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異海の霊火  作者: 月宮永遠
4章:終末の疫獣
36/42

34

 嵐は四日目の朝に止んだ。

 濃霧の混淆こんこう海域に戻ったとき、永劫に思われた氷原は消え失せていた。

 船員は“食の恵み”が遠のいたことを残念に思ったが、ともかく久しぶりに船を動かすことにした。

抜錨ばつびょう用意!」

 甲板長代理改め、グスタフ後任の新甲板長が叫ぶ。

 船員は持ち場につき、巻揚げ機(キャプスタン)をまわし、中檣帆トップスルを二段縮帆して、茫々(ぼうぼう)の海を南下し始めた。ちょうど風がでており、船は軽快に走りだす。

 間もなく、幸運にも双角鯨の群れに遭遇した。

 昨日まで鯨飲げいいんしていた船員たちは、壮絶な漁に身を投じ、半日がかりで仕留めて船に繋留けいりゅうしたものの、すっかりくたびれてしまった。

 いつものように、脂肪とりの作業は翌日に持ち越しになったが、飢えた無数の鮫がかばねに集まってきてしまったので、鋭利な銛で撃退させることにした。交代で見張りを立たせ、その戦いは黎明まで続いた。

 あくる朝。

 早朝から甲板に人が集まった。鯨の解体作業は船員総出の大仕事だ。そのなかにはシドの姿もある。医療のために、双角鯨の脊髄溶液や脂身のきれを採取するためだ。

 嵐の間、不衛生な大衆部屋に大人数がこもったせいで、らいが蔓延し、体調不良を訴える者が相次いでいた。なかには一晩高熱に喘いだのち、全身麻痺に襲われ、それからあっという間に息を引き取った者もいる。

 無頼漢たちは、巨大な海獣や幽霊船には挑めても、病気には太刀打ちができなかった。

 恐ろしい病気ぞよ……意気阻喪いきそそうの凄まじいこと、いつになく弱気になって、混淆こんこう海域の呪いだ祟りだのと口走る。

 そんなわけで今度も殺人鬼改め救世主よろしく、シドは脊髄溶液から丸薬を作り、彼らを治療しようとしていた。

 船の窮状を知って愛海は、生理痛も引いたので、シドの手伝いをジンシンスに申しでた。船長室をでていこうとしていた彼は、目を丸くして愛海を見た。

「正気か?」

 彼の驚きように戸惑いながら、愛海は頷く。

「十分休ませてもらいましたから、もう働けます」

「解体作業は汚れるし力仕事だぞ。病みあがりなのだから、やめておけ」

「力仕事は無理そうですが、シド先生のお役に立てることがあれば」

「しかし甲板は今とっちらかっていて、男共が唸ったり怒鳴ったりしているんだぞ」

 それはいつものことだ。ちょっと不思議に思いながら、愛海は訴えた。

「邪魔はしないようにしますから、僕も手伝わせてください」

「だめだ。医者に手伝いが必要なら、ウルブスにやらせる」

 強い口調で断じられると、愛海は二の句が告げられなくなる。

 ジンシンスは長身を軽く屈めて、愛海の顔を覗きこんだ。

「そんなに頑張らなくていいんだよ」

 優しい碧眼に見つめられて、愛海は赤くなる。

「せめて見学だけでもできませんか? シド先生の作業を近くで見て覚えたいんです」

 視線が泳ぎそうになるのを堪えて、澄み透った瞳を見つめて訴えた。

「また今度な。今日はここで休んでいなさい」

「少しだけでも、」

「だめだ」

「……余計な手出しはしませんから」

「危ないといっている」

「……大丈夫です」

「大丈夫でないといっている。お前は――……その、危ないだろう」

 愛海はとうとう口ごもった。彼はいささか心配性だ。ここ数日の体調不良に加えて、大衆部屋で病気が蔓延していることもあり、愛海を船長室からだしたがらない。

 それにしても慎重な気がする。病気に関してはシドが対策を講じているし、ごちゃごちゃした状態の甲板で穿孔せんこう手術の手伝いを任されたこともあるのに、鯨の解体はどうしてだめなのだろう?

