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蓮池の鞠と鬼の角

作者: まぐろ

 第一章 蓮の池に落ちた未来

 ――帝暦1292年春。

 瑞京 近衛兵舎、朝刻。

「ったく……なんで俺がこんな日に限って広場当番なんだか」

 和久井景虎わくい かげとらは、束ねた髪を結い直しながら、鏡代わりの水盤に映る自分の顔を睨んだ。寝癖の名残を手櫛で整え、折り目正しく畳まれた近衛兵の制服に袖を通す。

「おまえ、ほんと運ないな。今日は“あれ”の日だろ?」

 横でベルトを締めながら、同期の守屋光継もりや みつつぐが笑う。

「蹴鞠の儀……だったか? 皇女殿下の婚姻相手を、鞠拾いで決めるってやつ」

「そんな御伽噺みたいな儀式、歴史の授業で習った記憶が微かにあるだけだぞ? 今帝暦何年だと思ってるんだか。しかもあの男嫌い紫苑しおん姫ときたもんだ、だれも鞠を拾いたがらないんじゃないか?」

 景虎は肩をすくめながらも、どこか他人事のように聞いていた。

「おまえのとこ、鴫原しぎはら家だっけ? 太守の甥だろ。参加しときゃ良かったんじゃないか? 母君も泉河家なら、それなりの血筋だし」

「はは、冗談。あんな華やかな場に興味はないさ。血筋があっても家柄は“本流”じゃないしな」

 景虎は剣帯を締めながら小さく息を吐いた。

「それに俺、出世とか興味ないんだよ。ある程度蓄えて、旅に出るのが夢でさ」

「すっかり世捨て人だなあ……。俺なんか殿上人に取り入って、出世街道まっしぐら狙ってるぜ?」

 二人の笑い声が寮の廊下に小さく響く。その背に、春の陽が差し込んだ。



 広場は、都の中心に位置する「鳳凰広苑」。

 すでに飾り付けが施され、紅白の幕、雅楽の音が賑やかに響く。

 景虎は警備当番として、広場の東端――蓮の池のそばに配置された。

「人、多いな……さすが皇女の婚儀」

 彼の目に映るのは、絢爛豪華な衣を纏った男たち。どれも名のある家の嫡男たちであり、彼らの背後には、名代の家臣団や家人が控えている。

 その中にあって、濃藍の制服を着た近衛兵の姿は異質だった。

「これひょっとして後世への資料として絵巻に残るのかな?」

 そうつぶやきながら、景虎は配備位置に黙って立った。ひょっとして絵巻の登場人物になるかもしれないという緊張感を抱きながら。

 同刻――

 瑞京・内裏、観覧台の奥。

 皇女・紫苑しおんは、白梅を描いた淡紫の衣をまとい、檜香る控え室で静かに座していた。

「……何度も練習したから大丈夫」

 彼女は細い指で膝上の小さな鞠を撫でた。高級な生地に金刺繍が施された儀式用の鞠。

 それを、広場の東にある池に向かって蹴り込む。それが計画だった。

「こんな素敵な鞠を蓮の池に蹴り込むのは気が引けるけれど、蓮の池に落ちた鞠は拾えない。それで、誰も婚約者にならずに済むのなら」

 小さく呟き、彼女は立ち上がった。

 周囲には侍女や女官、そして護衛の者たち。だが紫苑は、その誰よりも静かに、そして凛とした空気を纏っている。

 見た目通りの“お姫様”ではない。自ら薬草を煎じ、書を読み、知を武器に生きてきた女性である。

「始めましょう」

 観覧台に立ち、鞠を見下ろす。

 春の光があふれる広場。煌びやかな衣の男たちが整列するなかで、ひときわ浮いた色の制服――藍の近衛兵装が、池の傍にあった。

(……失敗したらあの人が拾ってしまう?)

