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異海の霊火  作者: 月宮永遠
4章:終末の疫獣
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 海上の饗宴は十五日間に渡って続いた。

 たがのはずれた彼等は、互いの刃傷沙汰にんじょうざたを忘れて快活な無頼漢になり、陽がでているうちは狩や獲物の解体作業に励み、夜は船内で飲み明かした。

 しかし、十六日目の朝に混淆こんこう海域は、暴虐ぼうぎゃく暴風雪ブリザードに見舞われ、船内に籠ることを余儀なくされた。甲板にでることもできないので、殆どの船員は、休息をとっている。

 愛海は、よりによって、こんなときに初潮を迎えた。

 日本にいた頃、十五歳を迎えても生理がこないので、産婦人科で診てもらったことがある。異常なしと診断されて安心したものの、生理痛を訴える同級生を見るたびに、ある種の羨望を抱いていた。ひとりだけ取り残されてしまったような焦燥のなか、早く生理がきてほしいとすら願っていたが、今このときは勘弁してほしかった。

 うめきたくなるような激痛が、津波のように腹部に押し寄せてくる。

「お母さん……」

 半ば無意識に呟いていた。

 この場にいてくれたら、どんなに心強いだろう。お母さん、ちゃんと初潮がきたよ。報告できたら良いのに。愛海が気に病んでいたことを知っていたから、きっと我が事のように喜んでくれた。本人より喜んで、今夜はお赤飯ね! なんて本気でいいそうだ。

 今ここに、報告できるひとはいない。この窮地をひとりで乗り切らなくてはいけない。

 現実的に考えて、痛くて動けない今は停船は都合が良かった。色々な人に仕事を休む言い訳をせずに済んだ。シドの元で医療の手伝いをしていたこと、船長室にいられることも幸いした。ここには浴室も洗い場も暖炉もあるから、汚れものの始末に困ることもない。二日も乗り切れば、日常に戻れるはずだ。大丈夫、できる。きっとうまくやれる。今はただ休めばいい。

 嵐の咆哮を聴きながら、毛布にくるまっていると、小さな繭に包まれているような錯覚を覚える。この部屋こそが世界の全てであり、氷霧ひょうむに隠された外海は、果敢はかない存在なのだ。

 鈍い痛みを抱えながら、繭のなかで輾転てんてんとし、ときを過ごした。

 夜になると、ジンシンスが食事を運んできてくれた。具合が悪いからと断ろうとしたが、彼も譲らなかった。

「昨日も殆ど食べていないだろう。燃料を補給しないと、元気にならんぞ」

 そういって手ずから給仕を始めた。サイドボードに真鍮の盆を置いて、唐黍とうきび茶を淹れるのを見、愛海も緩慢な動作で身を起こした。

「愛海の好みを考えて、ウルブスが作ってくれたんだ。少しでいいから、食べてごらん」

 彼は料理を皿によそった。すりおろした檸檬を泡立てた卵白とまぜ、野菜や魚を覆うようにかけて蒸した料理で、いい匂いがした。

「美味しそう」

 食欲を刺激されて愛海は、匙に手を伸ばした。ジンシンスと目があうと、どうぞ、というように微笑する。

「……いただきます」

 丁寧な出汁の味といい、えもいわれぬ旨味がひろがり、躰の芯がぽかぽかと温まるようだった。

「美味しい」

 ジンシンスはにっこりした。

「良かった。ゆっくりお食べ。食器は籠に入れておいてくれ。後で片づけにくるから」

「アイ」

 彼がでていったあと、愛海は時間をかけて完食した。食器を籠にしまうと、再び横臥おうがする前に雑用を済ませることにした。血のついた下着をとりだし、洗面所に向かう。彼が戻ってこないうちに洗ってしまおうと、石鹸で洗っていると、物音が聴こえた。

「おい、具合が悪いなら寝ていた方が――」

「ジンシンスさんっ!」

 愛海は独楽こまのように振り向いた。洗っていた下着を背中に隠して、驚きに目を瞠るジンシンスを注意深く観察する。

「すみません、その……吐いてしまって、汚れものを洗っていました」

「大丈夫か?」

 彼が目の前にやってきた。肩に手が置かれて、けれども、はっとしたようにその手が離された。

「大丈夫です。すぐに部屋に戻りますから」

 お願い追及しないで――懇願の眼差しで見つめる。

 彼が何もいってくれないので、愛海は次第に不安になって肩を縮こまらせた。

 沈黙。

 愛海が震えている。早く何か言葉をかけて安心させてあげないと――そう思っても、ジンシンスは言語を忘れてしまったように口をかんしていた。

 不安のにじんだ幼げな顔の造作をつぶさに観察しながら、少年のごとき興奮と気後れを覚えると共に、疑問が確信に変わるのを感じた。

(まさか――いや――やはり女なのか!)

