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異海の霊火  作者: 月宮永遠
2章:グロテスク
18/42

16

 翌朝。

 ジンシンスは愛海に船長室からでないよういいおいてから、甲板に全員を招集した。

 誰もかれもが、薄汚れた防寒服に覆面を着用しているから、肌は殆ど見えないが、目元のあたりは外気に接しており、肌の黒いの、白いの、茶色の、瞳の色も様々で、国籍とりどりの、雑然たる囚人船員の視線が最上甲板に立つジンシンスに集中した。

「俺はこれまで、船の規律に頓着してこなかった。だが、これからは違う。金輪際、この船で喧嘩、盗み、怠惰を禁ずる。特に弱い者を嬲るのは唾棄だきすべき所業だ。仮にも男なら、自分より強いやつに挑め。陰険な真似はするな。今後は、揉め事を起こした者には相応の処罰を与えるから、そのつもりでいろ」

 高い甲板からジンシンスが睥睨へいげいすると、不安そうな顔をする者、反感の眼差しを向ける者、様々だった。

「手始めに、愛海に乱暴した者たちを罰しよう」

 ジンシンスは冷厳に告げると、一方を見た。

「ベイブリーとパッサン、前にでろ。申し開きはあるか?」

 名指しされた船員たちに視線が集まる。するとベイブリーは赤銅色の顔を不満そうに歪めて、群青の瞳に敵意をにじませ、ジンシンスを睨みつけた。

「船長に、関係がありますかね」

 慇懃と傲慢がいりまじった声だった。場違いを指摘するかのように、侮蔑の色を慎重に滲ませて。実年齢はともかく、ジンシンスの外見が若いせいか、幾分舐めている節のある口調だった。

「お前たちが俺を海底人だと侮っていることは知っている。俺もお前らを無意味に同族を殺す、野獣にも劣る共喰い蛮族だと見下していた。事実、航海してしばらく、かつえた者が仲間の屍体を喰っている姿を目にしたとき、ほら見たことかと嘲笑っていたくらいだ。だが、俺は間違っていた。人間全てが、救いようのない愚者ではないらしい。これからは、もう少し真面目に統括しようと思う」

 ベイブリーは鼻を鳴らした。

「真面目に統括って、どうやるんでさァ?」

 男の挑戦的口調に対して、ジンシンスも口角を歪めた。

「鞭打ちで懲らしめてやったというのに、なかなかいい度胸をしているな。死に方を選ばせてやるよ。極寒の牢と死の舞踏、どちらがいい?」

 玲瓏れいろうな刃物のかがやきを宿した視線が男を射る。

 怒りに燃えた眼差しを受け止めながら、ジンシンスは昂然とつけくわえた。

「どちらを選ぶにせよ、もしお前が生き残ることができたのなら、お前が船長を名乗るといい。船長室も明け渡してやる。金銀、真珠に瑠璃もくれてやろう。どうだ?」

 男の狡猾な目がきらりと輝いた。

「その言葉、忘れないでくださいよ」

「もちろんだとも」

「なら、死の舞踏だ」

 ベイブリーは、死の舞踏、すなわち細い舳先での一騎打ちを選んだ。

 尚、極寒の牢は、舳先から垂らした檻に素っ裸で一晩入る刑のことで、一日で釈放されるとはいえ、生身の人間が防寒具なしに一晩もつはずもない。事実上の死刑である。それよりは、剣をとって抗うことを選んだのだ。