 わずかに視線が止まったが、すぐに紫苑は気持ちを振り払った。

 高く、強く、そしてしなやかに――彼女は鞠を蹴り出した。

 その鞠は、弧を描いて空を翔け、彼女の意図通り――蓮の池へ、ぽちゃん、と落ちた。

 誰も動かない。どの高貴な男も、池に入る者などいない。

 紫苑は心の中で小さく笑った。

(これで――)


 会場は騒然としていた、本来飛んでくるはずの鞠が遠く蓮の池に落ちたのだ。

 やり直し? それともこれで終わり? 文官たちが慌てて過去の資料を漁り前例を探している中、別の問題に直面していた。

 やり直しとなれば鞠を用意しなければならないのだが、池に落ちることを想定していなかったので鞠は1つしか用意されていないのだ。

「おい、和久井。お前、拾ってこい」

「えぇ……?!」

 景虎はしばらく躊躇したが、ざわめく群衆の方を見て決意を固めた。

「お坊ちゃん達のためか。」

 蓮の池に、ざぶざぶと踏み入る。右足を入れたが土に埋まってしまい抜けない、蓮の池とは田んぼのような泥池である。

 気合いで泥と蓮の葉をかき分けながら、ゆっくりと両手で鞠を拾い上げた。

「拾いました!」

 歓声が上がる。笙の音が再び響く。

「え?」

 紫苑の顔から、色が消えた。

 儀式を監督する文官が鞠を拾ったという合図の旗を揚げた。

 その瞬間、儀式は完了した。

 和久井景虎――その名も知らぬ近衛兵が、皇女・紫苑の婚約者となったのだった。


 第二章 鬼の角

 ――瑞京・鳳凰広苑東館 控え室。

 静けさの中、湿った空気が張り詰めていた。

 景虎は控え室の畳に膝をつき、背筋を正して座していた。

 儀式の場で泥水に濡れた制服を脱ぎ、代わりに親戚筋である青波州せいはしゅうの太守の嫡子、鴫原蒼司しぎはら そうじから借りた礼装に着替えたばかりだった。

「景虎、儀式に参加した以上は覚悟せよ。我ら鴫原の名を背負うのだ」

 着替え中に蒼司から掛けられた言葉が、今も耳に残っていた。

 それがどれほどの重みか、ここに来て改めて実感させられる。

 景虎の前には、桐葉国の中心にして最も重き存在――高峯帝と皇后・斎華が並び立っている。

 高峯帝。威厳と実力を兼ね備えた文武両道の名君と称される男で、槍術にかけては右に出る者がいないと言われている。

 装束の上からでも分かる逞しい体躯が、その評判の裏付けを示していた。

 斎華皇后はそれとは対照的に、静かに整えられた衣と品位ある所作で場の空気を支配していた。

 その瞳には冷静な理と、遠くを見通す外交官の視線が宿る。

「まずは、鞠を拾ったことに礼を言おう」

 高峯帝が口を開いた。

「本来、紫苑の縁談には考えていた者がいた。だが、数年前の流行り病で亡くなってしまった。蹴鞠の儀によりそなたと結ばれる定めであったなら、それもまた天の定め。儀式に則り、今後は正式な婚姻を……と、思うのだが」

