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異海の霊火  作者: 月宮永遠
3章:暗鬱な喚び声
29/42

27

 愛海はシドに呼ばれて甲板にやってきた。

 滑り止めの砂が蒔かれた甲板には、野戦病院よろしく、簡易天幕が設置されて電球が垂らされていた。

 金品は昇降口から船内に運びいれのさなか、頭部の潰れた亡骸なきがらを、船員が億劫そうに引きずっている。どうするのかちょっと立ち止まって見ていると、無造作に海へ放り投げようとしているのでぎょっとなった。

「マナミ! こっちだ」

 ぱっと振り向くと、シドが天幕から顔をだして、手をあげていた。

「すみません! 遅くなりました」

 愛海は慌てて駆け寄った。

「いや、きてくれて助かったよ」

「はい」

 天幕のしたでは、ホープがぐったりした様子で椅子に固定されていた。

「何があったんですか?」

「味方に散弾銃で撃たれたのだよ。すまないが、穿孔せんこう手術の手伝いを頼むよ」

「えっ」

なまり弾は頭蓋を貫通しているが、骨の破片を取り除いて、止血しなければならない」

 暫時ざんじの沈黙の後、愛海は命令に従う。胸に湧いた不安や恐怖を強引に捻じ伏せた。

「麻酔はもう打ってある。といっても意識はないがね。このあたりの頭髪を適当に剃ってくれたまえ」

 折りたたみ式の短剣を渡されて、愛海はぎこちなく頷いた。

 ――救う価値が、この男にあるだろうか?

 陰険陰湿な冷嘲屋の食人鬼だ。おかげさまで厨房の仕事は地獄だった。殺したいほど憎かった男が、今は全く無防備状態で、椅子に固定されている。手には短剣があり、殺すなら今しかないのだが、皮膚を傷つけぬよう慎重に髪を剃っている己ときたら意味不明だ。

「ありがとう、十分だ。すまないが、患部が見えるように照明を調整してくれるかね」

「はい、シド先生」

 愛海は細長い照明器具に手を伸ばした。真鍮製で氷みたいな冷たさだ。先端は漏斗じょうご型で、角度を調節できる。

 露わになった頭皮に光を当てると、シドは手際よく器具を固定し、片眼鏡モノクルの奥から、額から頭頂部に貫通している弾痕を覗きこんだ。

 彼が正確無比な手腕を発揮して破片をとりのぞく作業を、愛海はどこか淡々と眺めていた。ホープのような糞野郎でも血は赤いんだな、などと思う。

「やはり損傷が深いね。人工細胞を移植すれば、心臓は動くだろうけれど、深刻な後遺症が残るかもしれない」

 シドは全く深刻さを感じさせない、穏やかな調子で告げた。

 頭蓋に穿うがたれた孔と格闘しているのだから、相当な集中力を要するはずだが、がやがやと煩い甲板でも彼は落ち着いている。

 そう、甲板は今ごった返している。

 ちょっとは気を使ってほしいものだが、戦利品をさかなに葡萄酒で酔いしれる船員が酔歌すいかを放っていたり、“蝋人形”による“長包丁”の外科手術を見守る面々が、うわぁ、などといちいち悲鳴をあげているのだ。怖いなら見なければいいのに、おっかなびっくり興味津々で眺めているのだから不思議だ。

 愛海は寒さに耐えながら、照明器具の角度を細やかに調整していた。このまま立ち尽くしていたら凍え死にそうだが、シドはすでに止血を終えて縫合に入っている。

 医者を心から尊敬する。シドが悪辣な殺人鬼なのだとしても、今この瞬間は偉大なる熾天使だ。神の御業で、極めて複雑な技術と細心の注意をもって、正確に脳を切り開き、治療を施しているのだから。ホープにとってはまさしく救世主だろう。

