「退屈な女」と婚約破棄された宮廷薬師の処方記録を読んだ辺境伯が、求婚してきました
「君との婚約は破棄する。退屈な女に用はない」
王太子レオナルドの声が、春の謁見の間に響いた。
周囲の貴族たちが息を呑む中、宮廷薬師リーシェ・ヴァルトシュタインは、その言葉を聞いても顔色ひとつ変えなかった。
変えなかったのは、驚かなかったからだ。
(ああ、やっぱり今日だった)
三日前からレオナルドの側近が妙にそわそわしていた。昨日はリーシェの私室から荷物を移動する指示が出た。今朝、リーシェが立つはずだった王太子の隣には、伯爵令嬢ミレーヌ・フォーゲルが赤毛を揺らして微笑んでいた。
全部、答え合わせだった。
「何か言うことはないのか?」
レオナルドが眉をひそめた。
「……承知いたしました」
「それだけか? 三年も婚約していたのだぞ」
「はい。殿下のご決断ですので」
(三年間。千と九十五日。あなたの持病の薬を一日も休まず調合し続けた日々を、『退屈』の一言で片づけるなら——それはご自由に)
ミレーヌがレオナルドの腕に寄り添った。
「まあ、泣きもしないのね。やっぱり冷たい方」
リーシェは何も言わなかった。言ったところで、この人たちには伝わらない。
静かに一礼して、背筋を伸ばしたまま謁見の間を出た。
(振り返ったら足が止まる。止まったら余計なことを言ってしまう。「明後日から薬の配合を秋向けに変える予定だったんです」とか。——もう言う必要はないのだけど)
廊下に出ると、春の風が頬を撫でた。中庭の薬草園に、桜に似た白い花が散っている。三年間、夜明け前に起きて毎日手入れしてきた薬草園。
涙は出なかった。
泣けなかった、が正しい。処方箋のインクは水に弱い。千日分の記録を書き続けた指が、涙を許さなかった。手が濡れれば配合を間違える。だから薬師は泣かない。それだけのことだった。
レオナルドには幼少期から慢性的な魔力失調という持病があった。放置すれば発作を起こし、最悪の場合、魔力暴走で命に関わる。それを抑えるには、体調の微かな変化を読み取り、毎日配合を調整した薬を投与し続ける必要がある。
リーシェだけが持つ特殊な才能——「魔力の波動を肌で感じ取る」力によって、それは可能だった。季節、天候、食事、睡眠。すべてに応じて一日三回の処方を変える。教科書に載らない、経験と直感の調合術。
でもレオナルドはそれを知らない。毎朝出される薬を「またこの苦い茶か」と顔をしかめるだけだった。
(説明しなかった私が悪いのかもしれない。でも、薬師は結果で語る仕事だから)
調合室に戻ると、三年分の処方記録が棚に並んでいた。革表紙のノートが十二冊。千と九十五日の記録。一日も欠かさず、天候も気温も体調の変化もすべて書き留めた。
リーシェはノートを一冊ずつ確認し、丁寧に革紐で束ねた。
「リーシェ様……!」
侍女のマリーが泣き腫らした目で駆け込んできた。
「大丈夫よ、マリー」
「大丈夫なわけないです!」
「しっ。聞こえるわよ」
リーシェはマリーの背中をぽんぽんと叩いた。
「調合ノートは引き継ぎ用に置いていくわ。後任の方が困らないように、使用頻度の高い処方には付箋をつけておいた」
「そういう問題じゃ……」
「殿下の薬は今日の分まで調合済み。三日分の予備も冷蔵庫にある。明日からの分は——」
本来なら引き継ぎをすべきだ。でも。
(私がいなくても大丈夫、って思ってるんでしょう? なら、そうしてあげるのが最後の処方箋)
「……後任の方にお任せするわ」
窓の外で白い花びらが風に舞った。リーシェは最後にもう一度だけ調合室を見回した。磨き上げた器具。整理された薬棚。窓辺の鉢植えのラベンダー。
全部、置いていく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
実家のヴァルトシュタイン子爵領に戻って三日目、リーシェは裏庭で薬草の手入れをしていた。
正確に言うと、飼い猫のルウに処方箋を書いていた。
「ルウ、右前脚の関節がほんの少し腫れてるわ。湿度が高い日に悪化するタイプね。ラベンダーオイルを三滴、関節に——」
猫はそっぽを向いて欠伸をした。
「……記録しておきます」
処方ノートの新しいページに『患者名:ルウ(猫・雄・推定七歳)』と几帳面に書き込んでから、リーシェは自分で笑ってしまった。王宮を追い出されて三日で猫相手に処方記録を始める元宮廷薬師。