 船を少し動かし、舳先から餌がばらまかれた。血の匂いに惹かれて、おびただしい数の肉食魚が集まってくる。

 剣に貫かれても死、海に落ちても鮫の餌になる。細い足場の闘いに逃げ道はない。

 処刑場が整うと、ジンシンスは細い舳先の上を歩いた。その後ろにベイブリーが続く。両者は向きあうと、剣を構えた。

 研ぎ澄まされた緊張感が甲板に充ちて、水を打ったように静まりかえった。

 一拍おいて、甲板長が船鐘を鳴らした。

 果敢にもベイブリーからしかけた。躊躇のない、鋭い突きを続けて繰りだし、ジンシンスを舳先へと追いつめようとする。

 だが、三度目の突きをジンシンスが受け流すと、ベイブリーは平衡を乱した。

「ぅわッ」

 短い悲鳴をあげて、態勢を整えようとする。彼の準備が整うまで、ジンシンスは追撃をせずに泰然と待っていた。

「この野郎ッ」

 ベイブリーは悪罵あくばを吐くと、ふたたびジンシンスに飛びかかった。

 がむしゃらに見えて、細い足場の剣戟けんげき故に、逃げようのない必殺の攻撃に見えた。

 しかしジンシンスは、巧みに剣を受け流し、或いは身を屈めて、全ての攻撃をかわしきった。さらに稲妻のように剣を閃かせ、大腿を切り裂いた。

「ぐッ」

 冷えた空気のなか、血が蒸気のように霧散して、ベイブリーの顔は苦痛に歪んだ。

 命を懸けた闘いに、見守る囚人船員たちから歓声があがる。

 誰もベイブリーが勝てると思っていなかった。

 ふたりの力量差は歴然としていたが、ジンシンスはすぐに勝負をつけようとはしなかった。致命傷を与えず、少しずつ流血させながら、相手の体力を奪い、緊張感を煽り、ジンシンスには絶対に勝てないのだという絶望感と、死への恐怖をゆっくり植えつけた。

 少しずつ、ベイブリーの眸から闘争心が失われていった。息を乱しながら、少しも息を乱さないジンシンスに困惑し、恐怖を覚えずにはいられない。

「どうした。もう終わりか?」

 冷静にジンシンスが訊ねると、ベイブリーは苦しげに息を喘がせた。

「もう、降参だ。俺の負けだ。もう許してくれ」

「だめだ」

 死の舞踏に中断は赦されない。一度始めたら、どちらかが死ぬまで続けるのだ。観衆からも罵声があがる。

「戦え!」

「逃げるんじゃねぇ!」

「突っ立っててもしょうがねぇだろ!」

「戦え! 戦え!」

 あとには退けない空気に、ベイブリーは奥歯を噛み締めた。

 疲労と苦痛は限界に達しようとしているが、逃げることは許されない。もはや覚悟を決めて、さがりそうな両腕を叱咤し、剣を構えるほかなかった。

 ――諦めるな。

 自らを鼓舞する。相手は脅威の海底人とはいえ、防具をまとわぬ、上半身は裸の無防備な姿だ。心臓を狙うのはたやすい。さっきから一度も成功しないのは、彼の驚嘆すべき身体能力のせいだ。休む間もなく、攻撃を繰りだすしかない。

「おおッ!」

 裂帛れっぱくの気迫と共に、ベイブリーは全身全霊を懸けて攻撃を繰りだした。

 突き! 突き! 突き!

 舳先にジンシンスを追いつめていく。次の突きで、相手の足場を奪える。勝てる――ベイブリーの血潮は勝利を確信して沸きたつ、一刹那いちせつな、ジンシンスは、巧みに突進するベイブリーの頭上を軽々と飛びこえた。

「「えぇッ」」

 甲板はどよめきわたる。

 ベイブリーは頭のなかが真っ白になった。心臓を串刺しにしたはずの手ごたえがない。相手の足場を奪うはずが、逆に己の足場がなかった。

 ベイブリーの躰が宙に浮いた。手を伸ばすが、掴むものもなく、極寒の海に落下した。

「――助けてくれッ!」

 ばしゃばしゃと海面を撥ねさせながら、ベイブリーが必死に助けを叫ぶ。

 甲板から眺めおろす船員に、助けようと動く者は誰もいない。彼は海上の決闘に敗れ、もはや死ぬ運命なのだ。

 捕食者に喰いつかれたのであろう、ベイブリーから苦痛の悲鳴があがった。彼は全身の力を振り絞って、懸命に奮闘していたが、その声も次第に小さくなっていった。

「がっ、ひ、だすけて……ッ」

 死にゆく者の哀れな悲鳴は、海面を吹きすさぶ風にかき消された。海面の撥ねる音も間もなく聞こえなくなった。群がり集まった捕食者たちによって、海底に引きずりこまれたのだ。