 少し言い淀んだところで、斎華が言葉を継ぐ。

「ですが和久井殿。あなたとの婚姻を国の名の元に認めるにあたり、あなたには果たしていただかねばならぬ“証”がございます」

 景虎が姿勢を崩さぬまま、静かに頷く。

「その証とは、近海の神渡島に潜む“鬼”を退治し、その“角”を持ち帰ること」

 景虎の目がわずかに揺れた。

 紫苑も、目を見開いたまま母を見つめていた。

「……鬼退治、ですか?」

「そうです。神渡島に住み着いた異形の者どもが、近隣の村を脅かしております。畑を荒らし、家畜を盗み、人々の生活を脅かしている。

 現地の太守からの報告により、彼らは“鬼”と称され、恐れられています。交渉も通じず、武装しており討伐の機会を窺っておりました」

 斎華は一瞬も目を逸らさず、景虎を見据えた。

「それをあなたに任せます。“鬼の角”を手に入れ、持ち帰ってください。それを果たせば、この婚姻を正式に認めましょう」

「母上、それはあまりに!」

 紫苑が声を荒げる。

 斎華は娘に向き直り、淡々と言葉を重ねた。

「紫苑、これはあなたの婚姻であると同時に、国の安寧に関わる問題です。あなたの選んだ男が、それを成せる器か。

 それを確かめるための試練でもあります」

 紫苑は言葉を失い、視線を伏せた。

(こんな……想定していなかった。拾われるはずがなかったのに……。なのに、彼の命を危険に晒してしまった)

 景虎は、ふと紫苑を見やる。

 彼女の瞳に浮かぶ動揺を受け止め、静かに答えた。

「……承知しました。鬼を退治し、“角”を持ち帰ります」

 紫苑の唇がかすかに震えた。

 止めたかった。しかし、その言葉が出てこなかった。


 近衛兵舎の一室――夕刻。

 景虎は黙々と支度を整えていた。

 鎧は着けず、軽装で機動力を重視した装い。洞窟戦に備えた短槍と腰の短剣、遠距離対応の弓矢、そして煙玉。装備一式に手落ちはない。だが、心はまだ静まらなかった。

「“鬼の角”か……」

 誰にも聞こえない声で、景虎はひとり呟いた。

 角など存在しない。

 先ほど、同期の守屋光継がこっそり教えてくれた――

「鬼って呼ばれてるけどさ、本当は外国の船乗りだったんだよ。難破して神渡島に流れ着いた。中には奴隷として使われてた奴もいる。国に帰ったってまた奴隷としてこき使われるだけだから帰りたくないんだ。

 言葉も通じないし、武器もあるから、現地の人間は怯えて“鬼”って呼ぶけど、中身は人間だ」

 景虎はそれを承知している。

 だが同時に、皇后が“鬼の角を持ち帰れ”と命じた意味も、深く理解していた。

(……なるほど。皇后陛下は、姫と俺との婚姻を望んでいない)

 明確な敵意こそ見せなかったが、あの条件は実質的な破談宣告だった。

 鬼など存在せず、角も存在しない。ならば、“証”を持ち帰ることは不可能。

 つまり、命懸けで鬼退治をさせて、失敗して命を落としたらそこで終わり。成功させても角は持ち帰れないので任務は未達、手ぶらで帰れば近衛兵として切腹せざるを得ない。

(上手い……方法だ。俺に反論の余地もなく、名を汚すこともなく、排除できる)

 だが、景虎は不思議と怒りを覚えなかった。

 むしろ、その清冷な判断に心の奥で敬意すら感じていた。

(鴫原の家の名に傷をつけずに破談にできる方法は他にはなし)

 景虎は装備袋の紐を結び直した。

(この命、村人を守るために使う。生きて帰れるとは思っていない。だけど、誰かの暮らしが戻るのなら……死ぬのも悪くない)

