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異海の霊火  作者: 月宮永遠
2章:グロテスク
20/42

18

 漂流四〇日目。

 愛海はシドの助手として働くことになった。医務室の手伝いを優先されて、早朝の甲板作業も免除されている。

 初めての仕事場に向かうべく、歩廊甲板を歩いていくと、ウルブスとジャンに遭遇した。

「マナミ!」

 にこやかな表情で近づいてくるふたりを見て、愛海も明るい笑顔を浮かべた。

「お早うございます!」

「おう、お早う。どこへいくんだ?」

「医務室です。今日からシドさんの手伝いをさせていただくことになりました」

「ええっ、大丈夫かよ?」

 ウルブスの驚きように、愛海は苦笑いを浮かべた。愛海自身も不安だが、やってみないことには始まらない。

「未経験ですが、頑張ります」

「そうじゃなくてよ、あの“蝋人形”と一緒に働くんだろう? 怖くねぇのか?」

「え? はい……」

 そういう心配はしていなかったので、愛海は笑顔のまま頷いた。

「あそこはの逸楽郷でもあるが、気持ちよくなって寝ている間に解剖されるって噂があるからな。気ぃつけろよ?」

 半分も理解できなかったが、愛海は愛想笑いを浮かべた。

「豚野郎もおとなしくなったし、なんなら厨房に戻ってきてもいいんだぞ?」

 ウルブスが親身な口調でいうと、愛海は、返事に詰まってしまった。

 確かに、ホープの支配が消えて、ジャンとウルブスがいるのなら、居心地はそう悪くないかもしれない。互いにくだらない冗談をいいあったりして、ジャンの無邪気な馬鹿笑いを聴きながら、配膳や皿洗いをするのは楽しそうだ。

 それでも――ホープの顔は見るだけでも厭だった。

 沈黙を察したように、ウルブスは微苦笑を浮かべた。

「……ま、いいけどよ。気ぃつけろよ?」

 分厚い大きな手が、愛海の頭を無造作に撫でる。はにかむ愛海に、ジャンも両手をぐっと拳のかたちに握りしめて、勇気づけてくれた。

 ふたりと分かれたあと、愛海は真っすぐに医務室へ向かった。ウルブスは心配していたが、シドは今日も感じのいい笑顔で迎えてくれた。

「お早う、マナミ」

 普段は左目に片眼鏡モノクルをしているのだが、この日は外しており、愛海を正面から見つめた。左目の焦点が右と少しずれており、彼が軽い斜視しゃしであることに、愛海は初めて気がついた。

「おはようございます。今日からよろしくお願いいたします。精一杯頑張ります」

「歓迎するよ。なにせ人手不足だからね」

 挨拶を終えると、早速、医務室のおおまかな説明を受けた。

 壁に固定された棚には、おびただしい数の薬瓶――アルコール漬けの蛇、蜜蜂、そのほか原型をとどめていない不定形の何か――がずらりと並んでいる。

 シドは、薬瓶を手にとり、或いは指さしながら、簡単な説明を添えてくれるのだが、一度ではとても覚えきれそうになかった。

 判らないなりに、記帳に書き留めようとする愛海を見て、シドはしみじみと感心した様子を見せた。

「君のような助手がきてくれて嬉しいよ。船員のなかには、人の話を書き留めようとする殊勝な男はいないからね」

 肯定するのも気が引けて、愛海は苦笑いを浮かべた。

 薬瓶の説明を聴き終えると、砥石でメスや鋏の刃を鋭くするよう、やり方を教わった。濡れた布巾で表面を綺麗に拭ってから、再び定位置にしまっていく。その作業を何度か繰り返すうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。

