08.いい子で待ってて
「……で、大学生の宙也くんがどうしてここに?」
「ん? 由美さんの働いてる姿がどうしても見たくなって。」
今朝の宙也は、由美の起床時間より30分ほど前にそろりとベッドから抜け出し、置き手紙や連絡先の交換もしないまま居なくなった。
ドアの鍵は閉められていて、由美のキーケースはポストに入っていた。
あの店のバーテンダーを口説いた時点でアウトだというのに、さらに結局途中で寝落ちしたから、きっとだらしない姿に呆れて帰ってしまったんだろう。そう思っていた。
正直に言うと、あんなに気持ちを開放出来て、舞い上がるような可愛さと強引さを併せ持つ相手は久しぶりだったのにな……と惜しい気持ちもあった。
けれど、32にもなってこんな事してるなんてほとほと馬鹿な女だとしっかり落ち込み、自らを責めつつも、二日酔いかつ連勤4日目でだるい体に鞭打って、なんとか身支度をして出てきたのだった。
それなのに。
「今日も可愛いね、由美さん。僕、こういうとこも背徳感あって好きだなー。」
本当に迂闊だった。もうこれは完全なる失敗。敗北の二文字が頭によぎる。
店に来る男になんて興味はない。ましてや10歳年下、社会に出たことのないひよっこ。仮に恋人だったとしても、店へ来られたら嫌だというのに、なんで昨日は彼を選んじゃったんだろう。
最近は人肌恋しい気持ちになることも少なかったし、なんなら昨夜なんて長年の目標を達成できた喜びと達成感、幸福感に満ち溢れていたのに。
「ゆーみさん…っ。眉間にシワ、寄ってる。」
顔を覗き込んできたトイプードルは、由美の眉間にキスをして、ニカっと笑った。
店内では、本当の男達よりも男前で、スマートに、かっこよく仕事のできる女モードで居ようと常日頃心がけている。そんな由美への彼の行動は、完全に想定外すぎて全く反応できず、数秒で顔に血が上り、耳までカーッと熱くなった。
「そうそう……。僕、由美さんのその顔好き」
「ちょっと。そんなこと言われると、調子狂うからやめて。それに……私とは一晩限り、だったんじゃないの?」
昨日連絡先を交換しないまま帰ったのは、きっとそういうことなんだろうと思っていたし、いまでもそうだと思っているからこそ、なんで彼がここへ来たのかがわからない。
「んーん、そのつもりはなかったし、今もないよ」
「え?」
「朝、邪魔しちゃ悪いかなーって思って出てきただけだし、早く会いたくなって、お店から名刺貰って来ちゃった」
「……馬鹿。うちのスーツは大学生が買うにはちょっと高いから、今日は帰りなさい?」
「えー、でも作んないと由美さんと話せないなら、僕だって作る」
「そういうのはいいから。……今日、バイトは?」
「ない」
「じゃあ……バーの前で21時」
「えー」
「閉店したらすぐ行くから。絶対」
深いボルドーのマットリップをつけた唇で、これ以上の口答えは許さないと、彼の唇に蓋をした。
「ね。良い子にして待ってて」
「……うー。わかった」
大人しく帰らないこのわんこを家に帰すため、結局30分近く時間を使ってしまった。後輩には、予算感が合わなかったわね!とだけ伝えて誤魔化し、そのまま次の接客へ向かったけれど、時折時計を見ては閉店までの時間を逆算してしまい、心臓がバクバクと音を立てる。
いつもは、あと1時間、あと30分、とカウントダウンしながら待つ時間が、今日はあっという間にやってきた。
こんな日に限って問い合わせメールがいつもより多く、返信をしている間にもメールは届き、時間は駆け足で過ぎて行った。