「愛海?」

 返事を求められている。これ以上は口答えになりそうで躊躇われたが、愛海は勇をしてくちを開いた。

「……やっぱり僕は、甲板にいきたいです。ジンシンスさん、甲板に用事はありませんか? そうしたら、僕も一緒に……」

 否定されるのが怖くて、声も震えてしまい、最後までいえなかった。ただもくして彼の表情を窺う。

 震えている少女の姿は、見ればみるほど子犬を思わせるので、ジンシンスは思わず手を伸ばし、海栗うにのような黒髪を撫でていた。そして本人も無意識の、笑みを含んだ柔らかな表情でいった。

「……判った。俺が甲板にいる間だけ、隅で見学することのみ許可しよう」

「ありがとうございます!」

 ぱっと愛海の顔が輝いた。

「俺が戻れといったら、戻るんだぞ。約束できるか?」

「アイ」

「よし」

 ジンシンスはやれやれ、といった顔をしているが、その眼差しは優しい。

 愛海は感謝をこめて笑った。

 彼は船長室をでていったあと、陽が昇って、気温があがってきた頃に戻ってきた。声をかけられて愛海がジンシンスと一緒に甲板にいくと、人が大勢いて、甲板には解体道具がずらりと並べられていた。

「俺は引きあげ作業を見てくる。何かあれば呼べよ」

「アイ」

 ジンシンスと別れたあと、気になっていた子虎の様子を見にいった。久しぶりに見たせいか、かなり大きくなったように感じる。もう子虎とはいえない。手狭になった檻からだされて、輪縄を帆柱に厳重にくくられている状態だ。

「ぐるゥ、ウゥッ!」

 唸り声をあげて威嚇する姿は立派な猛獣である。

「久しぶり。大きくなったねぇ」

 愛海は親しみをこめて声をかけたが、誰にも懐かない野生の氷虎は、歯を剥きだしにして唸っている。これだけ躰が大きくなれば氷原に放っても良さそうだが、残念ながら、氷原はどこかへ消え失せてしまった。

 愛海が寝こんでいる間、虎の面倒はジャンが見ていてくれたらしい。お礼をいいたいが、彼は今、繋留けいりゅうされた鯨の巨体を甲板に引きあげている真っ最中だ。

 船縁に張りついた男たちのなかに、ウルブスもいた。鯨肉を狙う鮫を撃退しているらしい。

 銛で突かれた鮫は、血と内臓を溢れさせながら苦悶にのたうち回る。常軌を逸したように反り返ると、自らの内臓を貪り始めたので、舷側からどよめきの声があがった。

「自分で自分を喰っていやがる! 狂気の沙汰だな」

 ウルブスがいった。聴こえてしまった愛海は眉をひそめたが、ウルブスの隣にいる男は笑っている。

「まあ、気持ちはわからんでもない。俺も指を切断された時は、失血死するんじゃないかと思って、医者がくるまで指から溢れる血を啜っていたことがある」

 そういった男の左手のひとさし指は、根本からなかった。

「それで助かるのかよ?」

「判らないが、俺が今こうして生きていることは確かだ。おう、二匹目がきたぞ。仕留めろ!」

 怒号と共に銛を突き刺し、彼らは今度も鮫を撃退した。たちまち海面は肉片と血で紅黒く染まる。

 男たちの熱気と殺戮風景に圧倒されていた愛海は、シドに呼ばれて、ようやく金縛りが解けた。彼の傍に駆け寄ると、

「やぁ、愛海。もう体調はいいのかね?」

 温かみのある笑顔を向けられて、愛海はほっとして笑み返した。

「はい、御心配をおかけしてすみませんでした。今日からまたよろしくお願いします」

「よろしく。無理はしないように」

「はい!」

 そのとき、大きな振動が甲板を揺さぶり、愛海は慌てて船縁に捕まった。

 鯨の巨体が甲板にあげられたのだ。

 血濡れた屠殺場と化す甲板のうえ、シドが的確に脊髄液を抽出する様子を、愛海は記帳しながら真剣に観察した。

 なんといっても巨体なので、解体には時間がかかる。同時進行で、別の者はひれを切きりとり、角を切りとったりしている。

 ウルブスの指示で、ホープは巨大な頭蓋骨を斧でかち割り、ふたつの白っぽい脳葉をひっぱりだしていた。見た目は脳みその形状をしており、くちに入れるのは少々勇気がいるが、粉揚げにするとなかなか美味しいことを、今では愛海も知っている。