 死地へ赴く決意は、景虎に静かな覚悟を与えた。

 冗談のように始まった婚姻が、自らの人生の終着点になるのなら――それもまた、道である。

「景虎、お前……」

 光継が扉の前に立っていた。いつからいたのか、黙って景虎の姿を見つめている。

「……行って、どうするつもりだ」

「退治するよ。“鬼”と呼ばれている以上は、村にとっては脅威だ。放っておけば、被害は続く。

 それに、俺がやらなければ次に送られる者が誰になるか分からない。だったら俺が行く」

「でも“角”なんて……」

 景虎は、わずかに笑った。

「なければ“ない”と伝えるしかないさ。それで納得してもらえるとは思わないけど。

 任務に失敗した近衛兵は自らの命と引き換えに責任を取る。それだけの話だ」

 光継は唇を噛み、目を逸らした。

「……無事で帰ってこいよ。角の代わりに、何か証になるもんがあるといいんだけどな」

「あるかもしれないし、ないかもしれない。でもとにかく俺は行ってくるよ」

 荷を担ぎ、景虎は振り返らずに兵舎を出た。

 外には、春の夕風。

 桜がはらはらと散る道を、ひとり進んでいく。

 彼の背に、死の覚悟と、それでもなお人を守ろうとする剣の心が、静かに燃えていた。



 第三章 対岸の火、鬼の爪

 神渡島から北東へ二里、海岸沿いに築かれた村――春霞はるがすみ村。

 海からも山からも交易が届く立地の良さと豊かな農地を持つことから、人口二千を超える大村として知られていた。

 だが今、その村は“鬼”の影に怯えていた。

 荒らされた畑。血の跡が残る家畜小屋。

 そして、村役場の掲示板には行方不明の娘たちの似顔絵が貼られていた。

「……ここまで、とは思わなかった」

 景虎は静かに息をつきながら、村の中央にある役所――かつては穏やかな暮らしを象徴していた木造の建物――へと足を運んだ。

 その奥の一室。簡素な机と数脚の椅子が並ぶだけの作戦室に、現地の治安部隊の長が待っていた。

「はじめまして。和久井景虎と申します」

「――ほう、あの蹴鞠の儀で鞠を拾った近衛が、実際に来たというわけか。……俺は片野玄道かたの げんどう。この村と周辺の警備を任されている」

「もう噂がここまで届いているんですね」

 年の頃は五十手前。無骨な面差しと落ち着いた物腰を持ち、かつては戦にも身を投じていたであろう風格がある。

「現状をお聞かせ願えますか」

 玄道は机の上に広げられた粗末な地図を指しながら語った。

「鬼どもは、島の禊之宮を拠点にしておる。主に夜間、船でこちらに渡り、畑を荒らしたり、家畜を盗んでいく。最も深刻なのは……」

 地図の隅に付された「×」印を、玄道の指がなぞった。

「娘が攫われた。これまでに五人。奪還のために若い者が数名、島へ渡ったが……誰ひとり戻ってきておらん」

 景虎は表情を崩さず頷いた。

「若者たちは武器を持っていたのですか?」

「三百年前の刀狩り以降、武器を持つことは許されていない。太守直轄の我々も、棒術や捕縄を使った術が基本。刃物には縁が薄い。おそらく農具を持って行ったのだろう。

