3.一番心をひかれるもの
結局、知りたい情報を得るためにそれから五分も電話してしまった。
「ありがとう。うん、チャンプは元気だよ。すごく元気。トイレも一度も失敗していないし、食事もとれているから心配しないで。……うん、うん。じゃあまたね。……ふう」
「人間よ。どうだった?」
「あ、うん。今回は引き分けだったよ」
コーヒー好きの巴ちゃんは、昨日はコーヒーを三杯飲んだそうだ。そして夕食にテイクアウトしたハンバーガーを食べたとか。
「危なかったあ。お昼にサーモンを食べたって聞いた時はもう負けたと思ったよ」
「ではこの調子で明日以降も勝負をしようではないか」
「はいはい。じゃ、もう静かにしててよ。これから曲を作らなくちゃいけないんだから」
テーブルの上のものを全部片づけると、僕は愛用のギターを腕に抱えて床に座りなおした。
「えーと。今日はアレンジを見直そっかな」
「おい。人間」
「ああもう。ちょっと黙ってて。今はこっちに集中したいんだ」
実は僕には社会人とは別の顔がある。それはシンガーソングライターだ。今は動画サイトに弾き語りを投稿しているだけのただのアマチュアで……でもいつかはプロになりたいと夢見ている。ひと月に一曲の制作、投稿というノルマを自らに課しているのもそういう理由だ。でもこれが仕事をしながらだとなかなか進まなくて……それがここ数年の悩みだった。
「うーん、やっぱりこっちのコードの方が合うかなあ。それとも……」
メロディに合わせてコードを弾き比べていく。
「あ。これなら曲のイメージに合うかも」
いい感触につい顔がほころんだところで。
「人間よ。それではありきたりだし古くさいぞ」
トイレから戻ってきたチャンプの横やりに、弦をつまびく指がぴたりと止まった。
「……それはどういうこと、かな?」
「つまりは大したことがないということだ」
表情が固まった僕に、チャンプがふわあと大きなあくびをした。
「聞いていてつまらんし心がまったく動かない。眠くなる」
「えー、と。これ、けっこうハイテンポな曲なんだけど」
実際、僕は先ほどからじゃかじゃかうるさいくらいにギターを弾いていた。あ、もちろんアパートで鳴らせる程度の音量だけど。
「人間よ。なぜその曲を作ろうと思ったんだ」
「えっと。僕、プロを目指していて、そのためにバズれる曲が必要なんだけど……って、こういう話、猫でもわかるのかな」
と、いうより。猫相手に何を馬鹿正直に説明しているんだろう。
「では人間よ。なぜプロを目指す?」
「それが僕の夢だからさ」
何を当たり前のことを、と鼻息荒く語ったら、チャンプに「へっ」と笑われた。
「人間よ。その夢はなんのためにかなえるんだ」
「なんの、ため……?」
「答えられないのか」
「えっと」
高校時代から始めた、ギター。大学で気の合う仲間を見つけてバンドを組んで、卒業とともに解散して。でも僕だけは今でもプロになる夢を追いかけ続けている。でもチャンプに訊ねられて、はたと気づいた。今、僕はなんのために夢をかなえようとしているんだろう?
「自分のため……かな」
なんとか答えた僕に、チャンプがまた「へっ」と笑った。
「人間よ。生き物はすべからく変化するということを知らないのか」
「……どういう意味?」
「お前には巴がいるではないか。なぜ巴の存在を考慮しない」
「それって」
ピンときた。
「結婚したらこういうことはやめろって言いたいの?」
けれどこれをチャンプは否定した。「いいや。違う」と。
「じゃあどういう意味? いつまでもかなわない夢を追いかけてるって、僕のことを馬鹿にしてるんじゃないの?」
実際、巴ちゃんと結婚するにあたって、実の両親から言われたのだ。もういい年なんだからやめろと。あちらの両親も口には出さないが快く思ってはいないことはうすうす察している。
「そうではない。まったく、人間よ。お前は短絡的だな」
そう言うと、チャンプがその身に似合わない軽やかさで僕の膝に飛び乗ってきた。
「盛り上がる曲がほしいからと激しい曲を作る、そういうところも実に短絡的だ」
「なんだよ。やっぱりケチつけるんじゃないか」
至近距離のチャンプをにらむと、チャンプはその金色の瞳で僕をじっと見つめ返してきた。
「……まったく。お前はいつまで青臭いままでいるんだ」
文句を言いかけた僕の口をチャンプの前足が押さえる。さっきトイレで猫砂を何度も掘っていた足で、だ。
「うわっ。ばっちい!」
「また口をひらくたびにお前の口にこの前足を突っ込んでやる」
「うぐぐ」
そこまで言われたらもう抵抗できない。ただ、続くチャンプのセリフは、僕が苦手なお決まりのものとは全然違った。
「いいか、人間よ。お前はお前が良いと思う曲を作るべきだ。お前は今、何に心を動かされる? それは反抗精神、意味のない言葉の羅列、騒がしいだけの曲調ではないだろう? お前自身が心を動かされる曲を作るんだ」
「僕自身……が?」
そういう観点で曲を作ろうと思ったことはなかったから、チャンプの指摘に僕は本心から何も言えなくなった。まさにチャンプの言う通り、僕は常に昔を、より気楽で自由な日々を賛美するような、そんな曲ばかりを書いてきたから。
「人間よ。お前が今一番心ひかれるものはなんだ」
急な問いかけだったが、これに僕は即座に答えた。
「もちろん巴ちゃんだ。巴ちゃんに決まってる」
「なるほど」
チャンプが満足げに一つうなずいた。
「であれば巴のことを曲にするんだ」
***