07 新大陸の入口にて
俺達は森の奥へ慎重に急ぐという矛盾をこなした。
俺はもちろん上陸を果たした自衛隊第二次調査隊に見つかったら捕まって強制送還されるし、自衛隊を辞めて怪物に戻ろうとしている元潜入捜査官の永里も見つかったら具合が悪い。いつまでも海岸に留まってグズグズできなかった。
永里の先導で奇怪な雰囲気の森の中を小走りに進む。
別世界からやってきたという森だが、基本的な植生は地球のものと同じだ。地面があり、落ち葉や枯れ枝が敷き詰められ、凸凹した太い根が蛇行しながら張り出している。生い茂る枝葉に遮られ空は見えず、樹冠の隙間から差し込む木漏れ日で息継ぎをするように小さな草むらが点在する。
まさしく深い森林地帯。典型的な大森林だ。
しかし枝を踏んで音を立てないよう注意しながら足早に通り過ぎる中で異物感が拭えない。異国情緒、場違い感。新学期に新しいクラスに入って見慣れないクラスメイトに一斉に見られたような、そんな浮足立つ感覚だ。
ただの森だが細かい部分が違う。うっかり踏んだ枝が枝ではなくガラスが折れるような硬質な音を立てたりだとか。
息を整えるために一度立ち止まり手をついた木の幹が生暖かく柔らかかったりだとか。
俺達に驚いて飛び去って行く小鳥は嘴と顔が無かったように見えた。
目に映るもの全て大雑把な原型は地球のそれと同一で、しかしどうしても見逃せない差異が積み重なり空気感を捻じ曲げる。
この世のものではないモノたちが現実を装っている。
取り繕いきれない不気味さは曰く付きの古物を扱っている薄暗く埃っぽいエキゾチックな老舗に似る。
俺は背筋を這い上る恐怖とゾクゾクする楽しみを同時に味わった。
ああ、これが冒険なのだ。
人智の及ばない未開の地で俺は危険を犯し冒険している。
生きている。退屈な日々を何年分も凝縮した一瞬を走っている。
「崖だ。坊坂くん、空間歯舌で一気に上に行こう。そうすれば一息……何か面白い事でも?」
切り立った崖を前に立ち止まり、目を細めて見上げていた永里は俺を見て訝し気に言った。
「ん?」
「笑っているじゃないか」
「泣いてるよりいいだろ」
「いや、そういう話ではないんだけど」
いいやそういう話だ。笑って楽しむ余裕があるのは良い事だ。それが窮地、危険の渦中であればなおさら。永里はまだまだ人類への理解が浅いと見える。
空間歯舌を軽く握り、切っ先で空間を円形になぞってワープゲートを開く。
崖上の高所を取り、森の梢を透かして後方を確認する。浜辺の自衛隊はテント設営と周辺警戒に人員を集中させていて、追手らしい追手は来ていない。
ホッと一安心するが油断は禁物だ。
設営中のテントは本格的で、海辺の木々の枝を伐採し、地面を掘って柱を立て、塹壕まで作る気合の入りっぷり。迷彩服は森に溶け込み一体化して、森と砂浜の境界で哨戒している自衛官の何人かなどは危うく見逃すところだった。
迅速に拠点を作り地固めを終えた自衛隊は、強固なバックボーンを元に探索の手を広げるだろう。先行して逃げているリードがどこまでもつか。
奴らは新大陸調査を目的とした第二次調査隊なのだから、俺一人を追うために全人員投入はしないだろうが。
俺は自衛隊の追手と新大陸に潜む脅威の両方に対応しつつ探検して戦利品を蒐集しなければならない。分かってはいたが面倒な状況だ。
密航を最後まで完遂できていればまさに今自衛隊がやっている荷下ろし設営のどさくさに紛れてコッソリ誰にも悟られず離脱していた。そうなれば追手はかからず、対応するのは新大陸の脅威一つで済んだ。
もっとも最後の最後で密航がバレ逃亡したおかげで永里杏という案内人に出会えたのは不幸中の幸いだ。前向きに行こう。
「作業進捗からの推測だが、自衛隊は短くても1時間は追って来ないと思う」
「うん。こちらも推測だけれど、私の目的地は約1600km先にあるようだ」
俺が後方の報告をすると、永里は前方の報告を返してきた。