 初めて目にしたとき、淡い面輪おもわから性を判別できず、しかし娘にあるまじき短髪故に男だと思いこんでしまった。その後は、華奢な骨格や繊細で柔らかな肌に触れるたびに、女性めいた気遣いに胸の高鳴りを覚えたときに、男を篭絡するセイレーンの魔の手を逃れたときに、かすかな血の匂いを覚えたときに――ああ、気づくきっかけは幾らでもあったのに!

 幾つもの違和感を胸にめながら、この娘を少年と間違え続けた己が信じられない。

 ジンシンスは目を閉じて衝撃を抑えこむと、目を開けると同時に表情を和らげた。

「……判った。俺は少し船の様子を見てくるから、お前も用が終わったら衣装部屋に戻れよ」

「アイ」

 愛海は安堵したように頷いた。

 ジンシンスは船長室をでると、後ろ手に扉をしめて、口を覆った。

(女だった)

 早鐘のような動悸が鎮まらない。

 沈黙を不自然に思われただろうか? ジンシンスが気づいたことに、愛海も気づいたかもしれない。

 だとしても、愛海から打ち明けない限り、こちらは知らないふりをすべきだ。

 男しかいない、それも逃げ場のない船上で、愛海がなにを思い性別を偽ったのか理由は明白だ。その判断は正しい。

 このような船で性別を隠し、どれほど気を張っていたことだろう。男に襲われたときなどは、ジンシンスには想像もつかぬほど怖い思いをしたに違いない。強姦されたゴッサムをあれほど気にかけるのも、正義感だけではない、女としての恐怖や共感を覚えたからなのだろう。

 これまで気づけなかったことが悔やまれる。

 あの小さな躰で、どれほどの苦労を背負っていたことか。本当にか弱い存在なのだ。衣装部屋に閉じこもり、誰にも知られないように今も震えている姿を思うと、胸が苦しくなる。

 医務室に向かいながら、記憶の扉を一枚一枚開くように、愛海の笑顔や泣き顔を思いだしては、押し寄せる愛おしさや呵責かしゃくに襲われた。

 シドがひとりでいることを確認してから、ジンシンスは詰め寄った。

「おい、まさか知っていたんじゃないだろうな」

「何の話ですか?」

「愛海のことだ。あの子の性別を、お前は知っていたのか?」

 ジンシンスは声を落として訊ねた。医者の顔を注意深く観察し、片眼鏡モノクルの奥から、翡翠めいた眸が愉快げな光を放つのを見逃さなかった。

「もちろん、医者ですからね」

「なぜいわなかった?」

「マナミの為ですよ。本人も隠しておきたい様子でしたから」

「俺にまで隠す必要があるか?」

「そうですねぇ、すぐに気がつくと思いましたから」

 ジンシンスは苛立たしげに眉をひそめた。

「あれほど短髪で、まさか女だとは思わなかったんだ」

「確かに私も驚きましたが、異国の文化なのでしょう。それで、愛海と今後の話をされたのですか?」

「いや……いまさら暴くような真似はしない。あの子に月の障りが訪れたんだ。本人も指摘されたくないだろう」

 シドは相槌を打った。

「早々に船長室に匿ったのは正解でしたね。マナミがこれまで無事で済まされたのは、図らずも貴方が目をかけていたからですよ。過保護が功を奏しましたね」

 全くだ、とジンシンスは頷いた。

「少年と勘違いしていたが、あの神経の細さだからな……守ってやらなくてはと思っていた。無理もない、愛海はよく耐えている」

「そうですね。落ち着くまで医務室の仕事は休むよう、伝えてください」

「ああ」

「女性に入用な品々を渡したいところですが、どうしますか?」

 ジンシンスは腕を組んで、唸った。

「俺もそうしたいが……いきなり不自然だろう」

「私から話しましょうか? 医者なら抵抗は少ないでしょう」

「いや、それだと俺の知るところと察して気まずい思いをさせてしまう。折を見て俺から話すから、少し待ってくれ」

「判りました。着替えは不要ですか?」

「ひとまず、新鮮な海藻や石鹸と一緒に、男物だが繻子の下着の替えを渡しておく。それくらいなら、病人の面倒の範疇だよな?」

「ええ。洗面所に、綿布の入った籠も置いておくと良いですよ」

「そうしよう。部屋に洗面所も暖炉もあるし、あとは本人の工夫に任せよう。判っていると思うが、このことは、くれぐれも内密に頼む」

「もちろんです。船長も気をつけた方がいいですよ」

「判っている」

 シドはじっとジンシンスを見つめた。

「あまり構い過ぎない方がいいという意味ですよ」

「馬鹿をいえ。これまで以上に気を配ってやらないといけないだろう」

 ジンシンスは鼻を鳴らすと医務室をでていった。

「……今だって十分過ぎるくらいだと思いますがね」

 のこされたシドは、ため息まじりにこぼした。

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