憎みきれないろくでなし MLB三冠王 ヘイニー・ジマーマン(1887-1969)
ヘイニー・ジマーマンは首位打者1回、本塁打王1回、打点王3回の記録を持つ一流メジャーリーガーで、所属チームも三度ワールドシリーズに出場しているが、傲慢な性格のわりにチョンボも多く、契約時でも球団としょっちゅう揉めるほど金に汚いため、チームメイトからの評判は芳しいものではなかった。それでもファンにとってはチームを優勝に導く強打者はヒーローである。目の覚めるような一打でチームを勝利に導いたかと思えば、ボーンヘッドで勝てる試合を落とすという一人二役の存在には、ファンも相当気をもんだことだろう。抜け目のない完璧な選手でも三冠王は超難関であるのに、欠点だらけの男が二十五歳でこんな偉業を達成するのだから、世の中わからない。ファンにはその意外性が癖になったのかもしれない。
一九〇五年七月三日、ケンタッキー州ルイビル生まれの水道配管工がボクシングの世界ヘビー級チャンピオンになった。
一試合で数万ドルを稼ぐヘビー級のチャンピオンボクサーは、全てのアスリートの中で最高の報酬を得る国民的英雄であった。その栄光の座を射止めたのが、これまで地元以外ではあまり名を知られていないマービン・ハートという二十八歳の配管工だったというのは、まさしくアメリカンドリームを地でゆく出来事だった。
ほぼ時を同じくして、日給二ドルの水道配管工の少年がセミプロチームと投手兼捕手として一試合二十ドルの契約を結び、夢への第一歩を踏み出した。十二人兄弟の九番目という典型的な貧乏人の子沢山家庭に育ったドイツ移民の倅にとって一試合二十ドルの報酬は、夢のような大金だった。
一年後の一九〇六年には2A、そして一九〇七年にはシカゴ・カブスに昇格し、新人ながらワールドシリーズの舞台まで踏んだ幸運児がヘイニー・ジマーマンである。
マービン・ハートとヘイニー・ジマーマンはともに水道配管工あがりというだけでなく、アスリートとして頂点を極めたにもかかわらず、今日ではその影が薄いという共通点がある。
ハートの場合は王座に就いていた期間が七ヶ月と短かったことと、同郷からムハマッド・アリという史上最強のヘビー級ボクサーが現れたことによって存在価値が薄れてしまったが、ジマーマンの場合は球史に永久に名を残す三冠王に輝きながら、当時の集計ミスで三冠王と認められず、死後改めてナショナル・リーグ初代三冠王に認定されるという不運と、追放同然に球界を去ったことで評価を下げたのが原因である。
ジマーマンは一流メジャーリーガーであったが、その野球人生は実力だけでなくかなりツキに左右されてきた。
腕力抜群ながら守備は下手なジマーマンがカブスに昇格できたのは、ちょうど優勝争いをしていたカブスにとって少々不器用ではあっても内外野くまなく守れるため、控えとして有用だと考えられたからである。
そのため、入団から四年目の一九一〇年にはレギュラーにはなっていたが、守備位置は定着せず二塁、三塁、遊撃を均等に守っていた。とりわけ、エバース(二塁)、チャンス(三塁)、ティンカー(遊撃)と並ぶカブスの内野陣は「ダブルプレー・トリオ」と称されるメジャー最高の技術を誇り、とてもジマーマンに代役が務まるようなレベルではなかったからだ。
ところが、一九一一年はエバースが怪我により長期の戦列離脱を余儀なくされたため、ジマーマンが正二塁手となった。
これが彼にとってメジャー昇格とワールドシリーズ出場に次ぐ三度目の幸運だった。
内野のキーストーンである二塁を守りながらあまりにチョンボが多いため、監督兼三塁手のチャンスの逆鱗に触れて途中交代させられることもあったが、飛ばない球の時代にあって三割七厘、九本塁打、八十五打点、二十三盗塁というのはどのチームでもクリーンナップを張れる好成績だった。
