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異海の霊火  作者: 月宮永遠
2章:グロテスク
21/42

19

 船員は、様々な不調を訴えて医務室を訪れる。

 切り傷、打撲、発熱、痔疾じしつ、吐き気、目眩、潰瘍かいよう、睾丸の腫れ。

 シドは、彼等に湿布や膏薬こうやく軟膏なんこうや香油を渡し、時には筋肉弛緩の手揉み療法や、針や灸治療、切開手術まで幅広く行う。

 酷い苦痛を訴える者には――時には物々交換に応じて――阿片チンキや麻酔溶液を提供したりもする。

 たとえ医者の正体が、嬉々として解剖するような殺人鬼であっても、彼の擁する広範な知識と適切な治療に彼等は敬意を払っていた。

 航海中の船のなかで、医者の権威というものは、船長に匹敵するほど大きいものだが、シドは、彼らに敬遠されたり頼りにされることに、特に興味はなさそうだった。仕事の一環、もっといえば、相手を被験体、肉の塊とみなしている節がある。

 冷たいといえばそうだが、愛海は、彼のそうした淡々としたところもお手本にしていた。

 というのも、医者の手伝いをするようになってから、男の股間や尻を目にする機会が多いのだ。体格の良い男ばかりなので、彼等の性器は異様に大きく見える。だらんと垂れた睾丸を初めて間近に見た時、赤面するのも忘れて見入ってしまったほどだ。黒ずんだそれは、肉体の一部に見えなかったのだ。

 我にかえってひっくり返りそうになった時、股間を丸だしにしている男にげらげら笑われた。

 要は、こちらが狼狽えるから向こうも面白がるのだ。相手をただの肉の塊だと思えば、股間まるだしで勃起していようが、膨らんだ亀頭がてらてら光っていようが、さほど慌てずに済む。

 ……うら若き十五の乙女としていかがなものかと思うが、この船で生き延びるためには必要な心構えだ。

 大変な面もあるが、それでも愛海は、人の役に立てることが嬉しかった。

 愛海が看病するうちに、男たちの態度も軟化する。最初はやれ死神だ疫病神だのと毛嫌いしていた男たちも、病気に罹ると、愛海の看護に感謝するのだった。

 なかには、躰は元気でも、精神的に落ちこんだ者がやってくることもある。とりとめのない話をしたがる者もいれば、ただ愛海の手を握って涙を流す者もいる。屈強な無頼漢が、寂しい、そういって泣くのだ。

 愛海は医師でも家族でもましてや伴侶でもないが、弱気になった彼等を慰めることはできる。

 切開手術の助手も二度務めて、だいぶ流血にも見慣れてきた頃に、またしても事件が起きた。

 ある夕方、黒檀こくたん色の肌の少年が入ってきた。

 見覚えのある顔だった。たまに船長室の給仕をしてくれる少年で、名前はゴッサムという。

 前から思っていたが、美しい少年だ。肌が黒い分、青みがかった銀髪と紫色の瞳が、際立って見える。いつも無表情で、彼が喋っているところを、愛海は一度も見たことがない。

 その無口さが、少年をいっそう神秘的に見せているのかもしれない。じっと船窓を眺めている姿などは、黒檀彫りの究極の少年像を思わせるほどだ。

「今日はどうしたのかね?」

 シドが訊ねると、ゴッサムは居心地悪そうに身じろぎ、愛海を気にする素振りを見せた。

「……尻が痛くて」

 ぼそっとつぶやいた。

 医者がズボンを脱ぐようにいうと、少年は医者を見て、それから愛海を見て、気恥ずかしそうにした。

「あの、僕は外にでていましょうか?」

 愛海は気を遣っていったが、シドは頸をふった。

「いや、ここにいなさい。こういう治療にも慣れてもらわなくては。ゴッサム、早くしなさい」

 急かされた少年は、渋々といった風に下着を脱いだ。

 嗅ぎ慣れた瀝青れきせいにまじって、思わず顔をしかめたくなる刺激臭が漂う。

 理由は明白だった。

 顕になった下半身を見て、愛海は悲鳴がこぼれぬよう、口元を手で押さえねばならなかった。

「マナミ、すまないが湯と清潔な布巾を何枚か持ってきてくれないか」

 ショックでたちすくむ愛海に、シドは至って冷静に、指示をだした。

「アイサー」

 愛海は返事をして、すぐに調理場に向かった。心臓は嫌な予感でどきどきしていた。

 彼の尻は、血と便にまみれて、ひどい有様だった。肛門まわりは変形しており、裂傷と潰瘍かいようの跡があった。

 年若い少年なのに、あんな風に痔を患ったりするだろうか?

 船員のなかに痔を患っている者はいるが、年嵩の男たちばかりだ。

 違う、痔ではない……強姦された? 誰に?

 未遂で済んだが、愛海も何度か船員に襲われたことがある。あの少年は、未遂で済まされなかったのでは?