 あの“鬼”どもは、刃も弓も扱う。今のままでは勝ち目は薄い」

「ではもう生きてはいないかも、ですね」

 景虎は腰の弓を取り、矢筒とともに玄道に差し出した。

「持ってこれた武器はこれだけです。片野殿、弓の使える兵を貸していただきたい」

 玄道は目を細め、景虎の顔を見据えた。

「兵を貸せはいいが、断られたら独りで乗り込む気だったのか?」

「ええ、他に方法はありません。戦える人手も、武器もない。ならば、できる者がやるしかないでしょう」

「そこまでして手に入れねばならぬ“鬼の角”か、だが相手は“鬼”のような人間だが、それでもお主は命を懸けるのか?」

 景虎は苦笑した。

「――わかってます。ただ、鬼の脅威を取り除く。それだけが、今の私にできることです」

 玄道は重々しく頷いた。

「分かった。ならば私も覚悟を決めよう。お主に付いていこう、弓の腕前はまだ鈍っておらぬつもりだ」

「ありがとうございます。正直独りで死ぬのは寂しかったので助かります。ただ何かあったら貴方は逃げてくださいね、私の死にざまを都に伝えていただかねばなりませんので」

 景虎の声は静かだが、決意は濁りなく澄んでいた。


 春霞村に夕闇が迫る頃、景虎は片野玄道とともに、村外れの静かな倉にいた。

 粗末な地図と灯りの下、ふたりは最後の作戦会議をしていた。

「舟は使わん。音が出る。目立つ」

 景虎が短く言い切ると、玄道は眉をひそめた。

「泳いで渡るつもりか?」

「ああ。神渡島まで二里、潮の流れは穏やか。今夜は新月で月明かりも弱い。敵に気づかれず上陸できる確率は高い」

「……我々の装備はどうする」

「この中に入れていきます」

 景虎は布で包まれた、油加工の革袋を示した。口を紐でしっかりと縛れば水が入らない。

 中には短槍、弓、煙玉、矢筒、そして火打石。

「先に島へ上陸し、鬼の潜む洞窟に煙玉を投げ入れます。敵が飛び出してくるのを、出口付近で待ち構えて撃ち取る」

 玄道は無言で、革袋を受け取った。

「……無茶だな」

「それでもやるしかありません。娘たちは連れ去られ、若い男たちは戻らない。時間をかければ被害が拡大する。

 私たちが動くなら、今夜が最も適しています」

 玄道は小さく鼻で笑った。

「本当にお前は鞠を拾っただけの若造か?」

 景虎は苦笑した。

「近衛兵ですから。訓練は伊達ではありません」

 二人は武具を革袋に収め、最後に口を固く締めた。

 体には動きを妨げぬよう、最低限の衣装だけを身にまとい、素肌に濡れてもいい下着、足元は滑りにくい編み足袋。

「泳ぎには自信が?」

「若い頃は海辺で育った。お前よりは長く潜っていられるかもしれん」

「なら心強いです。出発は丑三つ時――潮の緩む時間に合わせましょう」

 景虎は蝋燭の炎を見つめながら、心を定めた。

 鬼の角など存在しない。

 だが、攫われた娘たちを救い、村を守ることは、確かな“正しさ”である。

 そして――

(もし、このまま命を落とすなら、それでも構わない。生きて戻れたとしても、“証”を持ち帰れぬなら、切腹の覚悟はある)