 鯨には無駄がない。あらゆる部位が食料になり、燃料になり、或いは薬になる。

 撃退しほふられたた鮫も引きあげられ、解体された。

 すると巨大な胃袋から人間の白骨がでてきて、どよめきがあがったりする。鯨鑿くじらのみを手に屈みこみ、胸郭から肋骨を一本切り取っ大工は、愛海と目があうと勝手にしゃべりだした。

「人間の骨は意外と便利なんだ。削れば釣り道具にもなるしな。お前にも何か作ってやろうか?」

 お断りだ。愛海が蒼白な顔で首を振ると、男は肩をすくめて作業に戻った。今のやりとりが、愛海をからかうためでなく、親切心から生じているのだから驚きである。

 一通りの作業が終わる頃には、甲板は途方もなくとっちらかっていた。

 大量の暖かい血と油が氾濫し、甲板から湯気がたっているほどだ。全身血と油でべとべとになった男どもが歩きまわって、ともかくうるさい。血の匂いに興奮した虎も吠え猛り、ここは動物園かと目を疑いたくなる。

 後片付けは、鯨の残骸を海へ放つことから始まった。

 すると鮫の群れが集まり、海面を毛羽立たせながら、競いあって残虐な喧騒をまくしたてる。

 巨大なぶつ切りの頭や肉片が散乱しているが、これらを片付けたあとの掃除は、比較的楽ちんだ。というのも、未加工の鯨油には洗浄効力があり、さらに屑肉から洗浄アルカリ溶液を簡単に生成できるので、彼らは端切れと溶液とで船を磨くことができる。今なら暖かな流血のおかげで甲板が凍りつく心配もなかった。

 ちなみに、双角鯨のかばねの表面の表面を剥がすと、ごく薄い半透明の膜がとれる。乾かすと、しなやかで淡い虹色を帯びた繻子のようになるので、船員はこれを加工して、様々な小道具に使っている。愛海も何枚かもらったので、日記のしおりにしたり、衣装部屋の壁に飾ったりしている。妖精の羽みたいで気に入っているものだ。

 大騒擾(そうじょう)たけなわ、陽が暮れる。

 ジンシンスの姿を探して視線を彷徨わせると、たむろしている五、六人の男たちと目があった。厭な視線だ。何人か見覚えがあると思えば、クラムの信者だった。

「愛海」

 はっとして振り向くと、ジンシンスがやってくるところだった。

「船長、そろそろ戻ります」

「ああ。疲れただろう、湯を使うといい。俺はもうしばらく甲板にいるよ」

「アイ。ありがとうございました。お気をつけて」

 愛海はほっとして頷いた。背中に先ほどの男たちであろう複数の視線を感じたが、振り向かずにともの方へ歩いていった。

 船長室に戻ると、先ず浴槽に湯をためた。

 吐いた、という嘘が功を奏したのか、数日前から洗面所に、絹布や綿の入った籠が置かれるようになり、生理中の愛海にはありがたかった。

 頭からつま先まで綺麗に洗い流し、入浴剤を溶かした湯舟に躰を沈めると、ちりっとした熱は一瞬で、すぐに湯の暖かさに恍惚となった。

 全身の強張りがほどけて、弛緩していく。

 甘い柑橘と天然の海藻の匂いに包まれて、全身に染みついた血と油の匂いからようやく解放された。あまりの心地良さに、危うく微睡かけたほどだ。

 十分に温まってから風呂をでると、清潔な肌着を纏う。鏡のしたの抽きだしを開けると、数日前から用意された銀張りのブラシに加えて、カットグラスの栓のある香水瓶が新たに入っていた。

「綺麗……ジンシンスさんのかな?」

 栓をあけると、優しい鈴蘭の香が漂う。彼が使うにしては、女性的な香りだ。

 ちょっと不思議に思いながら香水瓶を元に戻し、ブラシで軽く髪を梳いてから、浴室をでた。

 部屋のなかほどで立ち尽くし、何をしようか考える。しかし疲れていて、何かをする気になれなかった。彼が戻ってくるまで休んでいようと思い、暖炉前に移動した。クッションを整え、毛布を躰にかけて横になる。

 ぱちぱち……ぜる薪の音を聴いていると、入浴後の快い倦怠感もあいまって、うとうと微睡んだ。

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