 手術が終わると、シドは愛海をねぎらった。

「助かったよ、マナミ。どうもありがとう」

 愛海は感極まって、二度、三度、瞬きをした。

「先生こそ、お疲れ様でした。僕は本当に、先生を尊敬しています」

 愛海が目を潤ませていうと、彼は穏やかにほほえんだ。不意にあたりが静かになり、不思議に思って振り向くと、ジンシンスが天幕の外に立っていた。

「終わったか?」

「はい、ちょうど今……どうかされましたか?」

「迎えにきた」

 彼は一瞬、親しみのこもった笑みを愛海に向けた。あまりに魅力的だったので、目の錯覚かと疑ったくらいだ。

 あっという間に冷静な表情に戻ったジンシンスは、後片付けをしているシドに言葉をかけると、愛海の肩を抱いてとものほうへ歩き始めた。

「……あの、“ふたつ貴石”は見つかりましたか?」

 周囲にひとがいないことを確認してから、愛海は小声で訊ねた。

「残念ながら見つからなかった。ひとまず戦艦は繋留けいりゅうしたから、これから調査してみるさ」

 愛海は肩を落とした。

「そうですか……」

 絶望的に暗い声がでた。判っていたことだが、混淆こんこう海域を脱するのは容易ではない。

 突然、ジンシンスは愛海の両脇に手をいれて躰をもちあげ、片腕で抱きあげた。

「船長?」

「元気をだせ。諦めるには早い、明日もすべきことは多いぞ」

「はい」

 愛海は顔を赤らめた。彼の腕に抱かれた瞬間、不安や恐れが消滅したような気がした。ひんやりとした無毛の青い肌は、天鵞絨びろうどのようになめらかで、淡い燐光を放っている。

 思いがけず彼の美しさに心を奪われていると、いつの間にか船長室にいた。腕からおろされたとき、愛海はもう落ちこんでいなかった。

「あの、お怪我はありませんか?」

「ああ」

 怪我がないか素早く一瞥し、愛海は肩から力を抜いた。

「良かったぁ……」

 思わず手を伸ばして、ジンシンスの腕を撫でる。広漠とした海に勃然と戦艦が顕れてから、ずっと不安だったのだ。

 またしても胸の奥に奇妙な疼きを感じて、ジンシンスはぎくりとした。小さな指先を優しく掴んではがしながら、軽い自己嫌悪にひたる。

(この間からおかしいな俺は……一体どうしたというんだ)

「海底人は頑丈なんだ。そう簡単にやられたりしないさ」

 ジンシンスは椅子に腰をおろすと、深く長い息をついた。

「しかし、少々くたびれたな」

「食事をご用意いたしましょうか?」

「いや、出歩くな。ここにいろ」

 手首を掴まれて、愛海はどきっとする。ジンシンスを見下ろす格好になり、あることに気がついて自然と笑みがこぼれた。

「どうした?」

「髪に木屑がついています」

 そっと指が伸ばされ、海水青色かいすいせいしょくの髪にもぐりこんだ。その瞬間、ジンシンスの背筋に得体のしれぬ震えがはしった。

「ほら、とれましたよ」

 愛海は瞳を輝かせ、たのしげにいう。気がつけばジンシンスは、愛海の腕を掴んで己の膝に乗せていた。

「え?」

「え?」

 お互いに奇妙な顔をしていた。

「あのっ、何を?」

「愛海こそ、何をしている」

 愛海は真っ赤になり、慌てて膝からおりようともぞもぞ動き、よく判らぬ刺激をもってジンシンスを動揺させた。彼はきつく愛海を抱きしめ、動きを封じた。

「やめなさい」

「船長こそ!?」

 ふたりは同時に動きを止めた。ゆっくりジンシンスが腕を離すと、愛海はようやく膝からおりることができた。そして一歩離れて彼を見て、あることに気がついた。

「あれ? 船長?」

「今度は何だ」

「いえ、その……船長の躰の紋様が光っています」

 顔や肩の入れ墨のような文様が、淡い銀色に輝いている。その神秘的な姿に愛海は魅入った。

「ああ……放っておけばそのうちおさまるから、気にしないでくれ」

 己の紋様が発光していることに、今気がついたかのような口調だった。

「そうなんですか……」

 愛海はものめずらしげにジンシンスを見つめたまま、歩み寄った。身を屈めて、顔を近づける。

「おい……」

 ジンシンスは戸惑ったように声をかけた。

「触ってみてもいいですか?」

「は?」

 驚くジンシンスを見て、愛海は紅くなった。

「ごめんなさい、なんでもありません」

「いや……別に構わない」

「……じゃぁ、失礼します」

 愛海はそっと触れてみた。触れると、光の濃淡と色味が変化した。かくも神秘的な輝きに心を奪われずにはいられない。この美しいひとは、きっと海神の眷属なのだろう。姿は人に似ているが、尊い上位次元の存在に感じられた。

「不思議……すごく綺麗」

 ジンシンスは思わず愛海の手を掴んだ。

「船長?」

 唐突に、寝椅子に押し倒されて、愛海は目を瞬いた。叱られるのかと思ったが、熱を帯びた真剣な眼差しにたじろいだ。大きな手に頬を無でられ、正体不明の焦燥感に襲われる。くちびるのくぼみを親指で押された瞬間、めまいを覚えた。

