制止すべき振る舞いだったが、彼にはその余裕すらなかった。東部では中立を掲げるだけでは足りない。相手の理を理解し、それに応えられるかを常に見られているのだと、嫌でも思い知らされた出来事である。
ルーカスは先ほどの発言に対して、言葉の通りに気後れがないのだろう。そのまま目に力を入れて言葉を吐き出した。
「それに翻ってはレーカ、君はどうなんだ?いつも身分を笠に着てアンナを見下し、王国の統合を邪魔して!」
「っぁ……!」
マルティンは思わず呻き声を上げた。それは周囲のざわめきに隠れて気づかれなかった。レーカが視線だけで東部貴族を制した。東部貴族の空気が張り詰めるように静まった。
「殿下……!その言い様はあんまりです……!私が悪いんです……!こんな……!殿下……!」
大事にしたくないのだろう。安心したのも束の間であった。アンナがルーカスを必死に止めようとする。しかしやり方が悪かった。ルーカスの袖を掴んでしまったのだ。そもそも不作法な振る舞いではある。それ以上に婚約者を糾弾する男に対して、自分は触れられる立場だと、見せつけていると思われても仕方がない事だった。
マルティンは咄嗟にレーカに視線を向ける。口元に扇を当てながら下目がちに黙していた。思考をまとめていたのだろう。しかしその沈黙の猶予は僅かだ。視線が上向くのを感じた。東部貴族の視線は刺すばかりの鋭さを持ち始めている。
マルティンは群衆の最前列から歩みでた。そのまま踵を揃えて直立し、左手を胸へ、右手を開いたまま斜め下へ伸ばす。戦時敬礼だ。
「恐れながら!アイゼンヴァルト家が一子、マルティン・フォン・アイゼンヴァルト!ルーカス・アウレ・レオーベン殿下に言上仕る!」
(これだけの声を張り上げたのは領地にいた頃以来だな。)
彼にとってここはもはや戦場であった。周囲からの視線が降り注ぐ。中央貴族からは好奇が、西部貴族からは怪訝が、東部貴族からは警戒が、微かに、しかし確実に溢れていた。様々な感情が複雑に絡み合う。場は奇妙な沈黙に包まれた。
「マルティン…… 人の話に割り込んでくるなんて、君らしくないじゃないか……?」
沈黙を破ったのはルーカスだ。彼にしかその権利がなかったので当然ではある。しかし彼はそのような些事には気づかず、友人の普段では考えられない行動に目を丸くしながら手振りで敬礼を解かせた。その途中でアンナの手が自然と離れた。マルティンは精一杯背筋を伸ばしてルーカスを見つめる。視界の端でレーカがマルティンを鋭い目で見つめながら、言葉を飲み込んだのが見えた。
「ルーカス殿下、このようなご無礼、誠に申し訳なく存じます。されど、どうか、この臣に具申を申し上げる機会を賜りたく存じます。」
ルーカスは僅かな困惑の後、チラリとアンナに目線を送り頷いた。
「あぁ…… マルティンの事だ、くだらぬ内容ではないのだろう。ただそれを受け入れるかは別だぞ。」
ルーカスは一瞬だけレーカへ鋭い目線を飛ばした。
「忝く存じます。殿下の優しさはこの臣もよく存じ上げているところ、それに甘えるほど不忠ではございません。」
その言葉を口にした瞬間、東部貴族の視線がマルティンに突き刺さる。口角が引きつりそうになるのを気合いで抑えた。
「されど殿下、その溢れんばかりの優しさも、過ぎれば時に毒となりましょう。女性をこのような人前で…… 目立つのが不得手な方には酷でしょう。どうかここは一度落ち着いて、後に当人同士で話し合いをなさるのが良かろうと存じます。」
マルティンにとって最も避けなければならないのは、この公衆の面前で両者が決裂する事だ。感情、面子、他者の介入、あらゆる要因が火種を大きくし得る。その果てにあるのが灰燼と帰す領土、つまりは戦争だ。表面上は穏やかな表情で、されど祈るような心持ちでルーカスを見つめる。
「むぅ……そう……だ……なぁ……」
周囲には人だかりが出来ており、アンナに酷というのは事実であった。レーカは静かに扇を畳んでいた。ルーカスは言い淀みながら視線だけで周囲を見渡した。
ルーカスの眉間の皺が薄れた。続いて僅かに眉尻が下がっていく。彼の怒りが萎んでいくように感じた。そして改めてレーカの耳飾りがルーカスの視界に入る。治まりかけていた怒りが、再びその目に宿る。
「いや、駄目だ。」
決して大きな声ではなかった。荒げた様子でもない。しかしそれは、容易く曲げられる事を意味しない。
(父上はこう言われてからが交渉の本番と、そうはおっしゃっていたが……!)