 残酷な処刑が終わったあとで、ジンシンスはパッサンを振り向いた。

「次はお前だ。極寒の牢と死の舞踏、どちらにする?」

 パッサンは、恐怖が毒のように躰に回るのを感じた。屍人のように青ざめた顔で、全身を木の葉のように震わせながら、

「お赦しください。二度とマナミには近づきません」

 覆面をさげて、掠れた声で謝罪をした。呼吸が浅いのか、白い蒸気が口から絶えず噴出される。やすりで磨いたように尖っている歯が、かちかちと震えているのが見てとれた。

「謝罪は不要だ。口頭訓戒も鞭打ちも通用しないようだからな。極寒の牢か死の舞踏か、今ここで選べ」

「どうか御慈悲を! 俺は絶対にマナミに近づきません」

 とうとうパッサンの眸から、涙があふれでた。膝をついて、許しを請う姿は、憐れを極めた。

「改心するのが遅すぎたな。諦めろ」

 ジンシンスが断じると、パッサンの顔に絶望の影がさっとよぎった。

「そんな、あんまりだ。俺はマナミに何もしていませんよ! ちょっと足を掴んだだけだ!」

 必死に訴えるが、ぴくりとも表情を変えないジンシンスを見て、しまいにはパッサンも口惜し気に唸った。

「だけど、アルバートは!? あいつは鞭打ちで済まされたのに、俺は処刑なのか!?」

 パッサンは血走った目でアルバートを睨みつけた。

「お前は、最も唾棄すべき行為、弱者を狙って強姦しようとしたからな……しかし、お前のいい分にも一理ある。死の舞踏を選択するのなら、その相手は俺かアルバートか、好きな方を選んでいい。どうする?」

 パッサンは渋面をつくったが、話の引きあいにだされたアルバートは表情を変えなかった。

「……アルバートだ」

 指名されたアルバートは底冷えのする眸で、パッサンを見据えた。同僚のよしみもへったくれもなく、互いに殺意のこもった視線が行き交う。

「では、ふたりとも武器をもって舳先へいけ。先頭はパッサンだ」

 ジンシンスの指示に従い、ふたりとも剣を抜いて舳先に向かった。

 両者の準備が整ったのを見て、甲板長は船鐘を鳴らした。

 殺しあいが始まると、周囲から無責任な野次の声があがった。

 ジンシンスは静観しながら、遠くから愛海が見ていることに気がついていた。船長室のバルコニーの梯子を登って、天辺から見下ろしているのだ。

(やめておけばいいものを。また眠れなくなるぞ)

 胸に苦い想いがきざしたが、ジンシンスは制裁を中断したりしなかった。履行すると決めたからには、徹底的にやらなくてはいけない。

 パッサンは始めこそ萎縮していたが、いざ闘いが始まると、死に物狂いの無我夢中でアルバートに踊りかかった。

 急所を狙った攻撃に躊躇いはない。それはアルバートも同じで、パッサンの目や首、頭を執拗に狙っていた。

 互いに殺人罪で死刑判決を受けている極悪囚人である。胸の底に、狂猛な戦闘本能を宿しているのだった。

 勝負は互角に見えたが、時間が経つにつれて、アルバートの優勢に傾いた。

 パッサンの右目から鮮血が飛び散った。剣先が瞼をかすめたのだろう。たたらをふみ、今にも落っこちそうな際どい様子に、観衆から悲鳴ともつかぬ驚嘆の声があがる。

 このとき、パッサンの心臓は狂ったように鼓動していたが、不思議と思考は冴えていた。腰を落として、冷静に平衡を戻す。

 間一髪でパッサンは落下を免れたが、アルバートは追撃の手を緩めなかった。身体能力の限界を感じたパッサンは、剣を完全には避けようとはせず、肩を掠めるのに任せながら、アルバートの腕を掴んだ。