ジマーマンのバッティングは天性のカンに依存していたといっていいだろう。とにかく打つと決めたら、頭の高さのウエストボールであろうが、捕手が後逸しそうなほど外角に外れたボール球であろうが、喰らいついてフルスイングした。パワーがあるので崩れた体勢からでも鋭いライナーを外野まで運ぶことができた。
こういう解説者泣かせのバッティングでも打率、長打力ともに球界でもトップクラスというあたりは長嶋茂雄のメジャー版とでも言うべきだろうか。ただし、ミスターと違って鈍足で守備も拙いため、チームメイトからの評価は「守備の欠点を補って余りある強打者」か「自惚れ屋の役立たず」かの二つに分かれていた。
一九一二年はエバースが二塁に復帰することになったため、ジマーマンは便利屋に逆戻りかと思われたが、すでにチャンスに代わって正三塁手を務めていたジミー・ドイルがオフに虫垂炎で急死し、ジマーマンが後釜に座ることになった。
当時のカブスの主砲は前年度、本塁打、打点の二冠王にしてMVPに選出されたフランク・シュルトだったが、シュルトの不振をよそにジマーマンは打ちまくり、三割七分二厘、十四本塁打、一〇四打点で打撃三部門を全て制したのだ。
ちなみに前年度二一本塁打のシュルトは十二本でリーグ二位だった。
ただし、この当時は集計ミスによってジマーマンの打点は九十九とされており、打点王は一〇二打点のホーナス・ワグナーが獲得しているため、三冠王としてもてはやされることはなかった。これがメジャー昇格以来、幸運に恵まれてきた彼にとっての最初の不運だった。MVP投票で六位だったのは、三冠王に届かなかったことが大きく影響していると思われる。
また、ティンカーが「自分が打った以上に拙い守備で相手チームを出塁させている」と酷評したように、お粗末な守備がマイナス評価につながった可能性も高い。三塁に定着してからというものジマーマンは三年連続リーグの失策王だった。
ジマーマンはその類まれな強打で一躍シカゴの人気者になったが、自己顕示欲が強くがさつな性格だったため、チームメイトからの受けは良くなかった。
金銭感覚も欠如しており、どれだけ稼いだかもわからず、湯水のように浪費していた。その一方で離婚した元妻と子供には養育費さえ払わず、訴訟を起こされるほどケチだった。
カブス自慢の「ダブルプレートリオ」はいずれもジマーマンのことを高く評価していなかったが、不思議なもので彼を嫌っていたチャンスがまず解雇され、次に監督になったエバースも成績不振の責任を取らされチームを去った。その間もジマーマンは主軸としてカブスでプレーし続けていたが、ティンカーが監督になった一九一六年の途中でジャイアンツに放出された。
特に不振というわけでもなかったが、ティンカーの覚えが悪かったということだろう。
このトレードはジマーマンにとっては幸いした。
下位にあえいでいたジャイアンツはジマーマンの加入を機に二十六連勝と息を吹き返した。気まぐれで乗りやすい性格のジマーマンもティンカーから解放されて気分を良くしたのか、再び力強いバッティングを取り戻し、久々の打点王に返り咲いた。
移籍の二年目の一九一七年も打撃好調で二年連続打点王を獲得したばかりか、ジャイアンツにペナントをもたらす活躍で、故郷ニューヨークに錦を飾っている。
一方、ジマーマンを放出したカブスは凋落著しく、ティンカーは一年で馘になっている。
このようにジマーマンの選手生活は、彼にとって邪魔な存在が次々と消えてゆくという不思議な幸運に恵まれてきた。
ところが、思い上がった彼の悪運も尽きるときがやってきた。
その兆候は一九一七年のホワイトソックスとのワールドシリーズから始まった。
レギュラーシーズンでは大活躍したジマーマンも、基本的にヤマ勘プレーヤーであったため、ワールドシリーズのような短期決戦になると気が乗らなかったりすると本調子にならないまま終わってしまう傾向があり、三度出場したシリーズの通算打率は1割6分〇厘でホームランも一本も打っていない。