マルティンの頬を一筋の汗が流れ落ちた。
視界の端でレーカを確認すると、眉を顰め僅かに困惑したように見えた。
(ヴァルガ嬢が表情を崩した……?予想を誤った……? 一体何に対して……)
レーカの立ち居振る舞いはこの世代においては傑出した完成度を誇っている。そんなレーカが表情を変えるとなればそれは不意の出来事ということになる。しかし既にレーカの表情は元に戻っている。あるいは見間違いだったのかもしれない。マルティンは慎重に言葉を選びながら絞り出した。
「……この臣めは、殿下が意味もなく、他者が傷つくところを見過ごす方ではないと、よく、知ってございます。差し支えなければ理由をご教授賜りたく存じます。」
「レーカを逃すわけにはいかないからだ。」
言葉の理解が遅れた事でマルティンは表情を崩さずに済んだ。しかし視界の端で今度こそレーカが困惑の表情を浮かべるのを見てとれた。それでも東部貴族を身振り一つで制してみせる辺りは流石だった。
(殿下の反応が予想外だったということか……)
半ば現実逃避でレーカの分析を行う。マルティンが知る限り、在学中においてレーカの振る舞いに、ルーカスが咎めるべき点は見当たらない。逆であれば両手の指でも数えきれないだろうに。確かに以前レーカがアンナの無作法を厳しく指摘した場面を何度か見かけたことはある。しかしそれは貴族としての義務感によるものであり、少なくともマルティンには私情から他者を虐げているようには見えなかった。ただ先ほどの言葉で、アンナの表情がより怯えたものとなり、いっそ可哀想なほど顔色が悪化している。
「逃げる……でございますか……?」
促すように復唱するとルーカスは落ち着いた様子で語りかけてきた。嵐の前の静けさを思い起こす、張り詰めた安定だった。
「彼女は常日頃からアンナに嫌がらせをしていた。自分に無いものを持つアンナが妬ましかったのだろう。それでも私の婚約者だ。その理不尽を取り成すのは我慢できた。しかしついに一線を越えてしまった。私の婚約者である事を理由に、アンナへ渡すはずだった宝石を強奪し、あまつさえこの日に身につけるとは──」
「そのような真似はしておりません。」
低く威圧感のある声が言葉の隙間を貫いた。レーカが人の話を遮るとは余程のことである。
ルーカスの発言は冒頭からして意味が不明で、疑問点が洪水のように溢れている。しかしそれでもマルティンはレーカを、いやレーカの身につけている耳飾りを視た。王都で流行りの意匠は、ヴァルガの礼装で揃えた彼女の装いの中でただ一つ浮いている。小さな星を模した金細工の耳飾りに深い緑色の宝石がキラリと輝いている。
──……輝いている?この暗い会場内で?エメラルド……ではない……っペリドットか……!他に宝石は身につけていない。殿下を信じるならペリドットが奪い取った宝石のはず、しかしあの石に今日の服装を合わせるか……?奪いまでした宝石に服を合わせないなんてあり得ないだろう……しかし殿下が宝石を見間違えるか……?いやっ確かにあれなら制服に合わせるのに違和感がない……!──
マルティンの中で仮説と交渉材料が曖昧なまま積み上がる。検証は足りていない。しかし時間はもっと足りていない。危ない橋を渡るしかない状況に思わず拳を握り締めた。
「では何故その耳に私がアンナに贈るはずだった物がついているのだ!」
ルーカスの大きな声にアンナがびくりと震えた。
「何故?節目の日に婚約者から贈られた物を外すような大人気ない人間ではありませんので。」
レーカはルーカスの右手首を見つめながらしれっと嘯いた。普段では考えられない程感情の乗った声だった。普段通りの格好であるルーカスは、当然のように見慣れぬ宝飾など身に付けてはいない。
「殿下やはり何かの手違いでは……」
アンナが勇気を振り絞りルーカスへ声をかける。話振りから届いたから着けているのだと感じ取っているのであろう。
「アンナ、君まで何を言うんだい?私は確かに君に似合う物を用意したんだ。」
その通りだとマルティンは思った。あの耳飾りはアンナの髪色や制服と合わせるのに最適化されていた。