「さて、今日はここまでにしよう。お茶でも飲もうか」

 シドは朗らかにいった。

「いいんですか?」

 まだ昼なのに、と愛海は時計を見ながら訊ねた。

「構わないよ。終末の疫獣(リヴァイアサン)が静かにしている間は割と暇なんだ。さ、かけたまえ」

「はい……」

 椅子を引かれたので、愛海は素直に腰を落ち着けた。シドは扉のそとに“手術中”の看板をかけて閂をかける。愛海が不思議そうに見ていると、こう説明した。

「放っておくと麻薬中毒者がやってくるからね。邪魔されたくない時は、こうして封鎖しているのだよ」

「はぁ……」

 彼は、薬缶に火をかけて紅茶の支度を始めた。

「あの、患者はどれくらいいるんですか?」

「だいぶ減ったよ。海上で初めて終末の疫獣(リヴァイアサン)に遭遇した後は、四肢欠損や精神混迷をきたす者、極度の心悸亢進を訴える者で、連日大盛況だったんだがね」

 大盛況という言葉の使い方が間違っている気がするが、愛海は真面目な顔で頷いた。

「こんなに大きな船なのに、医者はシドさんおひとりなのですか?」

「全くだよ。まぁ、航海初期に船員の半数が死んで、終末の疫獣(リヴァイアサン)が出現してまた死んで、ここ最近は麻薬中毒者たちばかりやってくるね」

「えっと……麻薬を抜く治療もしているのですか?」

「いや、麻薬を吸いにやってくるのだよ。今更彼らが麻薬をやめたら、逆に死んでしまうだろうね」

「え……」

「元は心悸亢進を抑えるために鎮静剤を処方していたんだが、だんだん効かなくなってしまってね。まぁ、元から中毒者もいたけれど」

「はぁ……」

 治療を行う医務室で、麻薬を提供していいのだろうか?

「君にとってこの船は、逃げ場のない監獄なのだろうね」

 凍りつく愛海を見て、シドは微苦笑を浮かべた。

「失礼、皮肉ではないよ。しかしながら、平和に満ち足りた世界などは、幻想に過ぎないのだよ。海上生活が長びくと、陸を楽園と錯覚しがちだが、そこに人がいる限り悪と美徳とが混淆こんこうしている。自然に囲まれていたとしても、やはり永遠の安寧は期待できない。絶えず流動している自然のなかで、生物同士の淘汰に身を置くことになる」

 彼は何をいいたいのだろう。船も陸も、対して変わらないといいたいのだろうか?

「まぁ、この船が君にとって最悪であることは、否定しないよ」

 最悪といいつつ、彼が親しみのこもった微笑を見せたので、愛海もつられて笑みかえした。縷々(るる)とした説明は判り辛いが、恐らく、彼流の慰めなのだろう。

「……シドさんは、どうしてこの船に志願したのですか?」

終末の疫獣(リヴァイアサン)について研究できる、またとない機会だったからね。海の彼方にいながら、陸にいる人間の脳に作用することができるだなんて、実に興味深いよ」

「ジンシンスさんは人間が終末の疫獣(リヴァイアサン)の声を聞くのは危険だといっていましたが、研究可能なのですか?」

「うん、どうやら声の浸透率には個人差があるらしく、私には耐性があるんだ。蓄音機から何度も再生しているけれど、今のところまとも(・・・)だよ。元より常人と比べて感情の起伏が薄いから、変容し辛いのかもしれないね」

 穏やかな声で、シドは己を評した。

「耐性があるって、どうやって判ったのですか?」

 愛海は混淆こんこう海域に堕ちた時に一度聴いたが、あれ以来耳にしていない。獣は深夜に顕れるらしいが、愛海は大体眠っている時間帯で、衣装部屋にはジンシンスによる特別な防音魔術が施されている。

「幽閉されているときに、海洋から呼ぶ声を何度か聞いてね。他の囚人や刑吏が消えたり狂ったりするのを見て、私には耐性があると気がついたんだ」

「じゃあ、シドさんは直接声を聴いても、何も違和感はないのですか?」

「脳のなかを拓かれているような、奇妙な心地なら味わったよ。これまでに数えきれいないほど脳を開いてきたが、自分がそうされるのは始めての経験だったからね。とても新鮮だったよ」

 彼独特の斬新な視点である。愛海は獣の声を聴いたときは怖くてたまらなかったが、シドは少しも怖くなかったのだろうか? というより、このひとに怖いものはあるのだろうか?

