06 上陸
俺と永里は危うく永遠の牢獄になりかけた鱗クジラの背を離れ、素早く静かに岸に向かって泳いだ。少しでもサーチライトの明かりから隠れるために頭を低くし、おかげで鼻に海水が入ってむせるが我慢だ。
この霧の中でソナーや通信機器が動作不良を起こすのは周知の事実で、容易に船舶の座礁や衝突を引き起こす厄介な特質ではあったが、今回ばかりはありがたい。目視以外で俺達を見つけられず、霧で目視も難しいのだから。
波間に紛れて泳ぎ切ればまず大丈夫。
波打ち際から産卵にやってきたウミガメの如く這いずって砂浜に上陸した俺達は、腰を低くして素早く移動し砂浜を越え木立の陰に隠れた。念のために打ち上げられていた得体の知れない海藻を引きずり回し砂浜についた足跡も消しておく。痕跡は少なければ少ないほどいい。自衛隊にも新大陸に潜む謎の脅威にも見つかりにくくなる。
隠蔽工作を終え、大樹の根元に腰を下ろす。白っぽいカビともコケともつかない地衣類を樹皮にまとわりつかせた木はずいぶん歳をとっていた。幹は中に相撲取りが隠れられるぐらい野太く、枯れかけ垂れ下がった枝ですら俺の胴回りぐらいの太さだ。渦巻き形に葉脈が走る奇怪な葉っぱには毒々しい紫の斑点が浮いていて、模様なのか病気なのか判断しかねる。
新大陸は別世界からやってきたという。病気持ちだとしたらそれは別世界の病気だ。別世界の病気に感染したら流石に終わりかな、と恐怖に慄きつつも本能は正直で、手が勝手に枝先の芽がついた細いところを折ってポケットに押し込んでいた。
ま、大丈夫でしょう。
新大陸は大陸というだけあって広大で、端っこに上陸しただけで全景はとても把握できない。
白い砂浜からは浜植物の群落を挟んで鬱蒼とした森が広がっていて、どうやら広大な森を抜けた先には富士山のような円錐形の山があるようだ。木々の樹上には鳥が群れを作って飛び、その鳥の遥か上空を厚い雲が覆っている。雲と霧の白いベールに包まれた新大陸の陸地内は外周と反比例するように見通しがよかった。
開けた視界の中を冷え冷えとした陰鬱な寒々しい風が吹いていて、海と森の臭いがいりまじった空気を運んでいる。
人工物の気配はない。ここでは何もかもがトレジャーだ。
ついでに足元の砂混じりの土もすくいとって瓶に詰める。この土はただの土じゃない。別世界からやってきた新大陸の土なんて月の砂を遥かに超える希少価値だ。コレクターなら喉から手が出るほど欲しがる逸品。家族を売ってでも欲しがる奴だっている。これで俺も家族を売って喉から手を生やさず済んだというもの。
やりたい事をやり終えまた木の陰から海辺を見るが、まだ霧の向こうから俺達に続いて誰か上陸してくる様子はなさそうだった。一安心。上陸を見咎められ無かったと思われる。
自衛隊精鋭の捜索力も案外大したことはない。しょせん奴らも人間か。人外を味方につけた俺の勝ちで決まりだな。
一人で頷き、首を引っ込め振り返ると、永里が服を全部脱いでいた。
「ウワーッ!」
「にゃっ!?」
悲鳴を上げると永里は驚きしりもちをついた。
とっさに顔はそむけたが動悸が止まらない。水の滴るいっそ芸術的なまでに美しい体の曲線や見る機会など無かったはずの色々が余すところなく鮮明に目に焼き付いてしまった。
なんで? なんで全裸になった?