「だから何故、それが私を犯人だと思う理由になるのですか?」
レーカは声を荒げはしなかった。しかし口元にやった扇は少し震えている。当然の怒りであった。
「君以外に私たちを邪魔する者はいないだろう!ここに至っても誤魔化そうなどとは、私にも考えがあるぞ!」
その一言で会場のボルテージが上がっていく。レーカですら冷静さを欠き始めている。空気が軋み始めた。いよいよ周囲の者も気づき始めているのだ。このままでは不味い、ルーカスにその先を言わせてはならないと。ただ、それを言語化できる者が居なかった。
──マルティン・フォン・アイゼンヴァルトを除いて
「恐れながら殿下、犯人はヴァルガ嬢ではないと思います。」
マルティンはできる限り穏やかに、普段通りの言葉遣いを意識した。背中は冷や汗に塗れ、指先は緊張で震えていた。それでもこの過熱した空間に逆らわねばならなかった。
「どういう事だ!?マルティン!」
水を差されたルーカスが語気を荒げる。視野が狭まり、最早レーカを敵と見做している。マルティンからすれば恐れていた事態である。
「殿下、もう少し落ち着いて、ヴァルガ嬢の服装を見てください。」
「見ているさ!私がアンナに贈るはずだった耳飾りをつけている!」
ルーカスは怒りのまま吐き捨てた。
「そちらではなく、ドレスですよ。」
軽い声色を取り繕ったが、肩をすくめる動作はぎこちなかった。
ルーカスの視線が渋々レーカへ移ったのを見て、マルティンが解説を始める。突如として会場の視線を独り占めすることになったレーカの身じろぎは見ぬふりをした。
「大樹の刺繍の入った貫頭衣は、祭礼を取り仕切る祭祀者にのみ許された礼装です。さらに藍地という事はヴァルガ公爵閣下にのみ許された紫を除き最高位にございます。」
「──つまり自身で最も格式の高いヴァルガの正装を着ておられるんですよ。」
「ヴァルガ嬢であれば、その耳飾りに合わせるのに、華やかさを優先して王都風のドレスも用意できたでしょう?」
マルティンの言葉にルーカスは呆気に取られた。
「では……何故レーカがその耳飾りを付けているのだ?」
ルーカスが呟くように尋ねた。視線が揺ら揺らと定まっていない。己の成したことの罪の重さを考え始めているのだろう。
「この時期に女性向けの耳飾りなら、婚約者宛と判断されたのではないですか?」
「馬鹿な……あり得ない……私は確かに手配を済ませた。手紙での指示ではあるが、問題ないと確認も取ったぞ……!」
「文字は未だに慣れない者も多いですし、おかしくはないでしょう。その辺りはお戻りになられた後で確認なされたらいかがですか?」
最近の王城では西部出身者の登用が多い。公的領土に変更された影響だ。
マルティンの言葉に場が白けてくるのがわかった。結局はルーカスの独り相撲であるとわかったからだ。
「殿下、まだ何かお言葉はございませんか?」
当然被害者であるレーカから詰問が始まるのも無理はない。どこまで要求するのかマルティンは緊張を新たにした。
「その……っす、すまなかった。」
動揺が隠しきれないルーカスに対して追撃をかけるのか、レーカが息を吸うのがわかった。
「余も同罪なんだ許してくれたまえ。」
広間の奥から響いた声にマルティンは反射的に跪いた。
「あぁ跪く必要はないよ。ここは謁見の間ではないからね。」
アルテンライヒ王国第十代国王レオポルトがゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
マルティンは作法に反して思わず跪いた事に、自分がどれほど緊張していたのか自覚した。他の者は既に、立礼の最敬礼を国王に向けている。気恥ずかしさを誤魔化すように、マルティンも所作を直し、国王を待ち侘びた。
(やっと終わった……)
ゆっくりと息を吐き出しながら、解放される期待に胸が震えた。
足音が止まる。
「皆して最敬礼で迎えなくてもよかったのだがなぁ…… まあ顔を上げてくれたまえ、大人の仲間入りをした諸君。」
この場が卒業パーティであったと思い出すのに少し時間がかかった。
「まあ、そこの大人気ない者はもう少しかかりそうだけどね。」