 全てを心に収め、景虎は最後の準備に取り掛かった。

 その夜、春霞村の岬に、ふたりの影が並んでいた。

 遠く、神渡島は暗い輪郭だけを浮かべていた。

「行こう」

 景虎の一言で、玄道は黙って頷いた。

 波間を蹴って、ふたりの男は静かに夜の海へと消えていった。

 風の音に紛れて、ふたつの命が死地へと進む音だけが、波間に静かに響いた。



 第四章 血煙の社

 神渡島。

 波の音すら吸い込まれるような、静かな夜だった。

 船着き場に据えられた黒ずんだ鳥居。その根元には海からの流木が打ち寄せられ、苔が湿っていた。

 誰もいない。見張りの気配も、灯もない。

 景虎と玄道は、息を殺して上陸する。

「……異様に静かだな」

「逆に不気味です。用心しましょう」

 景虎の囁きに玄道が頷く。

 鳥居を潜り、海蝕の崖沿いに刻まれた道をたどると、洞窟が現れた。

 入り口の左右――そこに“それ”はあった。

 槍の穂先に突き刺された、数人分の首。

 若者たちのものだ。目を見開いたままの顔、まだ干からびてもいない。死は数日前だ。

「……くそっ……!」

 玄道が奥歯を噛み締める。景虎は手を合わせ、静かに頭を垂れた。

「もっと早くに来れていれば、彼らは死なずに済んだのに」

 荷から煙玉を取り出し、火打石で点火する。白煙が一気に立ちのぼる。

 その玉を、洞窟の奥へ、音もなく投げ込んだ。

 数秒後――中から咳き込みと怒号、足音。

「来るぞ!」

 最初に飛び出してきた男は、粗末な鉄片を打ち付けた槍を持っていた。

 目は血走り、髭は伸び放題、服は異国の衣装である布切れをつなぎ合わせたもの。

 だが、そこに理性はなかった。獣だ。襲撃者に反応するように飛びかかってくる。

「っ、はっ!」

 玄道の矢が男の喉に吸い込まれた。倒れた男に、景虎が短槍を突き立てる。

「次!」

 二人目、三人目。

 煙に追われたように飛び出してくる異形の男たち。

 肌の色も、髪も目の色も、桐葉の人間とは異なる。

 彼らは怒りと混乱のままに外へ飛び出し――射られ、斬られ、倒れていった。

「五、六……七……!」

 景虎は息を吐きながらカウントを続ける。

 八、九……十。

「十一、十二……ここまでか……?」

 しばし、静寂が訪れた。

 煙は次第に薄れ、夜明けがその姿を現し始める。

 空は白み、鳥が小さく鳴き始めた。

 玄道は肩で息をしながら、弓を下ろす。

「終わったか?」

「まだです。娘たちが出てこない。おそらく中の社に拘束されている。……そこに、残りがいる可能性が高い」

「気をつけろよ、無茶はするな」

 景虎は頷き、洞窟の中へ足を踏み入れた。

 中は一直線の通路。壁にこびりつく煤と血の臭いが混ざり、息をするのも苦しい。

 やがて視界の先、ほの暗い中に、古びた社が見えた。

 木造の小さな社殿。石段が三段、注連縄が張られている。

 だが祈りの場としての神聖さはなく、そこには、恐らく“檻”として使われている雰囲気があった。

(娘たちは、あそこに――)

 一歩、二歩と慎重に近づく。

 短槍を構え、耳を澄ます。気配――確かに、社の中に複数の存在。

 そして。

「ぬううううっ!!」

 獣じみた唸り声とともに、社から三人の男が飛び出した。

 他の者たちとは違う、明らかな指揮官格。

 筋肉のついた大柄な体格。手には刃こぼれした長剣。

 そのうちの一人は、首に鹿の骨飾りを巻いていた。

「……来たか、“かしら”たちが」

 景虎は歯を食いしばり、構えを低くした。

(これを乗り越えなければ、娘たちは救えない。俺は……ここで死ぬかもしれない)

 夜明けの淡い光の中、景虎の槍が、三つの鬼に向かって走る――。



 第五章 命の代価

 社の扉が、軋んだ音を立てて開いた。

「――っ!」

 姿勢を低く構えた景虎の前に、三人の男が現れた。

 最初に飛び出してきたのは、体格の良い鬼のかしら――刃こぼれの長剣を両手に構え、獣のような気迫を漂わせている。

「玄道!」

 景虎の呼び声に、洞窟外で待ち構えていた玄道が即座に弓を引き絞った。

 短く唸るような矢の音――

 ズッ――!

 男の肩口に矢が突き刺さり、体勢が崩れる。

 その一瞬。

「――はっ!」

 景虎が踏み込み、短槍で腹部を突き上げる。

 肉を裂く感触。吹き出した血飛沫。鬼が絶叫し、倒れた。

(一人……!)

 だが、残り二人が社の中から少女を引きずり出し、娘を盾にして構えていた。

「くそっ……!」

 玄道が矢を引くも、狙えない。景虎も槍を構えたまま動けない。

 鬼たちは娘を前に突き出したまま、じりじりと前進し、洞窟の外へと足を進めていく。

 景虎と玄道も、それに合わせてゆっくりと後ずさった。

 やがて、夜明けの光が射し込む外に出る――。

 そこは、鬼の持つ長剣にとって優位な広い空間。

 盾としていた娘たちを、鬼たちは無造作に放り出した。

「玄道、短剣を受け取れ!」

 景虎が腰から短剣を抜き、玄道に投げ渡す。

 玄道はそれを空中で掴み、二本の武器を構えて踏み込む。

 鬼たちは咆哮と共に長剣を振り回す。

 その威力は凄まじいが、洞窟内では封じられていた広い振りかぶりが今は可能となっていた。

 景虎は間合いをギリギリまで詰め、刃を紙一重で避け続ける。

 相手は力任せに剣を振るうが、明らかに素人――戦場を知る者ではない。

(速さで勝る……今だ!)