終末の疫獣(リヴァイアサン)は、どうして次元を開くのだと思いますか?」

 思慮深い翡翠の瞳が、愛海をじっと見つめた。

「法則のない無秩序だといわれているが、全て自然の平衡作用なのだよ。広漠たる宇宙から、あのように巨大な生命体が顕れ、人類を脅かしているのは、自然淘汰という目的のためといえる。人類が生者必滅の摂理にあらがい、無謀にもこうして海へ繰りだしたところで、破壊は免れない。人間の歴史は、いつの時代においても衰亡と破壊の集積から、次世代の芽をはぐくんできた。星辰の運行のように、普遍の摂理なのだと私は考えているよ」

「……この航海は無謀だと思いますか?」

「少なくとも、我々の文明では解き明かせない存在を、排除しようという考えにおいてはそうだね」

「ジンシンスさんも同じことをいっていました。私が次元を飛び越えて元いた場所に戻ることは、本当に難しそうですね……」

 沈黙は肯定である。

 愛海はそっと視線を伏せた。胸にひんやりとした諦念が射したが、以前ほどには胸は痛まなかった。

 今日に至るまでさんざん泣いて、さんざん弱音を吐いて、危険なほどの自己憐憫に浸り尽くした。

 落ちるところまで落ちたのだから、あとはもう浮上するしかない。できることを、ひとつずつ見つけていきながら。

 数日も経つと、愛海はすっかり医務室に馴染んでいた。

 シドは極めて優秀な医者であり、その膨大な知識をもって、あらゆる国の深淵難解な医療専門書を原語のまま通暁つうぎょうせしめる天才だった。

 同時に恐ろしい殺人鬼であり、確かに医務室を訪れる船員のことも、人間というより研究対象を見るような目で見ている節があった。

 “蝋人形”にとって、人間の行動を研究することは、畢生ひっせいさきがけ。彼は殺人者の素質は遺伝により定められているという説を、否定している。

 源泉追求のために、最初は屍体を解剖していたのだが、そのうち検体不十分であると生きた人間を解剖するようになった。

 しかし彼にとって、己は殺人者ではないのだ。飽くなき探究者であれば、殺人も肯定されるという持論を展開し、老若男女三百名を殺害している。

 ――が、調理長の理不尽にさんざん苦しめられた愛海の目に、彼は天使長然として映るのだった。

 殴られない、罵倒されない、敬意をもって接してくれる職場の素晴らしさに打ち震えた。

 彼を心なき“蝋人形”とは思えない。礼儀正しく温厚で、機知に富み、広範な知識を擁する、話しているだけで癒される偉大な医者だ。ウルブスが聞いたら眉を顰められそうだが、愛海はシドが好きだったし、彼の元で医療を学ぶことにやりがいを感じていた。

