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異海の霊火  作者: 月宮永遠
1章:異海
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10

 杖がなくても歩けるようになると、ジンシンスは船のなかを案内してくれた。

「この船はだいぶ懐古的だろう? 三百年前の大陸の船型を復元したもので、殆ど木材で造られているんだ」

 昇降階段をおりきったところで、ジンシンスがいった。

「古い船なんですか?」

 船の最下層をもの珍しげに見まわしながら、愛海は訊ねた。

「いや、骨董船ではあるが今回が処女航海だ。船舶博物館に展示されていたものを、海に運んで着水させたんだ」

「博物館? 実用的な船じゃないということですか?」

「そうだ。皇帝は最新鋭の軍艦をよこすといってきたが、鋼鉄の塊は好きじゃなくてね」

「どうしてですか?」

 帆船より軍艦の方がよっぽど頑丈ではなかろうか?

「鋼鉄船は沈没すると後始末が面倒だからさ。その点、木材は分解しやすくて大変結構」

 愛海は苦笑いした。今も船に乗っているのに、沈没だなんて縁起でもない。

「博物館に展示されていた船を、よくもちだせましたね」

「まぁな。皇帝も終末の疫獣(リヴァイアサン)には苦心惨憺(さんたん)していたから、解決してやるという俺の要求を飲むほかなかったのだろう」

「そうでしたか……木材だと強度は低いのかもしれませんが、確かに優美ですね」

 ダマスク柄の羽目板で覆われた壁を眺めながら、愛海は関心した様子でいった。

「この船は、人間史における黄金大航海時代に実在した豪華帆船“トゥール・リーフ号”を模して作られたものだ。船首の名板にもそう書いてある。戦闘向きの船ではないが、俺が乗っている限り、古強者ふるつわものにも最新鋭にも負けやしない」

 その表情は自信に充ちて泰然としている。心配するな、という言葉は彼の口癖かもしれない。どんなに不安な状況でも、彼がそういうからには万事問題ない気がしてくるから不思議だ。