永里は崖の上で足を肩幅に開いて立ち、右手を地面と水平に真っすぐ前に伸ばし指を二本立てて遠方を睨んでいる。五本の指を代わる代わる立てたり曲げたりしながらぶつぶつ言った。
「いや1500かな? 1400は切っていない……1800には届かない……やっぱり1600kmとしておこうか」
「見ただけでそんなに正確に分かるのか?」
「一応計算しているよ。ただの手技測量だけど」
「…………?」
ピンと来ない俺に永里は丁寧に説明してくれる。
「長さが分かっている二つの物を比較する事で距離を割り出すんだ。ほら、遠くにある物ほど小さく見えるだろう? 遠くの物に指を重ねて見ればどの程度小さく見えているかの倍率を割り出せる。それからその倍率を対象の長さに掛ければ距離を算出できる。例えば10メートルのクジラが5メートルに見えれば倍率は2倍だから、対象の長さ×倍率=10×2=20となり、クジラが20m先にいると分かるわけだ」
「あー、三角測量みたいなもんか」
「当たらずしも遠からずだね」
永里は苦笑いした。馬鹿にすんなよちゃんと分かってる。要は比率を使った算数だろうが。コツが分かれば小学生でもできるだろう。
しかしこいつ、世界移動する超文明出身の割にアナログな小技に詳しいな。
永里が遠望していた「私の目的地」とやらを見てみると、森の中から突き出した山があった。それもただの山ではない。円筒のような縦長の形をした歪な黒い高山だ。山頂は雲に届かんばかりで、この大陸に散在する山の中でも一番標高が高い。だいたい大陸の中心部にあるようで、そういう意味でもよく目立つ。
なるほどこいつは確かにランドマークにはもってこいだ。山を取り巻いて飛んでいる小さな影の群れは巨鳥か噂のドラゴンか。
「あそこまで行くなら1600kmを一日40……いや未舗装勾配地として20kmか、一日20km進んでも80日かかるぞ。事故、怪我、病気、悪天候による遅れを考慮すれば100日はカタい。本当に行くつもりか」
「もちろんだ。私は十年もの間ヒトの体に押し込められ耐え続けた。今更100日程度なんでもないさ。あの場所に行けば必ず私は元に戻れるのだから」
そう言って拳を握り頬を紅潮させる永里は意気軒高で、苦難の道のりへのモチベーションは十分だ。言ってしまえば単なる物見遊山な俺と違い、永里は行かなければならない重い理由がある。
素直に応援したくなる。くっついていけば何も分からず手探りで右往左往するより遥かに効率よく珍品貴重品を蒐集できるだろうし。
「それに君が好きそうな宝物もあるよ。原則的に中心部に近づくほど希少性や効能は上がっていく」
ハッと思い出し慌てて付け加えた永里に軽く頷く。心配しなくてももう着いていくと決めた。借りがあるし貸しもある、乗りかかった舟。言葉を借りれば運命共同体。拒否されない限りは一緒に1600kmの旅路を共にするつもりだ。
「よし。目的地は分かった。ルートはどうする?」
「もちろん直進する。最短距離だよ」
「直進だぁ? 新大陸はコンパス効かないって話を聞いたんだが。迷うだろ」
「うん。だから太陽と影の方向が頼りだ。最悪木に登ってあのランドマークの位置を確認しながらそこに向かえば迷いはしないさ」
「魔法でなんとか」
「ならないね」
「新大陸って永里の世界から来たんだろ。このへんの地理は知らないのか」
「さてね。私が出身世界の事をなんでも知っていると思ったら大間違いだよ。君だって地球について知らない事だらけだろう?」
それはそう。
俺だってオーストラリアとかアフリカの地理は分からない。日本の地理も怪しいぐらいだ。
とはいえ全くノープランで直進するのは不安があったので、先人の知恵を借りる事にした。永里がパチった服に入っていた手帳の出番だ。第一次調査隊の調査結果のいくらかでも分かれば嬉しい。
二人で顔を寄せ合って薄汚れた手帳のページをめくる。