 景虎は踏み込み、相手の刃が横を薙いだ瞬間、地を蹴って体を低く滑り込ませる。

 そのまま足を引っかけて転ばせ、倒れた鬼の腹に短槍を突き立てた。

「ぐ……っ!」

 鬼は泡を吐いて動かなくなった。

 その隣、玄道は懸命に剣を受け流していた。すでに腕に一筋の切り傷が走っている。

「玄道、加勢する!」

「いや、下がってろ!」

 2対1になった今、玄道が一歩も引かずに敵の太刀筋を受け流し――

 景虎が後方から短槍で斬り込む。

「……終わりだッ!」

 玄道の蹴りが鬼の膝を砕き、景虎の短槍が喉元を突いた。

 最後の男が倒れ、地に血が染み込んだ。

「……終わった……」

 景虎は安堵の息を吐いた――その瞬間だった。

「――ッ!!」

 景虎が倒したはずの鬼の頭が、最後の力を振り絞って身を起こし、手にした長剣を投げつけた。

「っ……!」

 景虎は本能で身をひねり、避けようとした――

 ズシャッ……!!

 鋭い金属音と共に、左足に激痛が走る。さらに肩にも衝撃。

「景虎!!」

 玄道が駆け寄り、咄嗟に鬼の喉元にとどめを刺した。

 その頃には景虎の足元に血が滲み、肩口も深く裂けていた。

「動けるか!?」

「……なんとか……でも、歩くのは無理だな」

 景虎が顔をしかめながら笑うと、玄道はすぐに判断した。

「舟がある。船着き場に奴らの船が繋がれていた。……娘たちとお前を乗せて、村に戻る」

「娘は……無事か?」

「社の奥に三人。縄で縛られているが、怪我はない。とりあえずお前の止血が先だ」

 景虎は安堵の息を漏らし、虚空を見上げた。

「……角はなかったな」

「だが“鬼”はすべて退いた。十分すぎる戦果だ」

 玄道の言葉を背に、景虎は担がれ、小舟に乗せられた。

 娘たちの震える手が、彼の袖を掴む。

 夜明けの海を、小さな舟が静かに戻っていった。

 景虎の左足には血が滲み、肩には痛みが残る。

 だが――その眼差しは、確かに“誇り”を湛えていた。


 第六章 命と角のあいだで

 春霞村を出たのは、鬼を討った翌朝のことだった。

 景虎の左足は包帯でぐるぐるに巻かれ、歩くどころではない。

 血の気のない青い顔をしているが意識ははっきりとしているようだ。

 簡素な手押し車に乗せられ、その車を押すのは――もちろん、片野玄道である。

「まったく、近衛兵というのは偉いものだな。自分で歩かずとも都まで運んでもらえるとは」

「しゃべる気力が残ってるなら自分で歩け、押す手間も省ける」

 そう言いながら、玄道は汗を拭い、緩やかな坂を越えていく。

 景虎を乗せた手押し車は、まるで時代の流れに逆らうように、のろのろと都へと向かった。


 都の門に着くと、衛兵の一人が駆け寄ってきた。

「景虎!? お前、本当に……!」

 それは同期の守屋光継だった。

 鬼退治成功の報はすでに都に届いていたが、負傷の程度までは知られていなかったらしい。

「おい、杖だ。ゆっくりでいい、俺もついてく。……無理すんなよ」

 杖を渡され、景虎はゆっくりと、門を越えて宮殿へと向かう。

 玄道も、腰に差していた短剣を衛兵に手渡すと宮殿へと入っていった。


 宮殿の謁見の間。

 高峯帝は玉座の上から、傷だらけの景虎を見下ろした。

 その眼差しには、厳しさと深い敬意が宿っている。

「和久井景虎――おまえの勇気と働き、しかと聞き及んだ。鬼の脅威を退け、娘たちを無事に戻した。その武勲、称賛に値する」

 周囲に居並ぶ文武百官たちからも、どよめきと歓声が沸き起こる。

 だが、景虎は静かに座り込み、懐から短剣を取り出した。

「……しかし、陛下。“鬼の角”を持ち帰ることはできませんでした。

 それは任務の失敗と心得ております。……ここで、お詫び申し上げます」

 その言葉に、空気が張り詰める。

 景虎は短剣を右手で構え、地に頭を下げる。

「お待ちを!」

 玄道が一歩前に出て、声を張り上げた。

「景虎殿の働きで、村は救われました。鬼は討たれ、娘たちは帰った。これを“失敗”と言うのであれば、民を守る者の道理が崩れます!