 アルバートの茶色の眸に、驚愕の色が浮かんだ。パッサンの意図を察して、彼を突き離そうと試みるが、遅かった。

 ふたりは脚をもつれさせ、そのまま海へ落ちた。

「ああっ!」

 観衆から悲鳴ともつかぬ声があがる。

 海に落ちたあとも、アルバートはパッサンの頭を押さえつけるが、パッサンはアルバートを離そうとはしなかった。地獄への道連れにしようとしているのだ。

「どうします?」

 甲板長は訊ねたが、ジンシンスは頸をふった。

「ふたりとも海に落ちたのだから、ふたりとも負けだ」

 誰も助けようとしない甲板の様子を見て、アルバートの顔が怒りと絶望に歪む。パッサンは血濡れた顔で、アルバートだけを見ていた。

 ふたりの周囲に鮫が群がり集まり、血飛沫をたてて、海底にひきずりこもうとしている。

 残酷な晩餐を、船員たちは無感動に黙って眺めていた。なかには余興を眺める目で見ている者もいた。

 間もなく海面が静かになると、ジンシンスは甲板を振り向いた。

「次はお前だ、ホープ。前にでろ」

 甲板がしんとなる。

 まさか、再び死の舞踏か?

 はりつめた緊張のなか、群衆を割って、淡々とした表情のホープが顕れた。

「料理人は貴重だから、できれば殺したくはない。だがお前の言動は目に余る。だから呪術を施すことにする」

 ジンシンスが古いまじないの言葉を唱えると、掌から黒と青の光の筋が伸びた。それがホープの足首にからみつき、さしものホープも無表情を崩して怯えをみせた。

「なんだ、これは」

「反護魔術の一種だ。お前がひとを傷つけると、その傷は全てお前に跳ね返る」

 唖然とするホープの肩に、ジンシンスはぽんと手をおいた。

「料理人は貴重だからな。試してみてもいいが、死ぬなよ(・・・・)?」

 ホープは眉間に皺を寄せ、ぐっと拳を握り締めた。みぞおちを狙って繰りだされる一撃を、ジンシンスは避けなかった。見事に決まったように見えたが、呻いたのはホープの方だった。腹を押さえながら、ジンシンスを睨みあげる。

「畜生、どうなっていやがる」

「俺への攻撃が反射したのさ」

「そんなことできるはずがねぇ。奇妙な技を使いやがって」

 ホープは腰帯から短剣を抜くと、腰を落として構えた。

「好きなところを刺していいが、急所はやめておいた方が身のためだぞ」

 ジンシンスは鷹揚に両手を広げてみせた。ホープは訝しげな表情を浮かべたが、戦闘の構えを解きはしなかった。

 横腹を狙った閃きを、今度もジンシンスは避けなかった。

 短剣は確かに彼の横腹に突き刺さったので、周囲から驚嘆の声があがった。しかし、膝をついたのはホープの方だった。

「ぐッ」

 手から短剣をこぼして、両手で腹を押さえている。

「納得したなら、シドに縫ってもらえ」

 ジンシンスがいい放つと、周囲から皮肉げなささめき笑いが起きた。ホープは囚人船員からも嫌われている男だった。

 がっくり項垂れるホープの姿は、亡霊のように果敢はかなく、弱弱しい。

 彼は生まれてはじめてといってもいい、恐ろしいまでの無力感に襲われていた。どんな困難も切り開いてやるという、一種勇猛な気概をぽきりとへし折られたのだ。

 公開懲罰が落着したところで、ジンシンスは手を鳴らした。

「今日はこれで終わりだ。今後も規律を破った者には容赦しないから、忘れるなよ」

 ジンシンスに視線が集中する。平然と受け止めながら、彼は、好戦的な笑みを浮かべた。

「文句のある奴は、いつでもかかってくるがいい。だがまぁ、俺は強いぞ」

 威圧するように腕を伸ばすと、轟然ごうぜん! 右舷の殆どすれすれのところを、五十メートルはあろうかという水柱が突如おこった。

 船員たちは恐れおののき、畏敬の眼差しでジンシンスを見た。

「愛海には海の加護がある。あの子に何かあれば、海神の逆鱗に触れると思え」

 甲板がしんとなる。もはや誰も反駁はんばくを唱えようとはしなかった。

「苦言を並べたが、俺に従うことで、お前達にも旨味はあるはずだ。終末の疫獣(リヴァイアサン)を片付けた暁には、お前たちの王から借りた船を返すついでに、お前たちの恩赦について口添えしてやろう。保釈金にたりうる宝石類も渡してやる。自分たちの命を買い取るには、十分過ぎる額になるだろう」

