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怪奇箱  作者: にとろ


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自然にさえも拒否される

 火村さんがまだブラック企業に勤めていた頃の話だ。当時はブラック企業と言う言葉さえ無かったが、終電が続き、かつ給与は安く、うんざりとしていた。確かにその会社を選んだのは自分だし、それを誰かに文句を言うべきではないのかもしれない。ただ、それでも嫌なものは嫌だった。


 ある日、ちょっとしたミスからアルミ製の灰皿が飛んできた。それで怪我をしたのだが、病院に行く時に当然のように労災ではなく通常の健康保険を使わされた。この時点で何かが切れてしまい、その日アパートに帰ると、必要な荷物をまとめて富士山に向かった。富士山を選んだ理由はあまりない。別に樹海で死のうなんて思っていない。ただ上の方に上って運が良ければ何かの拍子に崖などで死ぬのではないだろうかと思う程度には病んでいた。


 そうして富士山まで車を走らせた。車には趣味の登山道具が載っていたが、富士山頂までのぼれるかどうかはかなり怪しい。ただ、それでも良いのでとにかく現実から離れたかった。


 そのために車を走らせていたのだが、なにぶん当時はカーナビがなかった。それでも富士山の大きさと有名さを考えると迷うはずがなかった。雑に富士山を登ろうと、そちらに向けて車を走らせていると、いつの間にか富士山が消えた。前方に見えていたはずなのにどうして……そう思ってバックミラーに視線をやると、背後の遠くに富士山が見えた。いつの間に通り過ぎた? あんな大きなものを見過ごして通り過ぎるなんて事があるのか? 疑問を並べるとキリがなさそうだったが、気を取り直して車を反転させて再びアクセルを踏み込んだ。しばし進むと今度は富士山が横に見えるようになっていた。


 意味が分からないことに巻き込まれていることだけは分かったが、それから何度か車の向きを変えて富士山の方へ向かった。何故か日は沈まないし、時計も車で走らせた時間で計算通りだ。つまり自分が明後日の方向に車を走らせていたことになる。しかしそうなると通り過ぎるほど走るにはかなりのスピードを出さなければならない。果たしてそんなことが可能だろうか?


 夕焼けが見えてきた頃、車が勢いを急に弱めて止まってしまった。見れば燃料が無くなっている。そこで自分が一日中車を走らせていたことを思い出した。なにもかもがおかしいし、仕方ないのでひとまずロードサービスを呼んでガソリンを入れてもらった。そして支払っている時に太陽が完全に沈んでしまったので、近くのコインパーキングに車を止め、車中で一夜を明かした。


 翌日、何故か早々に目が覚めて、富士山の方を見ると、朝日が昇っていることに気が付いた。なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなり、アパートに帰って辞職する旨を伝えようとすると無断欠勤でクビになっていた。あんなところと争う気にもなれなかったし、そのままクビを受け入れて、さっさと次の仕事を探した。


 運良くすぐに就職先が見つかり、今ではまともな暮らしが出来ている。


『とまあこれが一連の出来事なんですが、私に何があったんでしょうね?』


 それは私にも分からない。ただ……


『やはり自然が死ぬべきではないと伝えたかったんじゃないでしょうか』


 そう言うと彼は一応納得し、謝礼を懐に収めてくれた。彼は伝票を持っておもむろに店を出ていった。彼の背後になんだか後光のようなものが見えたような気がしたのだが、もしも彼が何かに守られているのだとしたら始めからブラック企業に入ったりしないだろう。世の中というのはなんとも分からないものである。

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