声色は軽く、されどルーカスを見る目は驚くほど冷たかった。これだけで会場の空気は完全にレオポルト国王の支配下となった。
「ルーカス、改めて余からなにかいう必要はないと思うが、後で時間をとる。」
震える体でルーカスは頭を下げた。その様をアンナだけが心配そうに見つめている。
「レーカ嬢もすまなかったね。要らぬ迷惑をかけてしまった。後で父君を交えて話し合いをさせてほしい。」
謝罪が繰り返された事に内心で驚きが広がるが、それでも場に響くのはレオポルト国王の声のみであった。
「そこのお嬢さんも大変だったね。」
レオポルト国王がアンナに対して声をかけた。謝罪ではない。それでも明らかに身分が低いとわかる者に、同情を示したのだ。今回ばかりは僅かに空気が震え──
コツリと響く国王の軽い足音だけで静まった。
アンナはルーカスをチラチラと気にしながら、少しぎこちなく頭を下げた。
「本来なら祝いの挨拶などをするところなんだが、そういう空気でもないからね。また日を改めよう。領地にて緊急の要件があるのなら手紙にて挨拶はさせて貰う。あぁ親がうるさいとかだけなら、私から手紙で説明をするから教師にでも声をかけてくれたまえ。滞在先が心配なら王城の迎賓館の使用を許す。」
──あぁそれと、王城に公用語がわからない者はいないから安心してくれたまえ──
レオポルト国王は冷たい目でレーカの耳飾りとルーカスを見た後、マルティンに朗らかに笑いかけた。そこまでいうと国王は、いつのまにか周囲に控えていた教師を引き連れて去っていった。
その後の記憶は曖昧だが、過不足なく卒業の儀は完了した。
───マルティン・フォン・アイゼンヴァルトは困惑していた。
扉の脇に立ちながら、彼の灰色がかった瞳が隈なく周りを見渡しているが、一つの例外を除けば見慣れた応接間に不思議な点は見当たらない。
(どういう状況だ……?)
彼の視線の先には唯一の例外であった少女──レーカ・フォン・ヴァルガ──が座っていた。
「お呼びと伺い参上いたしました。マルティン・フォン・アイゼンヴァルトにございます。お久しぶりにございます。」
状況は飲み込めていないまま、マルティンは挨拶をした。卒業の日から既に2回、満月が訪れていた。
「ええ、お久しぶりですね。どうぞお掛けください。」
レーカは気軽な声で応じた。今日の装いは簡素で、機能性を重視したものだった。髪は緩く一つに編み込んでおり、化粧も薄くまさに旅の途中という出立ちであった。服装も貫頭衣は汚れが目立ちにくい茶色いもので、ベルトについた木の葉を模した金具だけが、控えめにお洒落を主張していた。
「では失礼いたします。」
マルティンが向かい側に座ると、さっと家人が茶を注いだ。マルティンは身振りで感謝を伝えながら、落ち着くために一口含んだ。
「ヴァルガ嬢におかれましては、その後ご健勝でしたか?」
見た限りでは元気そうであるが、ことが事だっただけに心労やその後の処理は大変であっただろう。
「ええ、先日は苦労をかけました。その処理も終わりましたので、領地に帰る途中で挨拶をしようと寄りました。」
マルティンは少し安心した。東部の盟主の娘と一対一で会うなど何か問題でも有ったのかと考えていたからだ。
(同じ状況ならヴァルガ公爵閣下の方が、まだ自然で気が楽かもな)
貴族の女性が一人で婚約者でもない男と会うなど珍しく、ふとそんな事を思った。しかし、以前に街道の相談で父と会っていた、威圧感満載な大貴族を思い出し、途中で考えを追い出した。
「なるほど、アイゼンヴァルト家としても、御両家の関係は無視出来ないものにございます。どう処理されたか差し支えない範囲でお教えいただいても?」
マルティンはレーカの反応を見ながら問いかけた。
「もちろんです。その為に来たのですから。」
レーカの反応は実にあっさりしたもので、視線を脇に向けると、家人がそっと手紙を差し出してきた。
「すでに御館様は確認済みです。」
マルティンの視線が剥がれた蝋封に向いたのを見て、家人がそっと耳打ちをする。
(既に父上が知っているなら改めて会う必要があるのか?)
