10.春宵一刻値千金
「じゃあ、定年おじさんから1つだけ、アドバイスだ。春はよく、『春宵一刻値千金』って言うだろ? あれはただ春の趣きを描いた句じゃないんだ。あれは、気持ちのいい春の宵、ふたりで過ごした時間がずっとこうして長く続くといいなぁという恋の句だ。こんなに綺麗なお嬢さんが、相手の為にこんなに急いで、こんなにそわそわするんだ、きっと相手も同じように思ってるに決まってる」
別にこちらの事情を話したわけでもないというのに、ドライバーはラジオをつけたようにつらつらと話を続ける。参宮橋を抜けて初台から大通りに入る手前で、道沿いに咲いた早咲きの桜が、ふわっと舞い散った。
「ほら、桜も。……頑張れってよ」
ちょっと恥ずかしい言葉なのに、照れもなく言えるのは、互いに進む方向を見つめているからだろうか。信号待ちで桜と並んだので、徐に窓ガラスを少し開けて覗こうとしたが、車が走り出した途端に景色が変わり、風圧で飛び込んできた花びらを顔に浴びた。
「あっはは、お嬢さん、だいぶエール受け取ったな!」
車内に薄桃色の花びらを撒き散らしてしまったのに、ドライバーは怒る事なく、春を感じるねぇとケラケラ笑うばかりだ。
交差点を曲がってオペラシティを越えると、通い慣れたスーパーが左手に見える。
「あ、その先の角、歩道橋の下でお願いします」
あいよ、と答えたドライバーはささっと会計を済ませ、助手席に置いてあった小さなカゴから、「こっちは、おじさんからのエールだ。」と汗の滲む手のひらにイチゴミルクのキャンディを乗せた。左の手首で、ひんやりと私の熱を吸い取る腕時計は、21:20を指している。
ドアの向こうで、頑張れよーという声が聞こえた気がした。
バーの周りはすでに暗く、看板の間接照明が光っているのがわかる程度。明るい大通りからでは、そこに人が立って居るのかもわからない。
どうかまだ待っていて欲しいと願いながら、甘酸っぱい香りのするイチゴミルクの包みを握りしめたまま、細い路地へ走る。
「……っ宙也くん!」
もう約束の時間は過ぎている。お気に入りのルブタンは、アスファルトの上を走れるような靴では無いけれど、それでも走らずにはいられない。
走り慣れていない由美の脚はすぐにもつれ、息は上がる。
側から見たらきっと、「焦ったおばさんが何やってんだろう」そう思われているんだろう。それでも、スピードを緩める気にはなれなかった。
道の突き当たり、丁字路にある店へ近づいてもなお、宙也の姿はない。
あと5mほどのところで足取りのスピードは落ち、ぽたぽたと涙が溢れた。
自分から一晩だけの相手を求めて声をかけたのに、気付けばもっと会いたいと思い、ただ走っていた。ちゃんと向き合う勇気も度胸もなかなか出なくて、タクシードライバーに応援されてようやくその気になれたのに、それでは遅かったんだと、思い知らされる。
……また、失敗しちゃった。
他のことに関してはまだ、人並みに頑張れるのに、恋愛だけはうまくやれない大馬鹿野郎のまま。意地を張ってもいいことなんてないのに、またカッコつけて失敗してしまった。
もう、会えないかもしれないと思うと、急に込み上げる喪失感。両手の平は、恋愛失格の烙印を押されたように、ぎゅうっと熱く、痛い。