角がすれ使い込まれた手帳のページの最初の方は自衛隊の仕事のメモが散発的に書き込まれていた。略語が多くほとんど意味は分からない。辛うじていくつかの地名と人名が読み取れるぐらいだ。永里は普通に文字を目で追っていたから知識があれば分かる内容に違いない。
中盤からは俺にも分かる内容になった。この手帳の持ち主は新大陸に上陸してからのアレコレについての備忘録としてこれを使っていたようだ。
注意すべきもの、任務時刻メモ、帰国したら食べたい料理リストなどなど。情報量は多いが読み解くのには苦労する。そもそもが本人だけ分かるように書かれたメモであって他人に見せるようには書かれていないのだから仕方ない。
手帳の主は俺とは着眼点が違うらしく、新大陸で見つけた葉っぱや木の実、木の根の特徴と味や香りや食感について特に詳しく書かれ文章量も多かった。どうでもいい。もっといい感じの形した枝とか面白い色の石とかデカくて綺麗な骨とかそういうヤツの情報書いとけ。食べ物なんて携帯食料で十分だろうが。
手帳の後半は遭難と困難の記録だった。
部隊員が日を追うごとに一人また一人と欠けていく。見張りの歩哨に立っていた隊員が消える事もあれば、数秒前まで談笑していた相手がほんの一瞬目を離した隙に忽然と消えた事もあったようだ。
消える前には悲鳴が残ったり、正体不明の足跡が残っていたり、はたまた何の痕跡も残されていなかったり。一人だけでなく数人まとめて煙のように消えたり、形容しがたい奇怪な怪物に同僚が丸のみにされる場面が目撃されたり。襲撃に規則性はなく、襲い来る驚異は一つではなく複数だった。
メモ帳はメモ帳であり、事態の推移を事細かに記した日記ではない。
それでも書かれた文字の端々から計り知れない恐怖と憔悴が伝わってきた。
その一端は俺にも共感できる。鱗クジラに飲み込まれるような恐ろしい体験を何日何十日にも渡って味合わされ続けたのだ。俺と違って現地ガイドもいない全くの未知の中で。
発狂しなかっただけで賞賛ものだ。
最終的に手帳の人は一人になり、毎夜寝床の周りを徘徊する怪物たちの物音や不快な異臭に耐えきれなくなったらしい。武器を手に打って出る計画の書き込みを最後に記録は途絶えた。
「……でも俺には永里がいるもんな?」
読み終わり、自然と縋る口調になってしまう。
生々しい遺言めいた記録に自分の末路を見た気がして他人事ではない。
改めてとんでもない場所に来てしまった。一国の軍事を預かる精鋭集団が一矢報いる事すらできず全滅。別次元からの来訪者は文字通り次元が違った。
「この人、第一次調査隊を襲った敵の正体とか対処法とかさ、永里なら分かるんだろう?」
念押しする俺に永里は命の危機などまるで感じていないかのように全く冷静に、あっさり頷いた。
「いくつかは。記録が抽象的だったり不正確だったりで分からないものも多いけれど。差し当たって、この近辺にいる最も危険な生物は」
そう言って永里はページを捲り、隅に書かれた一文を指でなぞった。
『雷が落ちる音を甲高くしたような音
雷? リズムあり 短・短・遠吠え3拍子くり返し
追記:四人消えた 絶叫あり』
「これだね。鳴き声から察するに、いわゆるドラゴンというヤツだ。獰猛で狡猾。目をつけられたら逃げられないと思っていい。鳴き声が聞こえる範囲に入った時点で既に非常に危険だ。注意しよう」
「ドラゴンか。鱗欲しいな。角でもいい、いや爪がいいか?」
「鱗クジラにしたみたいにやるつもりかい? 言っておくがドラゴンはクジラよりずっと短気で怒りっぽい。鱗なんて剥がしたら、まあ、口にするのもはばかられる結果になるだろう。絶対にやらないように」
「OK分かった、分かったよ。鳴き声が聞こえたらすぐに逃げるさ」
疑り深く眉根を寄せる永里に両手を上げて降参する。
そしてその姿勢のまま凍りついた。
鳴き声がしたのだ。遠くからこちらに近づいてくる鳴き声が。
雷が落ちる音を甲高くしたような、短く二回、長く一回のリズムで繰り返される、鳴き声が。