「なにやってんのなにやってんのなにやってんのおまわりさーん! 痴女です! バカ! おっまえ状況分かってんのか!?」
永里に背を向けたまま声を潜めて詰問する。
すると水を絞る音と共に永里は冷静に答えた。
「濡れた服をいつまでも着ていたら命にかかわるだろう。気化熱という仕組みがあってね、水は蒸発する時に熱を奪って物を冷やすんだ。寒中水泳で冷えた体を気化熱で更に冷やすと深部体温が危険域まで下がり活動能力が低下、最悪死に至る事もある」
「…………。OK分かった。分かったけどもうちょっとこう、隠すとか一声かけるとか。あっち向いててって言うだけでも」
落ち着いた穏やかな声色で諭され怯んでしまう。
状況を分かっていないのは俺の方だった。こんな危険がいっぱいのワンダーランドで急に色気づいてる場合か、なんて思った俺の方が色気づいてた。
そうだよな。恥ずかしいとか裸はえっちだからダメですとか言っていたら破滅するのが冒険サバイバルだ。くそっ、恥ずかしがったのが恥ずかしい。
「…………? ああそうか。君は男で私は女だったね。すまない、普段から気を付けているのだけど人間の性差による行動変化規則は忘れがちで。正直未だに人間の男女を見分けるのにも時間がかかるぐらいなんだよ、どうか許して欲しい」
「さようで」
振り返らないように全意思を総動員しながら相槌をうつ。世の女性諸氏が聞いたらブチ切れそうだ。誰よりも女性らしい顔立ちに女性らしい体つきをしているクセに女性と男性の違いが分からないとぬかす。異世界人(?)ってのはみんなこうなのか。
「うん。もう振り向いて大丈夫だよ」
しばしの衣擦れの音の後、ややあって振り返ると永里は小奇麗な迷彩服に着替えていた。といってもシワが寄り血の跡がついてはいるのだが、粘液まみれ汚れまみれ穴だらけでボロ布同然だった前の服よりずっといい。
だぶだぶの上のシャツだけ着て下をはいてない事を除けばバージョンアップと言えるだろう。
動揺する。
どうした? 今度はどうした? 極限まで短くしたワンピースみたいになってるけどどうした? パンツ見えそうっていうかパンツは履いてるのかそれ?
俺は平然として堂々と腕組みをしている永里に対抗意識を燃やし何も気にしていない風を全身全霊で装いクソ真面目に聞いた。
「下の服は?」
「要らない」
「なんで?」
俺の素朴な疑問に永里は嫌そうに迷彩柄シャツの端をめくった。
「服は嫌いでね」
オメーには羞恥心ってもんがないのか? お前に無くても俺にはあるんだからやめーや。ずっとそんな調子だと大変な事になるぞ。全般的に。
「私の種族は服を着る習慣が無い。外皮だけで十分なんだ。まあ体に泥や土を被ったり植物を生やしたりする奴もいるからそれが服といえば服なんだけれど」
「服は嫌か」
「人間の服を着ていると『お前は人間なのだ』と突きつけられている気分になって惨めなんだよ」
可愛らしい女性の皮を被った哀れな触手生物は心底惨めそうにこぼす。一応、その言い分で納得はした。
似た事例に聞き覚えがある。20世紀に遭難し三カ月を孤島で生き延びた冒険家の実録文献によれば、「最後の服を失い全裸になった時、文明から見放され自分が人間でなくなるのを感じた。銃を失い、聖書を失っても揺らがなかった正気が服一枚で崩壊の危機を迎えた。野獣も同然の惨めさに打ちひしがれ泣いた」。
つまりその逆。服を失った人間が屈辱に震えるように、服を着せられた永里は屈辱に震えるのだ。永里にとっては服を着ているのが異常で、全裸こそが普通なのだ。
なるほど、まったくもって道理だ。永里に服を着ろという方が失礼なのかも。世界が違えば文化も違う。
とはいえここは地球で、俺は人間で、だから目のやり場に困る。
息苦しい胃の中から解放され、ひと泳ぎして汚れも落ちた永里は鮮烈な生気を放っていて、瘦せ衰えた痩身も活力が漲っているおかげで見違えた。
命がけの冒険サバイバルで思春期の少年じみた青臭いエロだなんだを持ち出す方がアホだ。冒険家とは男女も種族も超越し、ただ純粋に冒険家である。しかし悔しいが俺はアホだから、気にすまいと努力しても気になってしまう。
「まあ、なんだ。下も着てくれ。さっきまで着てたボロいのでもいいから」
「嫌だ。君は私の事情をもう知っているだろう。いまさら人間に擬態する必要もあるまい? 私は十年も耐えたんだぞ、いい加減に解放されたい」
「おい正論で殴ってくんな。反論できないだろバカ」
永里は言う事なす事いちいちもっともで、口では勝てそうもない。