 どうか、どうか命をお救いくだされ!」

 玄道の声に間髪いれず――帝は一言発した。

「近衛兵、止めよ!」

 数名の近衛兵が駆け寄り、景虎の手から短剣を奪う。

「景虎。忠義と武功ある者を、死なせはせぬぞ」

 そして皇后・斎華が、静かに続けた。

「“鬼の角”とは、言葉の綾です。本当に必要だったのは、鬼に屈せぬ“勇”でした。

 あなたは、それを持ち帰った。十二分に、条件を果たしました」

 景虎は力が抜けたように、ただ、静かにうなずいた。


 皇宮の奥、秘薬の調合室。

 香木の香りに混じって、草の汁と薬種の香が漂う。

 紫苑は机に向かい、手元の火皿の火を絶やさぬよう、薬包の調整を続けていた。

 紫苑は景虎が戻ってきた日から、一睡もしていなかった。

「また……大切な人を、失うわけにはいかない」

 呟くように、誰に語るでもなく口に出す。

 かつての婚約者は、病に倒れて帰らなかった。

 医学を学んだのも、自分の手で守れなかった命を悔いたからだ。

 そして今。景虎もまた、命を懸けて戻ってきた。

「……無事に、とは言えないけれど。それでも、帰ってきてくれた」

 手の中にあるのは、皇室に伝わる秘薬――“明命膏めいめいこう”。

 あらゆる薬草を配合し、血を鎮め、傷を閉じ、再び立たせると言われる伝承の妙薬。

 紫苑は震える手で、それを壺に移した。

「歩けるように……なる。必ず」


 景虎は宮殿の医務室に運ばれ、再び意識を取り戻したのは数日後のことであった。

 動かぬ左足、上がらぬ左肩、剣を取るどころか、立ち上がることも叶わない体。

(命は拾ったが、この状態では結婚どころではないな)

 そんなとき、静かに扉が開いた。

「おはようございます、景虎殿」

 その声は、優しく、涼やかだった。

 差し込む朝日がとても神々しく、黒髪を照らしていた。

 皇女・紫苑が、自ら薬包と小瓶を持って立っていた。

「……これは?」

「我が家に伝わる、秘薬です。炎症を鎮め、筋を繋ぐと伝えられている。長くかかるかもしれないけれど歩けるようになります」

 そう言うと、紫苑は無言で景虎の足に薬を塗り始めた。

 その指先は震えず、丁寧で、しかしどこか、照れたような慎ましさがあった。

「すまない……鞠を拾ったのは、そんなつもりは、なかったのだが」

「……でも、拾ってくれたおかげで、村の娘たちは救われた。そして、私も今度は大切な人を助けることができます」

 紫苑は一度、言葉を止め、それから柔らかく微笑んだ。

「歩けるようになったら……正式に、婚礼を挙げましょう」

 景虎の目が、わずかに見開かれる。

「いいのか?」

「嫌と言われても困ります、もう鞠を蓮の池に蹴り込んでも泥水かき分けてまで拾ってくれるような人もいなさそうですし、母の無茶を聞いてくれるような人もいないでしょうし」

 その言葉に、景虎はようやく、肩から力を抜いた。

 窓の外では、春の桜がまた、ひとひら舞い散っていた。


 ――その後、景虎の傷は少しずつ癒え、紫苑との挙式は三か月後、瑞京の花盛りに執り行われることになる。

 “鬼の角”はなかったが、民の声と、命を賭した誠の行動が、ひとつの婚姻を、そして未来を、動かしたのであった。


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