打たないだけならまだしも、走、守に穴があるジマーマンは一九一七年のシリーズは打率1割2分〇厘に加えて三失策と足を引っ張りまくっている。
第六戦の四回表、ノーアウト二塁、三塁の場面で打者フェルシュのゴロを獲った投手のベントンが三塁に送球し、三・本間のランダウン(挟殺)プレーとなったと時のこと。この場合、三塁手のジマーマンは捕手のラリデンとキャッチボールをしながら塁間にいる走者との間合いを詰めてゆくのが常道である。
ところがジマーマンがボールを持ったまま深追いすぎたため、三塁走者のコリンズがラリデンをかわして誰もカバーに入っていない本塁目がけて疾走し始めた。慌てたジマーマンは直接タッチしようとコリンズを追いかけるも、リーグ有数の俊足ランナーに追いつくわけもなく、これが決勝点となり、ホワイトソックスがワールドチャンピオンの栄光を手にしているのだ。
もちろん悪いのはジマーマン一人というわけではないが、鈍足のジマ―マンがよたよたしながらコリンズを追いかけている姿がよほど滑稽だったのだろう。ホワイトソックスファンは大爆笑し、ジマーマンの怠慢プレーは「ワールドシリーズ史上不滅の愚行」としてマスコミから袋叩きにあった。
これが二線級の選手であれば、やがては名前ともども世間から忘れ去られていたのかもしれないが、ジマーマンは一九一〇年代きっての強打者であったがゆえに、新聞に死亡記事が掲載された時ですら、「歴史的なボーンヘッドをやった」という枕詞をつけられて紹介されたのは気の毒だった。
ツキが落ち始めたジマーマンは、一九一九年に無二の親友であるハル・チェイス一塁手(一九一六年の首位打者)と共謀してチームメイトに八百長を持ちかけていたことが発覚し、チェイスともども解雇処分となった。
二人はギャンブラーや怪しげな連中との付き合いが深かったことから組織ぐるみの八百長を疑われたが、裁判の席ではギャングからの言伝を仲介しただけだと言い張り、彼自身の八百長行為や野球賭博によって副収入を得ていた証拠も出なかったため、永久追放だけは免れた。
とはいえ球界を震撼させたブラックソックス事件の真っ只中ということもあって、誰も彼らの言い訳など信じてくれず、二人とも現役の主力選手でありながら、契約してくれる球団はなかった。
メジャーを去ったジマーマンは一時期セミプロに籍を置いた後、故郷のブロンクスで水道工に戻ったが、相変わらず裏世界の連中とは縁が切れなかったようで、一九二九年から一九三〇年にかけてはニューヨークで最も凶暴な男と言われたダッチ・シュルツのもとでもぐり酒場を経営していた。
シュルツもその名の通りのドイツ系で、同じブロンクス出身ということもあって意気投合したのだろう。シュルツの片棒を担いで羽振りの良かった頃は、脱税容疑で司法当局からマークされながらも証拠が挙がらず、起訴されることはなかったが、一九三五年十月二十四日に前夜刺客に狙撃されたシュルツが死亡し、後ろ盾を失うと、またしてもどん底に突き落とされた。
結局また堅気に戻ったジマーマンは、晩年は建築会社の蒸気管取り付け作業に従事していたという。
メジャーリーグでの輝かしい日々は、ルイビルの少年配管工が見た白日夢だったのだろうか。
生涯成績‘295 58本塁打 801打点 1566安打
ジマーマンはほぼ例年二桁盗塁を記録していることから、数字だけ見れば俊足と勘違いしそうだが、キャリアハイの24盗塁を決めた一九一七年は失敗も20あるし、18盗塁に成功しながら失敗が19回という年度もあり、この程度の成功率なら走る必要はないように思われる。彼のことだから、盗塁も気まぐれで、自分の判断で暴走したあげくにチャンスをつぶしたことも多々あったに違いない。