 囚人船員たちの瞳に、狡猾な光が灯った。ジンシンスの言葉を吟味するように黙りこんだ。

 保釈金を払う相手が生きていればいいがな――ジンシンスは胸に思ったが、余計なことは口にしなかった。

 公開処刑が終わると、船員たちは淡々と仕事に戻った。同僚の死に、特別な感慨を抱くような彼等ではない。それどころか、余興が終わってしまったとでもいいたげな、どこか残念そうな顔をしていた。

 密かに見物していた愛海も梯子をおりて、船長室に戻った。

 窓辺の長椅子に腰を落ち着けると、窓の向こうを眺めながら、断罪の光景が頭から離れなかった。

 舳先の闘いは遠すぎて見えなかったが、甲板の様子はかろうじて見えた。

 パッサンは、舳先にいく前に、ジンシンスの前で膝をついて赦しを請うていた。しかし舳先の方へ歩いていき、その後は戻ってこなかった。ベイブリーとアラバートもだ。

 舳先から生還したのは、ジンシンスひとりだ。それから彼は、今度はホープといい争いをしていた。ホープが武器を手に構えた時は肝が冷えたが、膝をついたのは、ホープの方だった。

 かすかに聴こえたジンシンスの言葉は、にわかには信じ難いものだったが、彼のいった通り、ジンシンスに加えた危害は全てホープに跳ね返った。

 苦悶する姿は見ていて怖かったが、正直なところ、いい気味だった。ベイブリーとパッサン、アラバートも、処刑されたのだとしても、元をたどれば自業自得なのだ。

 ……そう思う一方で、冷たく断罪する己を少し恐ろしく感じる。

 憂悶に沈めば食欲も失せて、夜になっても、紅茶しか飲まなかった。ジンシンスと顔をあわせるのが気まずくて、早々に衣装部屋に引きこもって横になっていたのだが、控えめに扉をノックする音に起こされた。

「愛海。いるのだろう? 開けてくれ」

 返事を躊躇ったが、無視するわけにもいかず、起きて扉をあけた。しかし彼の目を見ることができず、顔をちょっとあげて、彼の首飾りの中心あたりを見つめた。

「悪い、寝ていたのか。体調はどうだ?」

「……大丈夫です」

「そうか。少し話せるか?」

「あのぅ……今日はもう、寝ようと思って……」

 そそくさと逃げこもうとする愛海の腕を、ジンシンスは掴んだ。

「こっちを向いてくれ」

 愛海は視線を伏せがちにして振り向いた。肩からこぼれる青い髪に目を注いでいると、顎に手をかけられた。

「俺を見ろ」

 愛海の顔が強ばる。ジンシンスは顔を近づけて、愛海の目を覗きこんだ。

「制裁を見ていただろう」

 疑問符のない疑問口調だった。愛海は後ろめたくて、視線を逸らしてしまう。

「そんな風に怯えると思ったから、見るなといったんだ」

「ごめんなさい」

 手が離されたので、愛海は手を胸の前で組みあわせた。

 ジンシンスは困った、という様子で髪をかきあげ、ため息をはいた。

「そう怖がるな」

「……」

「お前には何もしないよ」

「はい」

 愛海はあとずさりしたいのを懸命に堪え、一歩も引くまいと頑張った。なにかいわなければと焦るが、何も思い浮かばない。沈黙が辛くて、視線を伏せることしかできない。

「……それでは、失礼します。おやすみなさい」

 今日はこれ以上は無理だ。

 扉をしめてひとりになりたいのだが、ジンシンスは動こうとしない。どうしよう……視線を泳がせていると、青い肌の腕が伸ばされ、抱きしめられた。

 むきだしの腕の感触に、愛海の心臓はどくんっと大きく鼓動を打った。

「……うまくいえないんだが、愛海に怯えられると……なぜだろう、捕まえたくなる」

 心臓をどきどきさせながら、愛海は彼の放った言葉の意味を考える。捕まえたくなるとは、どのような心境が彼をそうさせるのだろう。闘争本能? いや、狩猟本能だろうか? 逃げるものを追いかけたくなるような?