「この間の大嵐の時、少しも揺れなかったのは、船長のおかげですか?」

 彼はにっと笑った。

「そうだ。それに、あちこち改造しているから、もはや軍艦より頑丈だ。爆雷は積んでないがな」

 最下層の第四甲板には、船の心臓部である機関室のほかに、工具室、制帆室、共同の浴室や洗い場があった。先日ドンファンが愛海を呼びだそうとしていた場所が、今判明した。

「ここにくることは殆どないだろう。浴室も洗い場も船長室に完備されているから、これからもそちらを使うといい」

 親切な申し出に、愛海は感謝をこめて頷いた。

「ありがとうございます。そうさせて頂きます」

「よし。次は倉庫だな」

 そういって彼は昇降階段をひとつ昇り、第三甲板に愛海を案内した。

 窓のない細い木造通路の左右には、無数の扉がある。そのひとつを、彼は開いてみせた。

「船倉だ」

 大小様々な樽や木箱が整然と並んでいる。

 意外なことに、湿気はまったくなく、みずみずしい檸檬と海藻の匂いがした。

「空気が新鮮ですね」

 愛海が感心した様子でいうと、ジンシンスはほほえんだ。

「湿気は大敵だからな。乾燥粉で床や壁を磨いてあるんだ」

「へぇ~……」

 と、けたたましい動物の鳴き声が聞こえて、愛海はぎょっとなった。

「ああ、きじだ。第三甲板には、食料や木材の保管庫のほかに、家畜の飼育場がある」

「家畜までいるんですか」

「ああ。ちょっとした菜園もあるぞ。海上では、何もかも自給自足だからな」

 彼は、感心しきりの愛海をひとつうえの二階層に案内した。

「第二甲板は医務室や食堂のほかに、船員の寝床がある。御覧の通り、汚い」

 今までに見てきたなかで、最もごちゃっとした部屋だった。広さはありそうだが、とにかく物が多い。おびただしい数のハンモックと荷で溢れかえっている。

 それから匂いも酷い。酒精と阿片チンキ、えた燻製肉、鯨油げいゆ、精液と尿、わだかまった葉巻の煙の匂いがした。

 日中で皆仕事しているのだろう。誰もいない状態でこれだけ視界が煩いのだから、男たちが群がり集まったら、腐乱したにしんの缶詰と化しそうだ。

「定期的に掃除させているんだが、あっという間に肥溜めになる。ここで眠れるか?」

 ジンシンスに訊ねられると、愛海は蒼白な顔で頸を左右に振った。船長室の衣装部屋を貸してくれた彼に、いまさらながら感謝の念を抱いた。あらゆる意味で、彼は命の恩人だ。

「命が惜しければ、ここには近づくな。用がある時は俺にいえ」

「アイサー」

 真面目な顔と声で愛海が応えると、ジンシンスは大きな手を、ぽんと愛海の頭に置いた。

「心配するな。連中もうかつな真似はしないだろう。先日の公開懲罰は、なかなか効果覿面だったからな」

 慰めの言葉にしては物騒だったが、愛海はかろうじて笑みらしきものを浮かべた。

 彼がどんなに親切でも、あの荒くれ無頼漢たちの船長なのだ。紳士な一面だけでないことは判っている。それでも愛海にとっては、命綱のような存在であることに違いはない。

 それから船首の方へ歩いていき、医務室と通路を挟んで反対側にある食堂に入った。

「ここが食堂だ」

 男たちがまばらにいて、長机に突っ伏していたり、仲間と談笑していたり、思い思いに寛いでいた。

「士官室もあるが、うちじゃ物置部屋と化している。船員は皆“ごった返し部屋”で食事をとるし、俺は人間のように頻繁に食事をする必要はないから、ここにくることは殆どない」

「私もここで食事をして良いですか?」

 ジンシンスは微妙な顔つきになった。

「落ち着いて食事をしたければ、やめておけ。これからも船長室で食べていい」

 ふとジンシンスは思わしげな顔つきになり、じっと愛海を見つめてきた。

「前に働きたいといっていたが、今も同じ考えか?」

「……はい、お願いします」

 愛海は少し躊躇ったが、ジンシンスの目を見て返事をした。

「判った。厨房はこっちだ」

 ジンシンスは躊躇いなく、食堂の奥にある木製扉を開いた。

 厨房は想像以上に広かった。壁際と中央にかしの作業机が配置され、火の灯された炉には大きな鍋がかけられている。

 奥の丸窓から曇天の空がのぞいており、その横のたるきに干し肉や、紐に通した玉葱に大蒜にんにく、香辛料の束などが吊るしてあった。

「ホープ」

 ジンシンスは、鍋をかきまぜている男の背中に声をかけた。

 振り向いた男は、扁平へんぺいな顔立ちの、焦茶色の短髪に薄灰青の眸をしている。あまり凶悪そうには見えないが、額に死刑囚の烙印があり、腕まくりしたシャツから覗く肌には厳つい刺青いれずみが彫られていた。

「彼が調理長のホープだ。ホープ、この子は愛海。明日からここで世話になる。面倒を見てやってくれ」

「アイサー」

 男は抑揚のない声で答えた。

 一切の感情を封殺したような薄青の双眸が、愛海を冷たく射抜いた。

「よろしくお願いします」

 愛海は緊張に強張った顔で、ぺこりとお辞儀をした。

「まだ脚は完治していないから、座ってできる作業をやらせてくれ」

「アイサー」

 ホープが淡々と応える。

「愛海も、無理はするな。何かあれば、船長室に戻ってくればいい」

 もしかしたら、すぐに船長室に引き返すことになるかもしれない……そう思いながら、愛海は小さく頷いた。

 厨房をでたあとも、ジンシンスは第二甲板を案内してくれた。この階層には目を引く部屋が多く、図書室や遊戯室といった、共同施設もあった。

 第二甲板を端から端まで見終えると、最後に昇降口から上甲板にあがった。

 鉛色の曇天のした、濃い霧がでていた。視界は悪く、大洋にいるはずなのに、水平線はとても見通せない。

「寒っ」

 凍てつく空気が肺に流れこんできて、躰がぴーんと強張る。

「大丈夫か?」

 ジンシンスが心配そうに訊ねた。

「はい……」

 彼こそ大丈夫なのだろうか? 極寒の暴露甲板で上半身裸でいられるジンシンスが信じられない。

 がっしりした肩や幅広い胸板、隆々と盛りあがる筋肉、余分な肉がいっさいない腹部のすべてが、外気にさらされている。彼でなければ、肉体美を自慢しているのかと疑うところだ。