ふとそんな思いに駆られるが、その考えが先日の危機に繋がったのを思い出す。その後に父から大層叱られた事まで一緒に思い出し、身体が少し強張った。
「どうしました?」
レーカは不思議そうに呟いた。
「いえ、父が既に見ていたのであれば、少々不躾であったかと思いまして。」
そう言いながらも、マルティンは素早く手紙に目を通していく。
「……なるほど。」
マルティンは少し言葉を選ぶのに時間がかかった。レーカはそれを大して気にせずにそのまま続きを引き取った。
「ええ、ルーカス殿下と私の婚約は解消となりました。しかしレオーベン家とヴァルガ家の婚約は別の者で行うため、アイゼンヴァルト家に迷惑はかからないようにいたします。陛下からも寄るのなら伝えてあげてとお願いされましたの。」
細かい条件は他にも色々あるようだが、大きなものはレオーベン家とヴァルガ家の政略結婚は、第二王女とヴァルガ公爵家の嫡男で行われる事になった。また、レーカへはこれまでの忠勤を讃えられ、二代目王妃が気に入っていたとされる首飾りが下賜された。事実上の賠償金である。
「国王陛下は実に誠実な対応をなされたようですね。有難い限りでございます。」
方法としては第二王子──ヴィルヘルム・アウレ・レオーベン──にレーカを嫁がせる手段もあっただろう。しかし彼はまだ十歳になるかどうかで、年齢の釣り合いを考えるとレーカに負担がかかるのは避けられない。ましてや王子を差し替えるなんて行為は、レーカも、そして東部貴族も面白くないだろう。
「陛下も今回の件は随分と頭を痛めておられました。耳飾りの件です。」
レーカが口元を扇で隠した。マルティンが視線を家人に向ければ、すっと扉の外で控えた。扉が僅かに開いているのは仕方がない事だった。
「ルーカス殿下は、その、──」
珍しくレーカが言い淀んだ。
「──私に贈り物を準備していなかったみたいです。」
出てきた言葉は不明瞭で、如何に伝えるのに苦悩しているかが偲ばれる。
「……リート嬢のみに宝飾を贈るつもりだったと?」
マルティンが質問する間に整理がついたのであろう。レーカは流石に呆れた表情を隠しきれずに応じた。
「ええ、その通りです。その上でアンナ嬢への贈り物の指示も簡単なもので、読み方次第では解釈を変えられそうだったようです。ですからあの耳飾りは婚約者である私に届いた……」
正装に合わせるには随分と軽い石だと思えば、それ以下なんて、とレーカは愚痴を零した。
マルティンはあの騒動の日に、扉の外でも動きがあった事を思い出した。
「なるほど、通りでタイミング良く陛下が騒動を抑えてくれた訳です。知っておられたのですね……」
レオポルト国王はルーカスが騒ぎを起こすことを察していたのだ。そしてその態度次第で、今後の処遇を決めようとしていたのだろう。
「そこまではわかりません。ただ、成人の証としてルーカス殿下にはヴァインガルトが下賜されたのは事実です。それと陛下は重臣の皆様の前で、ヴィルヘルム殿下をお褒めになられたと聞きました。」
「ヴァインガルト……ですか。アウレングラートではなく?」
レーカは目線だけで肯定した。マルティンは考える。ヴァインガルトは小さいが、アルテンライヒ王国で数少ない葡萄酒の産地だ。格式こそ高くないが実入りの良い土地である。ただ、ルーカスとは縁遠い南方領だ。なによりこの国の王太子は成人するとレオーベン家由来の地、アウレングラートを受け継ぐのが慣例となっている。先ほどのレーカの話と合わせると後継者として遅れを取った、しかし見捨てられてもいないというところだろう。ふとヴァインガルトの格式を思い出す。
(……臣籍降下したとして、所領がヴァインガルトだけなら、男爵家から正妻を得ても誤魔化しようはあるな)
そこまで思い至りレーカへ視線を向けた。レーカは澄ました顔で茶を含んでいる。