「……震えているな」

 耳元で囁かれて、愛海はびくっとなる。指摘された通り、全身がさざなみのように震えている。

「違うんです、躰が勝手に震えて……すみません。ジンシンスさんが怖いわけではないんです」

 ジンシンスは愛海をだきしめた。

「判っている。お前には酷な光景だっただろう。俺もできることなら、制裁なんぞしたくはなかった。だが、連中に釘をさしておく必要があったんだ」

「……はい」

「俺は冷酷に見えたかもしれないが、絶対に愛海を傷つけたりしない。他の誰にも……俺からも守ってやりたいと思っているくらいだ」

 愛海は黙って頷いた。

「今夜は一緒に眠ろう」

「えっ?」

 ジンシンスは戸惑う愛海の躰を抱きあげると、有無をいわせずに己の寝室に運んだ。

 褥におろされた愛海は慌てて身を起こすが、ジンシンスがのしかかってくる。

「えっ、あの!?」

「こうしていれば、そのうち震えも収まるだろう。俺にも慣れることだろうし、効率がいいな」

(えええぇぇッ!?!?)

 どのような思考回路で、そのような結果に至ったのだろう?

 愛海は逃げ道を探すように視線を彷徨わせたが、たくましい腕につかまり、胸に引き寄せられてしまった。

「こら、暴れるな」

「で、でもっ」

「大丈夫だ。何もしない」

「わっ、ちょ……ジンシンスさん!」

 腕のなかで、愛海は混乱の極地を味わった。抱きしめられて、髪を撫でられ、頭のてっぺんにキスをされて、色々されている。

「それにしても、お前は寝るときも、着こんでいるよな」

 ジンシンスはおもむろに上着のあわせに指をかけた。愛海はぎょっとして、ぱっと襟のあたりを両手で掴んだ。

「寒いんですっ」

「人間は難儀だな。こうすると暖かいか?」

 ジンシンスは愛海を背中から抱きしめ、腰を引き寄せた。ありえないほど躰が密着して、愛海はぶわっと顔が熱くなるのを感じた。

「ちょ、くっつきすぎですって」

「寒いのだろう?」

「布団にくるまっているから、だい……」

 大丈夫、といいかけたら、再び服に手をかけられた。

「なら上着くらい脱げよ。寝辛いだろう」

「うわっ」

 慌てて愛海が襟を押さえると、ジンシンスは裾に手をかけて、めくりあげようとする。互いにそんなつもりはないのに、着脱をめぐる攻防がよりによってしとねで勃発し、愛海はパニックに陥った。

「うぅ、脱がさないで……いつもこの恰好で寝ているんですぅっ」

 殆ど涙目で訴えた。するとジンシンスも手を離して、愛海の顔を覗きこんできた。

「おい、泣くことはないだろう……いや、俺が悪かった。愛海の好きにしたらいいさ」

 頭をぽんぽんと撫でられ、愛海は頷いた。控えめに腰に腕を回されるが、何の思惑もない慰めの仕草だったので、愛海も躰から力を抜いた。

 じっとしているのに、心臓がどきどきしている。神経がたかぶり過ぎてとても眠れないと思ったが、背中越しに伝わる安定した鼓動に、不思議な安らぎを覚えた。

 人を容赦なく痛めつけた手が、こんなにも優しい慰めを与えてくれる。厳しい一面をもつひとだけれど、愛海には、このうえなく頼りになる庇護者だ。

(……もう、ホープは誰も傷つけることはできないんだ。あいつらも皆消えたんだ)

 深い安心感に満たされて、愛海は全身を弛緩させた。短髪を大きな手に撫でられる。優しく甘やかされている感覚のなか、ゆるゆると穏やかな眠りに落ちた。

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