 なかなか順調なすべりだしだったが、医務室勤務三日目にして、ちょっとした事件が起きた。

 診断に訪れた、醜悪な匂いのふたりの船員を見て、愛海は、ふと善行を思いついた。彼らの服を綺麗に洗って、甘い香りのする海藻でいいにおいにしてやろうと思ったのだ。

 ところが提案してみたら、片方の男に、盛大に眉をしかめられてしまった。

「俺たちが臭えっていうのかよ」

「いえ、そうではなくて……ただ、お洗濯できたらと思って」

「お洗濯だぁ?」

「アイ……あの、無理にとはいいません。すみません」

 愛海はすぐに前言撤回したが、男は目をつりあげて愛海に顔を近づけた。

「お前、俺のことを見下しているんだろう。臭くて汚い犯罪者だって思っているんだろう?」

「そんなこと思っていません」

 愛海は慌てて否定したが、男はかぶせるようにいってきた。

「嘘いうなよ、え? 臭くて悪かったな。服はこれしかねぇもんよ。事情も知らねぇ新入りが偉そうに”汚いから洗え”だ? 何様だよ」

「……すみません」

 愛海はすっかり萎縮して、男の顔色を窺った。悪意の針のような視線が、愛海を射る。

「俺が死刑囚だから、そんな口をきくのか?」

 男は、額の烙印を指差して訊いた。

「おい、もうやめろよ」

 薄汚れた格好の相方が口を挟むと、男は舌打ちをして、

「負け犬みてぇなつらしたって、俺は誤魔化されねぇぞ。マナミ、答えろよ。俺が死刑囚だから、そんな口をきくのか?」

「……違います」

 愛海は俯いたまま答えた。

「違わねぇだろ。お前みたいな高慢な糞餓鬼には、罰が必要だ。俺が鉄のくびきを負わせてやってもいいんだぞ。一生もんだ。その清々しい額に、傷が残るんだ。判るか?」

「君、その辺でやめておきなさい。マナミには強力な海の御加護があることを、忘れたわけではないのだろう?」

 見かねたようにシドが仲裁に入ると、男はようやく引き下がった。

「へっ、二度となめた口きくんじゃねーぞ」

 そう捨て台詞を残して、医務室をでていった。

 一瞬、部屋に沈黙が流れる。愛海は、一歩も動くことができなかった。

 残された船員が、悪い、と謝罪をくちにした。年恰好はさっきの男と似ているが、穏やかな眼差しには雲泥の差があった。

「……まぁ、いろんな奴がいるから……俺にはありがたい申しでだよ。服はこれしか持ってないし、大切にしたいんだ。繕いたくても、俺は指が太くて、針に糸なんて通せねぇしよ」

 彼の笑顔が、演技でないことは愛海にも判った。ぼろぼろになった心に、彼の言葉はいっそう沁みて、涙がにじみそうになる。

「ありがとうございます……僕でよければ、修繕いたします」

 愛海は丁寧にお辞儀をした。

 様子を見守っていたシドも、ほっとひと息ついている。

 彼のおかげでいくらか気分は浮上したが、一日の勤務を終えて船長室にひとり戻ると、再び落ちこんだ。

 窓辺で躰を丸めて、ぼんやりと濃霧の漂う海を眺めながら、昼間の件を反芻してしまう。わざわざ苦しい記憶に浸る必要はないのだが、愛海は生来、一度沈んだ気持ちを切り替えることが苦手だった。

 夜になり船長室に戻ってきたジンシンスは、薄暗い部屋で悄気しょげている愛海を見て、眉をひそめた。

「何があった?」

「ぁ、お帰りなさい……お疲れさまです」

「ただいま。明かりもつけずにどうした? 亡霊かと思ったぞ」

「すみません、ぼんやりしていました」

 へへ、と愛海はごまかし笑いを浮かべた。

 ジンシンスは訝しげな表情を浮かべたものの、そのときは、それ以上追及するような真似はしなかった。

 しかし、忘れたわけではなかったらしく、夕餉の席で再び愛海に同じことを訊ねた。

 すると愛海も今度は相談してみようという気持ちになって、ぽつぽつと昼間あった出来事を話して聞かせた。

「よかれたと思って声をかけたら、怒られて……なんだか釈然としなかったんですが、考え方は人それぞれだから、僕が押しつけがましかったのでしょうね」

「いや、清潔であることは規約にも書いてある。そいつは怠慢なうえに、偏屈なだけだろう」

 彼は、清々しいほどきっぱり断じた。

 正直なところ、愛海は胸のすく心地がしたが、あらわにはせず、真面目な顔でちょっと頷くにとどめた。

「連中をぴかぴかに保つことに関しては、俺も諦めている。魔術でできないこともないが、どうせすぐに汚れるし、面倒だからな。本人に身繕う気があれば、風呂も修繕室もあるんだから、どうとでもできるはずだ。それをしたがらない奴はもう放っておけ」

「……アイ」

「そう落ちこむな、愛海は悪くないよ。元気をだせ」

 無造作に頭を撫でられ、愛海はようやく笑顔らしきものを顔に浮かべた。

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