 青褪めながら湯を持って戻ると、医者は手袋をして少年の尻のあわいを洗い、仄かな薄荷の匂いのする膏薬を、肛門周囲の裂傷に塗りつけた。

「愛海、そこの布巾をとって。これは処分してくれるかね」

「はい」

 愛海は、皮膚のしたで軽く神経が震えるのを感じながら、彼の作業を手伝った。

 嗚呼……かわいそうなことに、ゴッサムの肛門は変形してしまっている。一度や二度の強姦でこうはならない。現在も暴力に晒されている可能性が高い。

(ねぇ、誰にこんな目にあわされたの?)

 愛海は喉まででかかった言葉を、必死に飲みこんだ。日本で平穏に暮らしていた頃は味わったことのない、凄まじい、迸るような怒りだった。

(畜生。外道め、よくもこんなことができるな。許せない、許せない、許せないッ!!)

 拳を握りしめて、唇を噛みしめる。そうでもしないと、黙っているゴッサムに烈しく詰め寄ってしまいそうだった。

 治療を終えたシドは、少年に清潔な下着を与えた。

「終わったよ。私のものだが洗濯してある。これを着なさい」

 少年は、いわれるがまま着替えた。医者は彼に錠剤を与えた。

治す気があるなら(・・・・・・・・)、毎日ここへきなさい。薬をあげよう」

 少年がでていったあと、医者は汚れた下着と手袋、汚水の入った真鍮の鉢の置かれた盆を愛海に渡した。

「すまないが、片付けてくれるかね? 下着は焜炉で燃やしていいよ」

「……はい」

 愛海は質問を浴びせかけたい衝動を堪えて、硬い声で応じた。

 食堂にいくと人はまばらで、ちらほら視線をよこす者がいた。黙って壁側の焜炉へいき、焚き口を開けて、灼熱の石炭のうえに下着と手袋を放りこむ。汚物が燃えあがるのを確認してから、焚き口をしめた。

 それから甲板へいって、鉢の中身を海へ捨てた。

 やることを終えても、すぐにはその場を動けなかった。今さっき目にしたものが信じられない。空気の冷たさだけではなく、心の冷たさから全身が凍りつきそうになる。

(――あの子を助けてあげないと)

 少年のことを考えながら医務室に戻ると、医者は寛いだ様子で本をめくっていた。彼が全く動じていないことに、愛海は腹正しさを覚えずにはいられない。

「先生、ゴッサムは、虐待されているのではないでしょうか?」

「だろうね」

 医者が平然と肯定するので、愛海は目を瞠った。

「船長に報告した方がいいのではありませんか?」

「そうしたいのなら、すればいいよ。私は止めないから」

 他人事ひとごとのように、こともなげにいう言い方がしゃくさわり、いつも低姿勢な愛海にしては、次の言葉は棘のある口調になった。

「先生は気にならないのですか?」

「ならないね。君と違って、あの子は自分の面倒は自分で見られる年齢に達している。犯されたくないのなら抗うなり、助けを求めればいいのだよ」

 シドはまるで動じず、表情ひとつ変えない。唖然とする愛海に、彼は続けた。

「もし君が、ゴッサムが恣意しいに抗しきれない状況にあると思っているのなら、思い違いをしているよ」

「……なぜですか?」

「あの子は、戦争経験のある少年兵だよ。敵兵に限らず、原住民をみなごろしにした罪で、額に烙鉄やきがねを押されたんだ。精神的にも能力的にも、自分を犯した相手を殺害するくらい、造作もないはずだよ」

 愛海は、床底が抜け落ちるような錯覚に陥った。

 原住民をみなごろし――

 想像もつかない重罪だ。

 けれども、彼が虐待されているのは明白なのに、素知らぬ顔をする免罪符になるのだろうか?

 青褪めている愛海を見て、シドは諭す口調で続けた。

「マナミ。君はとても優しい子だね。礼儀正しいし、私は気に入っているよ。しかしだね、ここの連中に礼節を期待しても無駄だよ。君がやってくる前は、私刑や強姦は日常茶飯だったのだから」

 頭がおかしくなりそうだった。生来の美徳と正義感に罅が入って、何が正解か判らなくなる。

 沈黙が部屋を満たし、蕭条しょうじょうとした空気が流れた。

 潮騒の遠鳴りが、もの哀しく響いて聴こえる。

「……私に男色の趣味はないが、水夫は水の夫と書く通り、しばしば互いを海上の伴侶にするらしい。あの子が被害者かどうか、ここで我々が議論しても無駄なのだよ」

「あんなに血がでていたのに、暴力じゃないというのですか?」

「ここの船員は、加虐と被虐の向きが極端だからなんとも……私は被虐に興味ないがね」

 愛海は今度こそ絶句した。

 強い憤りと同情の念に支配されている愛海には、彼の凪いだ瞳が信じられない。思慮深いと思っていた翡翠の瞳が、今は、一切の感情を封殺した硝子のように見えた。

 どんなに温厚で魅力的に見えても、彼も真正の精神病質者であることを、あらためて思い知らされた気分だった。

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