 彼は、己の美しさに無頓着な様子で、腰を屈めて愛海の目を覗きこんだ。

「俺が抱きかかえてやろうか?」

 顔が赤くなるのを感じながら、愛海は頸を振った。

「いえ、平気です。少し馴染んできました」

 吐く息が白い。喋るたびに肺が凍りつきそうだ。

「そうか。では、船首まで歩くぞ。少しの間辛抱しろよ」

「はい」

 船首には、上甲板のさらに高所に設けられた船橋ブリッジがある。ちなみに、船尾には船長室を含む高級船室がある。

「夜のうちに甲板は凍りついてしまうから、滑って怪我をしないように、毎朝手の空いている船員総出で磨いている」

「上甲板全てをですか?」

「そうだ。船首から船尾までの三五〇フィート、歩けるところは全て磨く」

 船縁ふなべりからしたをのぞくと、巨大な帆船が太洋の白波を蹴立てて進んでいる様子が、かろうじて見えた。

 船は主帆柱メイン・マスト中檣帆トップスルを張ったまま西進しているようだが、帆桁のうえの方は、霧のなかに溶け消えてしまっている。

 船首に向かって歩いていくと、濃霧から急に人影が顕れるので、愛海はびくっとなる。こんなにも視界が悪いと、眼前に巨大な氷塊が顕れたとしても、気づかずに激突してしまわないだろうか?

(タイタニックみたいに……いやいや縁起でもない)

 頭をひとつ振ると、愛海は注意深く甲板に目を凝らした。

 甲板では船員が行きつ戻りつしていて、短艇たんていや牽引用の吊索ちょうさくを点検したり、捕鯨用のつなりあわせたり、漁業器具や武器の補修をしている。

 彼らに対して、だらしのない印象を受けていたが、意外にも勤勉な労働者のようだ。誰も彼も手際よく、一流の船乗りに見える。

 三五〇フィートはなかなか歩き甲斐があった。

 船首に到着すると、ジンシンスは船員が勝手にあがることを赦されない、上甲板のさらにうえへ続く梯子を昇った。頑丈な木製扉を開けて屋内に入ると、細い通路に幾つか扉があり、彼はまっすぐ奥の部屋に向かった。

「ここが船橋ブリッジだ」

 広い部屋で、大きな硝子窓があり、舵輪と見慣れぬ精密機器――気象観測用の気圧計、温度計、水温計、精密時計、通信用管楽、望遠鏡、羅針盤、嵐を告げる暴風鏡、信号用の手旗などがずらりと並んでいた。

 部屋にいた船員はジンシンスに挨拶をしたあと、訝しげに愛海を見た。

 怖くて目をあわせられない。愛海は軽くお辞儀をすると、ジンシンスの背中に隠れて部屋を観察した。

「ここは操船に関する指揮所だ。航海当直が常駐していて、船全体にいき届く伝声管がある」

「伝声管って、船長室にあるのと同じですか?」

 愛海が訊ねると、そうだとジンシンスは頷いた。

「広域伝声管は各層の要所にしつらえてある。医務室にもあるぞ」

「なるほど」

 以前ドーファンが連絡してきた洗い場にも、伝声管がしつらえてあるのだろう。

 壁に新旧の世界地図が貼られていて、中央の卓にも硝子の天板の下に大きな海図が敷かれている。興味深いが、ちんぷんかんぷんだ。ただでさえ海図の見方を知らないのに、異海のそれは奇怪な暗号にしか見えなかった。

「俺が船長室にいないときは、大体ここか、その隣の通信室にいる」

「了解です」

「隣は海図室と通信室だ」

 船橋ブリッジをでて、左右の部屋を順に開けてみせてくれた。どちらも窓がなく、通信室の方は、ごちゃごちゃした通信器具で埋め尽くされていた。

 そこで見学は終了となった。

 船尾の屋内廊下に戻る頃には、驚くことに半日が過ぎていた。

「ざっとこんなところだな。何か質問はあるか?」

 最後にジンシンスが訊ねると、ちょっと考えてから、愛海は手をあげた。

「あの、通信室では他の船と連絡を取れるのですか?」

「まあそうだな」

「でも、この船は漂流していると聞きましたが、どこかと……港と連絡をとることは可能なんですか?」

「いや、残念ながら今は無理だ。愛海を拾った日、あの大嵐の後から連絡がとれなくてな」

「えっ、壊れちゃったんですか?」

「そうではない。基地の方に問題が起きたか、或いは、混淆こんこう海域の磁場が影響しているのかもしれない。今調査しているところだ」

「……そうですか……」

 肩を落とす愛海を見て、ジンシンスは励ますようにその肩を抱き寄せた。

「ぅわっ」

 力強い腕に引き寄せられて、頬が彼の素肌に密着する。ぶわっと赤面症が顕れるのを感じて、愛海は視線を泳がせた。

「確かに漂流はしているが、死ぬわけじゃない。この航海が永遠に続くわけじゃないさ」

「……はい」

 この船で百名を超える船員が共同生活を送っているようだが、確かにこれだけの設備があれば、当面の間は何不自由なく生活していけそうだ。

 それでも、なるべく早く陸を拝みたいと思ったが、口にだすのは我慢した。

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