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その日の夕方には、王子の机に予想通り……いや、予想を上回る量の紙が積み上がっていた。ウィルは、椅子に座り直して、小さく息を吸った。
(俺は王子だ。王子なら、ちゃんと書かないといけない。好きって伝えないといけない)
紙を一枚、机の中央に置き、羽根ペンをインクに浸す。一文字目を慎重に書いた。
――ウ。
少し曲がったが、まだ読める。次に、「ィ」。最後に「ル」。ゆっくりゆっくり、止まったり震えたりしながら、それでも何とか、自分の名前を書き終えた。
「……ふう」
名前を書くだけで、少し疲れた。
これを何枚も書くのだと思うと、少しだけ心細くなったが、それでもペンを置く気にはなれない。だって、今やめてしまったら、鳥たちの議会に間に合わない。
日が沈み、空が青から紺に変わっていく。
部屋には、燭台の炎がひとつ、またひとつと増えていく。女官たちは暖炉に薪を足し、温かいミルクを置いていったが、ウィルは手紙から目を離さなかった。
やがて小さな身体に、少しずつ眠気がまとわりつきはじめる。まぶたが重くなり、字が二重に見える。ペン先が紙から滑り落ちて、机をひっかく音がした。
「……ウィル」
不意に名前を呼ばれて、ウィルは顔を上げた。
部屋の入り口に、姉のキャロルが立っていた。キャロルは八歳の第一王女で、ウィルより少し背が高い。まだまだ子どもなのに、時々、ふと大人びた顔をする。今も、そんな顔をしていた。
「どうしたの? キャロル」
「どうしたの、じゃないわよ。こんな時間まで、何してるの?」
キャロルは部屋に入ってきて、紙の山を見た。
「……これは、なに?」
「手紙」
「見れば分かるわ」
即座に返されて、ウィルは少しだけ肩をすくめた。キャロルのハキハキした物言いは、時々、羽根ペンより鋭い。
「鳥たちの議会の宴があるんだって。好きな人に手紙あげる日なんだよ」
「ああ、あれね。……それで、ウィルは、誰に書いてるの?」
「みんな」
「……みんな?」
「この国のひと。俺に優しくしてくれた人、全部」
ウィルは、少し誇らしげに胸を張った。キャロルは黙って紙の山を見下ろす。羊皮紙の束は、すでにそこそこの厚みになっている。脇にある未使用の紙の山も、まだかなり高さがあった。
「……ウィル。この国の人みんなに書くなんて、とても無理よ。もう夜だし、目も赤いわ。少し休んだら?」
「でも、書かないと。宴の日までに、全部は間に合わないかもしれないけど、書けるだけ、書きたい」
キャロルは小さく息をつき、机に歩み寄った。そっと一枚、書きあがった手紙を手に取る。
そこには、太くて不揃いな文字で、「いつも はなを きれいにしてくれて ありがと う」と書かれていた。途中で一度ペンを離したのだろう、「う」だけが妙に離れている。そして、その下には、何かの絵が描かれていた。丸が三つ重なり、その上に線がいくつも伸びている。鳥か、花か、ウィル自身か……。描いた本人にしか分からない物体だ。
けれど、そこから滲んでくるものは、『ありがとう』と『大好きだよ』だ。キャロルは、思わず笑みをこぼした。
「……とても、いい手紙ね」
「ほんと?」
「ええ。字は、まだまだ練習が必要だけれど」
「う」
「う、じゃないわよ」
口ではそう言いながら、キャロルは手紙を元の場所に戻した。紙の端に、弟の指の跡だろう、うっすらとインクがついている。真剣に、何度も書き直そうとした跡だ。自分の弟が、この小さな国ぜんぶに「好き」を配ろうとしているのだと思うと、呆れるより先に、どうしようもなく愛おしくなる。
「ねえ、ウィル」
「なに?」
ウィルが顔を上げる。眠気で赤くなった目が、素直に姉を見つめる。
「その『みんな』の中に、お姉さまは入ってるのかしら?」
わざとらしく首をかしげてみせると、ウィルはきょとんとした。問いの意味を、いまいち理解していない顔だ。
「キャロル?」
「そう。王女、キャロル・リーゼルト。いつもウィルのお皿から甘いものをひとつ盗んでいく、お姉さまよ」
「盗んでないだろ。あれは、俺があげてるんだ」
「まあ、そうだったかしら。……それで? お姉さまには、好きの手紙、くれる?」
少しだけ身を乗り出して尋ねると、ウィルは少し唇をかんで、それから、照れくさそうに笑った。
「それは……」
「それは?」
「内緒だよっ」
机の上の、まだ封をしていない一枚に、そっと手を重ねた。キャロルの視線は、その動きに吸い寄せられる。封筒の表には、幼い字で「きゃろる」と書かれていた。キャロルは、それを見ないふりをした。見ないふりをするのは、姉として、覚えなければならない技のひとつだ。
「そう。じゃあ、お姉さまは、宴の日まで、楽しみにしていてもいいのかしら?」
「うん」
ウィルは、こくりと頷いた。頷いた拍子に、眠気がぶり返し、頭がぐらりと揺れる。
「でも、その前にね、ウィル」
「なに……?」
「あなたが先に、机の上で寝てしまったら、鳥たちに笑われるわよ」
「……鳥は、笑わないだろ」
「笑うのよ。森のてっぺんの、いちばん高い枝でね。『あの王子さま、手紙を書いてる途中で、顔から机に倒れ込んでたよ』って」
「……じゃあ、ちょっとだけ、休む」
「ちょっとじゃなくて、今夜はもう、おしまい」
キャロルは、ウィルの背中を押して寝室へ連れていく。部屋を出ていく前にふと振り返ると、机の上に積まれた紙の山が、月光に照らされていた。この小さな国の人々に、六歳の王子が配ろうとしている、拙くてまっすぐな愛情の数だけ、手紙がある。
キャロルは、その光景を胸に刻みつけるように、一度だけ長く見つめて、部屋を出ていった。
鳥たちの議会の宴まで、あと少し。
湖と森に囲まれた小さな国で。小さな王子は夢の中でも、どの順番で「好き」を届けようかと、考えているに違いなかった。