「なかなか有意義な時間でした。お教えいただき感謝申し上げます。」
マルティンはこれで話が終わりだと思った。当事者でもないのに多くの情報を教えてもらえたことに感謝した。
「あら、ここからが本題なのによろしいんですか?」
レーカがしれっと嘯いた。
「本題……ですか?」
マルティンには見当がつかなかった。騒動の処分も判明して、今後の情勢の一端も理解した。これ以上何を話すのかが理解できなかったのだ。
「ええ、お伝えしたように、陛下も頭を痛めておられたんです。今回のことは。」
レーカが少しだけ身を乗り出す。
「陛下が思っていらしたよりも、ルーカス殿下がずっと拙速だったみたいで、アイゼンヴァルト卿に感謝しておられました。」
マルティンは話の流れについていけていない。ただ、マルティンが思っていたよりもさらに余裕がない状況だった可能性を感じ取り、今更ながらに固唾を飲んだ。
「そういうわけで、陛下から卿に、忠勤を讃え一代限り、軍事利用を除いてですが、シュタールグラート峰の使用権を与えるとの事です。」
マルティンは驚いた。シュタールグラート峰はアイゼンヴァルト領北西部にある山脈の一部であった。アイゼンヴァルト家は山脈によって作られた要衝に領地を持つが、山脈とそれによって作られた隘路そのものは王家の直轄領となっている。それだけの重要な場所の使用を許すとは、制限があるとはいえ、大盤振る舞いに他ならない。しかしそれよりもさらに驚いたのは、それをレーカが言い出したことだ。心配になり小声で尋ねた。
「ヴァルガ嬢がそれをお伝えしてもよろしかったのですか?」
これは王家から正式な使者が来るべき話である。レーカは楽しげに僅かに目を細めた。マルティンはますます困惑し、思わず表情が崩れた。
マルティンの反応に気をよくしたのか、レーカがクスクスと笑いながら応じた。
「安心してください。正式な使者が今、お父上にお伝えしているところです。私はその同行者、使者団の一人という扱いです。」
王都には戻りませんけど、と続けた。
マルティンはレーカの笑顔に一瞬我を忘れた。彼女がここまで感情を露わにしているのを見るのは初めての事だった。すぐに正気に戻り、少し誤魔化すように言い訳をした。
「それは失礼しました。騎士達と出ている時に呼ばれたもので、きちんと確認できていませんでした。」
「いえ、私が無理を言って卿をお呼びしましたので、気にしないでください。」
今度は表情を崩すことには耐えられた。しかし意図が不明なことには変わらなかった。幸い視線が泳いだことは見逃してくれるらしい。
「私にご用……ですか……?」
レーカは姿勢を正し、真剣な表情で感謝を伝えた。
「ええ、先の騒動の時、私は避けようと思えば避けられました。元々は内々に婚約を解消する事は打診していたのです。お兄様と王女殿下の婚約がここまで早く決まったのも、元々それで調整中だったためです。あの時、話を曖昧な形で収めれば、私から場所を移す事を提案していれば、あそこまで他者を巻き込む事にはならなかったでしょう。しかし、殿下の態度にいい加減我慢が出来なくなりました。」
そしたら思っていたよりもルーカスの暴走が早かった、とレーカは悔いるように息を吐き出した。
確かに、ヴァルガ公爵家ほどの家格ともなれば婚約調整だけでも時間を要する。その上、王都とヴァルガ公爵領は気軽に協議を重ねられる距離ではない。あの騒動から決着まで、異様な早さだったのだと今更ながら気がついた。
「……政略結婚は家同士の繋がりを得るためのものです。しかし、当人同士が険悪であれば家同士でも揉めましょう。」
マルティンは慰めとも自論とも取れる言葉を絞り出した。レーカは少しだけ目を見開くと、一度強く目を瞑り、そして目を逸らしながら曖昧に微笑んだ。
マルティンはそれが自身の精一杯である事に恥じた。