(やめられないのよ、この仕事。相手が人でも猫でも、体調が目に入ったら記録せずにはいられない)
父には「少し休みなさい」と言われたが、手が勝手に薬草を刈り、鼻が勝手に品質を嗅ぎ分けてしまう。職業病は三日では治らない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リーシェが王宮を去って五日後。
隣国ヴェルデン公爵領から、若き辺境伯ディートリヒ・ヴェルデンが外交視察のため王宮を訪れていた。銀灰色の瞳に銀髪。二十六歳にして辺境伯位を継ぎ、三年で荒廃した領地を立て直した実務家として知られる。
外交晩餐会で給仕が薬草茶を運んできた。ディートリヒはそれを一口飲み、カップを置いた。
「変わったな」
半年前、同じ王宮の外交会議で出された薬草茶は、違った。一口で長年の頭の芯の疲れがすうっと引いていく——作り手の「楽にしたい」という意志が、味に宿っていた。
「この薬草茶の調合師が替わりましたか」
隣席の侍従官が気まずそうに答えた。
「先日、宮廷薬師のリーシェ様が……その、お辞めになりまして」
「辞めた?」
「王太子殿下との婚約が解消され——」
ディートリヒの指が、一瞬だけカップの縁を強く掴んだ。
翌朝、外交日程に「王宮薬事施設の視察」を追加した。
案内された調合室は美しく整えられていたが、どこか抜け殻だった。新しい薬師は棚の配置さえ把握できていない。
棚の隅に、革紐で束ねられたノートの束。付箋だらけの革表紙。
「これは?」
「前任者の引き継ぎ資料です。正直、内容が高度すぎて解読に時間が……」
「拝見してよろしいですか。領地の薬事改善の参考に」
ディートリヒはノートを開いた。
一ページ目で、息が止まった。
日付、気温、湿度。脈拍の微細な変化。前日の食事と睡眠。小数点第二位まで記された配合比。緻密さは学術論文を超えていた。
だが、目を引いたのは数値ではなかった。
余白の、小さな文字。
『殿下、今日は少しお顔の色が良い。先週の配合が効いているのかもしれない。嬉しい。』
次のページにも。
『季節の変わり目。秋は殿下の魔力が不安定になる。苦い薬が嫌いだから、少しだけ甘味を足しておこう。』
さらに。
『殿下が「最近よく眠れる」と仰った。たった一言だったけれど、三ヶ月かけて調整した甲斐があった。』
千日分のノートの、ほぼすべてのページに。数値の隣に、患者を想う言葉が静かに刻まれていた。
ディートリヒは無言でページをめくり続けた。途中から指が震えていることに、本人は気づかなかった。
最後の一冊。最後のページ。
『今日で千と九十五日目。明日で最後になる。殿下がこれからも健やかでありますように。——ただ、一度だけでいいから。この薬が美味しいと、言ってほしかった。』
ディートリヒは静かにノートを閉じた。
「このノートの写しを取らせていただくことは可能ですか」
「写しであれば外交案件として……」
「ありがとうございます。——事実として報告しますが、このノートは、私がこれまで読んだいかなる文書より価値がある」
案内の侍従は、辺境伯が何を言っているのか理解できなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リーシェが実家に戻って十二日目。
裏庭で薬草の手入れをしていたら、見慣れない紋章の馬車が正門に止まった。
泥だらけのエプロンのまま応接間に呼ばれ、銀灰色の瞳の青年と対面した。長身。銀髪を後ろに流した端正な顔立ち。——目の下に薄い隈。
(この人、慢性的な睡眠障害がある。魔力過多による脳の過覚醒——おそらく幼少期からの体質。肝臓の代謝効率も標準より低い。ラベンダーとカモミールの配合比を変えれば——)
薬師の目が勝手に走り出す。三日前にルウ相手にやったのと同じことを、今度は辺境伯相手に。
「あの……突然で申し訳ないのですが、最近ちゃんと眠れていますか?」
会って二言目がそれだった。父が目を剥いている。
ディートリヒは目を見開いた後、ゆっくりと笑った。
「……事実として、全く眠れていません」
「やっぱり。あと、肝臓もお疲れですね。お酒はほどほどに」
「飲みません。公務が原因です」
「記録しておきます」
リーシェが無意識にエプロンのポケットからノートを取り出しかけて、はっと手を止めた。初対面の辺境伯に処方記録を書くところだった。