 今すぐここを去るべきだ。理性はそう囁いているが、躰はすくみあがったように動かない。腕に抱かれながら、ジンシンスの熱が服越しに肌を焼く。どこまでも続いていく海のように碧い瞳が、暗く翳り、焔が揺れているように見えた。

 彼は、かすかにあけたくちびるを、愛海のくちびるに押しつけた。

 その瞬間、愛海は躰に電流が流れた気がした。初めてのキス――混乱しながらも胸がときめき、幸福感が押し酔せる。生まれて初めて知る、痺れるような快感だ。未知の感覚をもっと味わいたくなる。

 腕のなかでじっとしていた愛海だが、少しだけ強くくちびるがお押つけられると、息が乱れた。

「……赤くなってかわいいな、お前は……」

 ぞくっとするほど艶めいた微笑が、すぐ近くにある。夏を思わせる甘い香り、吐息の温度を感じられるほどに。

 何もいえない愛海に、ジンシンスがふたたびくちびるを塞いでくる。力なく肩を押すと、宥めるように、くちびるをそっと吸われた。

「ん……っ」

 小さな声が漏れてしまい、愛海は心臓が破裂するんじゃないかと思った。

 もうこれ以上は無理だと思い、顔を背けた。ささやかな拒絶だったが、ジンシンスは身を引いた。

「あの……その、ごめんなさい」

 声が震えていた。愛海は混乱のきわみにいたが、ジンシンスも動揺を隠し切れなかった。加虐心を煽られながら、小動物をいたぶっているような罪悪感に襲われていた。

「……そうだよな。悪い、誘われるているのかと勘違いした」

「えっ!? ……違います!」

「悪かった。だがふたりきりで、海底人を相手に紋様を綺麗だなんて褒めたら、何をされても文句はいえないぞ」

「すみません、わっ、僕、そんなつもりじゃなくて」

「判っている。だが、これに懲りろよ。俺は確かに庇護者だが……お前は、自分で思っているほど子供じゃないんだ」

「はい……」

 しゅんとなる愛海を見て、ジンシンスは困ったように笑った。

「怒ったわけじゃないぞ」

 ジンシンスは慈しむように黒髪を撫でると、しばらくそこで手をさまよわせた。大きなてのひらが愛海の頬を包みこみ、指先で耳朶を愛撫する。

 夕陽のように紅く染まる愛海から、名残惜しそうに手は引いていった。それから彼は、深く、長いためいきをついた。

「……はぁ、疲れているのかな……」

 抑揚のない声には、確かに疲労が滲んでいた。

「そうですよね。お疲れ様です、ゆっくり休んでください」

 その場を離れようとした愛海の手首を、ジンシンスは掴んだ。

(えっ?)

 愛海が顔をあげると、彼は目を細めて愛海を見ていた。

 目の底に熱情があるように思えて、愛海は戸惑う。視線を直視できずに、顔を俯けてしまう。

「……愛海も、ゆっくり休め」

「はいっ、そうさせて頂きます」

 解放された手首を、愛海はもう一方の手で掴んだ。そのまま逃げるようにして衣装部屋に飛びこんだ。

 ひとりになっても、動揺は静まらなかった。心臓がどきどきして、くちびるに甘いキスの余韻がのこっている。

(ジンシンスさん、もしかして少しは私のこと……)

 淡い期待が胸にきざしたが、すぐに打ち消した。彼のようなひとが、愛海に本気になるはずがない。第一、向こうは愛海を少年だと思っているのだ。さっきのキスだって、愛海をかわいいと思ってしたわけじゃない。きっとゴッサムのことがあったから、隙を見せるなと注意したかっただけなのだ。

 己にいい聞かせながら、落胆が胸に射すのを感じた。

 どうすればいいのだろう? 自制したいのに、彼の言動にいちいち一喜一憂してしまう。彼は愛海の偉大な庇護者だから、尊敬しているし、頼りにしている。それで満足すべきなのだ。

 毛布のなかで、愛海は薄い眉を寄せた。

 恋の感情に浮かれている場合ではない――ゴッサムを強姦した犯人は、クラムであることを早く告げなくてはいけない。

 それに伴う様々な問題が胸に渦巻いて……どっと疲労が押し寄せた。

 どうせ寝て起きれば朝だ。起きたら、厭でも気まずい瞬間に直面しなければならない。それが人生ってものだ。

 あくびが漏れる。束の間の安らぎを求めて、寝にいた。

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