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リーゼルト王国は、小さい国だった。
地図に描こうとすれば、ちょん、と点を打つだけで足りてしまう。指を置けば隠れてしまうほどの広さなのに、湖は季節ごとに煌めきを変え、森の木々も葉を茂らせ、自然の豊かな国だった。
そんな小国の真ん中に、こぢんまりとした城が建っていた。尖った塔は一本だけ。高い城壁もなければ、敵に備えた武器庫もない。代わりに、掃き清められた中庭と、湖へ向かって開いた小さなバルコニーがある。
そして、その城に暮らしているのが、この国の王子、六歳のウィル・リーゼルトだ。
ウィル・リーゼルトは、その朝も、机に向かっていた。柔らかい銀色の髪が、朝日を受けてきらりと光っている。まだ幼い指先で羽根ペンを握りしめ、紙に向かいながら、唇をきゅっと結んでいる。
「……んー……」
紙の上で止まった文字を、ウィルはじっと睨みつける。自分で書いたはずの一文字が、途中から別の生き物に変わってしまったような形になっていた。どこからどう見ても「ウ」ではない。かといって、何か別の文字に見えるわけでもない。
俺の字、下手だなあ、と心の中で小さく溜め息をついた、そのとき。
「ウィル王子、髪を梳かさせてくださいませね」
軽やかな声と一緒に、部屋の扉が開いた。入ってきたのは、ウィル付きの女官のひとりだった。手には櫛と、柔らかな布がのせてあった。
「おはよう」
「おはようございます、ウィル王子。今日も、お勉強ですか?」
「うん。字の練習、してたんだ」
ウィルは、机の上の紙をちらりと見下ろした。自分の名前を書こうとしていた痕跡が、あちこちで曲がったり跳ねたりしている。見られるのは少し恥ずかしくて、紙の端をそっと手で覆った。
女官は、ウィルの様子を微笑ましそうに見やってから、髪に櫛を通した。細い歯が髪の間を滑るたび、こそばゆい感触が頭皮をかすめていく。
――くすぐったくて、気持ちいい。
ウィルは機嫌のいい猫みたいに、思わず目を細めた。
毎朝こうして髪を整えてくれる女官をはじめ、ウィルのまわりには、世話を焼いてくれる人たちがたくさんいる。寒い日には侍従が首にマフラーを巻いてくれるし、庭で転んだときには、兵士がすぐに駆け寄って抱き起こしてくれた。
城の外でも、ウィルはたくさん可愛がられた。町に出れば、パン屋の娘が、焼きたてのパンをひとつ多く袋に入れてくれるし、井戸端の女たちは、頬に触れては「少し見ないうちに大きくなったね」と笑う。
城の人たちも、町の人たちも。この小さな国の人たちはみんな優しくて、大好きだ。
ウィルは、ぼんやりとそんなことを考えていた。すると、女官が、唐突に何かを思い出したように、声を弾ませた。
「そういえば、王子に、お知らせがございました」
櫛が止まる。女官は、わざとらしく咳払いをしてみせた。何か楽しい話が始まるときの前触れだとウィルは知っている。
「今度、鳥たちの議会の宴会が開かれます」
「……鳥たちの、ぎかい?」
聞き慣れない言葉に、ウィルは首を傾げた。
鳥は知っている。外にたくさんいるし、朝になると、いろんな声で歌っている。それから議会というのは、偉い人たちが難しい顔をして集まる場だと、父王から聞いたことがある。
鳥と議会。そして宴会。どれも知っているのに、並べられると、少し不思議だ。
「鳥って、話し合いとか、するの?」
「森の奥では、しているかもしれませんよ?」
女官はくすりと笑ってから続ける。
「昔々、この国の森には、とても賢い鳥たちがいて、春の前になるとみんなで集まって、大切な話し合いをしたのだそうです。誰と寄り添うか、誰の歌に応えるか、そして誰と巣を作るか。だから人間たちも真似をしたのです。春が来る前に、大事な気持ちを、伝えたい相手に渡す日を決めました」
「だいじなきもち?」
「ええ。好きな人に、『好きですよ』と伝える日です。家族でも、友だちでも、いつも優しくしてくださる方でも。胸の中で大事にしている思いを、手紙に書いて、宴の席でお渡しするのです」
好きな人に手紙。椅子の上で、ウィルはくるりと振り返る。瞳がきらきらと光っていた。
「好きな人に手紙、いいな。俺、書きたい」
「ウィル王子は、どなたに、お書きになるのですか?」
女官は微笑ましそうに問いかけた。六歳の王子が「好き」と言うとき、その相手は大抵、家族や友達、城で顔を合わせる娘達あたりだろうと、彼女は思っていた。しかしウィルは迷いなく答えた。
「みんな」
「……みんな?」
「うん。この国の人、全部」
あまりに自然に告げられたので、女官は一瞬、言葉が出てこなかった。ウィルは、椅子の上で背筋を伸ばしたまま、真面目な顔で続ける。
「だって、みんな俺に優しいから。兵士は遊んでくれるし、門番もいつも笑ってくれる。お菓子屋さんは飴くれるし、料理長は美味しいごはん作ってくれる。侍女たちも、服着せてくれて、髪も綺麗にしてくれる。それから………」
言葉を重ねていく間に、ウィルの胸の中で、好きな人たちの顔が次々に浮かんでは並びはじめる。数えあげているうちに、自分がどれだけ多くの「好き」に囲まれているのか、改めて思い知らされて、胸のあたりが温かくなった。
「だから、みんなに書きたい。ちゃんと好きって伝えたいんだ」
六歳の王子は、本気だった。女官は、思わず笑みながらも、少しだけ困ったように首をかしげる。
「この国の全員と申しますと、なかなかの人数でございますよ?」
「うん」
「手紙を書くのは、とても素敵なことですけれど……」
「いっぱい、書く」
ウィルは、きっぱりと言い切った。小さく胸を張る仕草がいっそう愛らしくて、女官は思わず頬をゆるめた。
「……分かりました。書きやすい紙と素敵な封筒を、たくさんご用意いたしますね」
たくさん、という言葉に、女官は少しだけ力をこめた。本当に国じゅうの人みんなに書き出したら、宴の日までにとても間に合わない。下手をすると、来年の鳥たちの議会まで、ずっと書き続ける羽目になる。
けれど、ウィルは「たくさん」という響きに、目を輝かせたのだった。