ディートリヒは目を細めた。——嬉しそうに。
「やはり、あなただ」
「……はい?」
「半年前の外交会議で、あなたが調合した薬草茶を頂きました。一口で体の芯から力が抜けた。作り手が相手の身体のことを本気で考えていると分かる味でした」
「あの時の茶、お口に合いましたか」
「合いました。あれ以来、あの茶を探して——先日の外交訪問で調合師が替わったことを知りました」
ディートリヒは姿勢を正した。
「それから、あなたの処方記録を読みました」
リーシェの表情が凍った。
「え——あのノートを?」
「はい。千日分、すべて」
「ぜ、全部……?」
顔が一気に赤くなった。あのノートには、処方記録だけでなく、レオナルドへの——今思えば恥ずかしすぎる——私的なメモが山ほど書いてある。「殿下の寝癖が可愛かった」とか「今日は目が合った気がする」とか。
「あ、あの、余白のメモは本当に無視してください! あれは独り言で——」
「無視できません」
静かだが、揺るぎのない声だった。
「リーシェ嬢。率直に申し上げます」
ディートリヒが立ち上がり、リーシェの前に片膝をついた。父が椅子から転げ落ちそうになっている。
「あなたの技術と、あなたという人間を、僕に預けてくれませんか。ヴェルデン領の宮廷薬師として——いえ」
銀灰色の瞳が、真っ直ぐにリーシェを射抜いた。
「僕の伴侶として、隣に来てほしい」
「あ、あの。お会いしたの今日が初めてなんですけど」
「ノートを千日分読みました。あなたのことは、誰より知っています。事実です」
「それは知り方がおかしいと思います!」
ディートリヒは困ったように眉を下げた。
「自覚はあります。ただ——あなたの調合を味わい、記録を読み、初対面で僕の体調を心配してくれた。その全部が、僕の答えです」
「…………」
「急がせません。まずは薬師として来ていただくだけで構いません。調合室も薬草園も、設備はすべて用意します」
リーシェは泥だらけの手を見つめた。
「迷惑じゃ、ないんですか。私は王太子に捨てられた——」
「迷惑?」
ディートリヒは小さく笑った。
「あなたを手放した国の方が、これから迷惑を被ると思いますが」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その予言は、恐ろしい精度で的中した。
リーシェが去って一ヶ月。レオナルドの慢性魔力失調が再発した。
後任の薬師はノートを元に薬を調合したが、「魔力の波動を肌で感じ取り、リアルタイムで配合を微調整する」技術は、読んで真似できるものではなかった。
「なぜ効かないのだ! 同じ処方だろう!」
レオナルドの怒号が王宮に響いた。
だが、始まりに過ぎなかった。
リーシェが王宮中に振る舞っていた薬草茶には、流行病を予防する成分が配合されていた。茶が変わった途端、宮廷内で体調不良者が続出。社交シーズン中に主要な貴族が次々と倒れ、外交日程は延期に追い込まれた。
ミレーヌはレオナルドの体調悪化を見て、みるみる態度を変えた。
「いつ治るの? 来月の夜会にはエスコートしてくれるんでしょう?」
華やかな令嬢は、健康な王太子のアクセサリーでいたかっただけだ。半年後、ミレーヌの実家が婚約破談を申し入れた。
国中の薬師を集めたが、リーシェの調合を再現できる者は誰一人いなかった。
プライドを捨て、ヴァルトシュタイン子爵領に使者を送った。「リーシェに戻ってきてほしい」。
子爵の返答は簡潔だった。
「娘はすでにヴェルデン公爵領に参りました。辺境伯ディートリヒ殿と正式に婚約いたしましたので」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴェルデン公爵領の調合室は、リーシェの夢そのものだった。
大きな窓から朝の光。窓の外には丘陵いっぱいに広がる薬草園。北方の冷涼な気候が育む薬草は質が格段に高い。最新の器具、壁一面の薬棚、研究文献の書架。
「やりすぎよ……」
「足りないものがあれば報告してくれ。すぐ手配する」
「だからやりすぎだって——」
「事実として、これでも足りないと思っている」
ディートリヒはリーシェの怒った顔を見て嬉しそうに目を細めた。
毎朝、調合室で茶を淹れる。ディートリヒの体調を読み取り、最適なブレンドを選ぶ。
「リーシェ、朝の茶を」
「はいはい。ローズマリーとカモミール。昨夜遅くまで書類を読んでいたでしょう、目の奥の血管が拡張してる」
「……見ただけで分かるのか」
「薬師ですもの」
差し出す茶を、ディートリヒは毎朝受け取る。一口飲んで、目を閉じる。
「美味い」
千日間、一度も聞けなかった言葉を。この人は毎朝くれる。
「ねえ、そんなに美味しい?」
「世界中のどんな名酒より、君の朝の一杯のほうが贅沢だ。事実だ」
「大げさね」
「事実に大小はない」
(この人はいつも「事実だ」って言う。数値を積み上げるように、一つずつ。だから信じてしまう)
睡眠障害の治療は順調だった。三ヶ月かけて体質に合った処方を見つけ、ディートリヒの不眠は劇的に改善した。
「最近、朝が楽だ。頭が軽い」
「でしょう? あと少し微調整すれば、もっと深く眠れるようになるわ」
「……君がいない朝は、もう考えられないな」
「それは薬への依存であって——」
「薬じゃなく、君にだ。これも事実」
リーシェは赤くなって調合台に向き直った。
ある夕暮れ。調合室の片づけをしていたら、ディートリヒが静かに入ってきた。
「リーシェ」
「ん?」
「報告がある」
振り返ると、ディートリヒが一冊のノートを差し出した。見覚えのある革表紙——あの処方記録の写しだ。
「読んでくれ」
「え? 自分のノートの写しを?」
「開けば分かる」
怪訝に思いながらページを開いて、リーシェの指が止まった。
処方記録の余白に、見知らぬ筆跡があった。
リーシェが書いた『殿下、今日は少しお顔の色が良い。嬉しい。』の横に——
『この日、君は嬉しかったのか。僕はこの報告が一番好きだ。——D』
次のページ。リーシェの『苦い薬が嫌いだから、少しだけ甘味を足しておこう。』の横に——
『僕なら苦くても全部飲む。君が淹れたものなら。——D』
さらに。リーシェの『三ヶ月かけて調整した甲斐があった。』の横に——
『三ヶ月。九十日以上、毎日考え続けたということだ。それを「甲斐があった」の一言で済ませる君が、たまらなく好きだ。——D』
千日分の全ページに。リーシェの言葉のひとつひとつに、ディートリヒが返事を書いていた。
「……っ、なにこれ」
「写しを取ったんじゃない。君に手紙を書いた」
リーシェの視界が滲んだ。
「千日分の余白に、全部返事を?」
「ああ。——あのノートに書かれていたのは、処方箋じゃない」
夕日が窓から差し込み、ディートリヒの銀髪を琥珀色に染めている。
「千日分の『大丈夫ですか』に、誰も『ありがとう』と言わなかった。だから僕が、全部に返事を書いた」
王宮を去る日には出なかった涙が、ぽろぽろとこぼれた。処方箋はもう書いていない。インクが滲む心配はない。だから、ようやく泣けた。
「っ……三年間、誰にも言えなかったの。毎日夜明け前に起きて、一生懸命調合して。でもレオナルドは一度も——」
「知っている。全部読んだから。全部に返事を書いたから」
「——一度も、ありがとうって……」
「ああ。だから僕が言う」
ディートリヒがリーシェの額にそっと唇を落とした。
「ありがとう、リーシェ。千日分の全部に。——そしてこれからの千日も、その先も、僕に君の薬を飲ませてくれ」
リーシェは泣きながら、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「……ばか。患者のくせに偉そうね」
「患者じゃない。夫になる。——事実だ」
「……うん」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
婚礼の日。白い薬草の花を束ねたブーケを手に、リーシェは祭壇の前のディートリヒを見上げた。
「緊張してる?」
「少し。——今朝の茶は飲んだか?」
「飲みましたよ。花嫁の朝に調合室にいる花嫁は私くらいでしょうけど」
「僕はそういう花嫁がいい。事実だ」
(もう、この人は)
誓いの言葉を交わし、リーシェは辺境伯夫人となった。
退屈だと捨てられた薬師の千日は、終わった。
明日の朝も、リーシェは調合室に立つ。夫のために、世界で一番贅沢な一杯を淹れるために。
——窓の外では、北方の遅い春が、薬草園の丘をゆっくりと白く染め始めていた。
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