ので、実力行使に出る事にした。投げ捨てられていた永里のボロ服を拾い、携帯裁縫セットを出し急造の切り縫いをする。俺の家庭科5の実力にひれ伏せ。
永里の手帳に描かれていた触手怪物=自画像は怖すぎてよく覚えている。それを思い出しつつ、俺は長く裂いて縦ロールに巻いた布をズボンに縫い付けていく。長さも測っていない、仮縫いもしていない雑仕事だがこんなものだろう。
「これならどうだ。永里の自画像に寄せてみた」
出来上がった触手仕様ズボンを永里に投げ渡す。
受け取った永里はズボンを見ながらしばし呆然として、それからズボンを抱きしめ、ゆっくり柔らかな笑顔を浮かべ礼を言った。
「ありがとう。君は優しいな、坊坂くん」
「いいから気に入ったなら着てくれ」
学習した永里は俺の目の前で着替えはせず、木の反対側に一度隠れて衣装替えをした。
着替えて出てきた永里は思ったより良かった。触手に見立てたうねるヒダを縫い付けたズボンはもはやズボンに見えず、どこかの民族衣装のヒラヒラしたスカートといった風情。触手と言われれば触手に見えてくるが、エキゾチックスカートといえば余裕で通るぐらいには服の体を成している。
うむ、我ながら良い仕事をした。あんまり冒険向きの服じゃあないがそれはそれ、なんとかなるだろう……
……そこで俺はおかしな点に気が付いた。改めて永里の全身を見ると確かに変だ。
「ちょっとまて。お前新しい服なんて持ってなかっただろ。その新しい上着はどこから出した?」
永里は着の身着のままで、小奇麗(比較的)な迷彩服の上着なんて持っていなかったはずだ。元々着ていたボロ服は上下を合体させスカートに変えてしまっている。今着ている迷彩柄だぼだぼTシャツはどこから?
「そこから」
「そこ?」
永里が指さした茂みを覗くと、放射状に草が倒れた地面の中心に赤黒いズボンが落ちていた。夜露に濡れ水を含み重くなったズボンを指先で引っかけ拾ってみると、赤黒い欠片がボロボロ崩れる。
かなり古いが、血痕だ。丈長のズボンを染め上げ地面にまで広がり染み込んだおびただしい量の血の跡から察するに、服の主はもう生きてはいないだろう。
流石にゾッとする。ズボンは右足の辺りが半ばから斜めに綺麗に切断されている。巨大で鋭利な刃物に一刀両断されたかのようだった。
緊張に体を強張らせ、そーっと周りを伺う。
が、森林の木立からはリス一匹現れず静かなものだ。恐るべき襲撃者は近くにいないらしい。
「これは第一次調査隊の……?」
「たぶんね。ズボンの中に官品の、つまり自衛隊で支給される手帳が入っていた」
永里の言う通り、ポケットを探ると手帳が入っていた。永里が持っているのと同じデザインの手帳だ。よく見れば血を吸って変色したズボンにも迷彩柄が見える。
状況を整理するに、彼あるいは彼女は鋭利なモノで片足を切断され、大量出血。服は自分で脱いだのか? それとも脱がされた?
自分で脱いで陽動用のマネキンか何かに使ったのかも知れない。はたまた人間が鳥の羽をむしって焼いて食べるように、別世界の生物に服を剥かれ食われてしまったのか。
どちらにせよ「死ぬほど」の目に遭ったのは確実だ。
「永里、この人を襲った何かの正体が分かるか?」
「ううん、心当たりが多すぎて分からないな。痕跡が古いし情報も少ない。絞り込めない」
「心当たりが多すぎる……?」
声が引きつった。
こんな事をする奴が、できる奴がうじゃうじゃいる?
新大陸は危険だらけというのは前々からしつこく言われていた。
第一次調査隊帰還率2%。文字通りの人外魔境。生きて戻れる可能性が極めて低い、史上有数の特級危険地帯。
しかし話に聞くのと実際に死の痕跡を見つけるのとではワケが違った。
新大陸に足を踏み入れる前に死にかけて、踏み入れた途端に先達の死の痕跡だ。この調子では十歩進むたびに死体の山が現れてしまう。
息がつまり、足が震える。
正直ビビッた。
「坊坂くん、近くでこれも見つけた」
俺が戦慄して愕然と突っ立っている内に、永里はおニューの服でせっせと周囲の探索をしたらしい。持ってきたひしゃげて変形したアサルトライフルに手をすべらせ検分する。
「手形。四本指、カギ爪付き。指の長さは――――成人男性の3倍、太さは2倍程度か。どうやら小動物の類にじゃれつかれたようだね」
「小動物にじゃれつかれた? これで!?」
「これで」
永里はなんでもなさそうに頷いた。俺には巨獣が凄まじい力で握りつぶしたようにしか見えない。
恐ろしい。
俺の中の臆病虫が眼前の生々しい恐怖を食って育ち、囁きはじめた。
ここで一度引き返したらどうだ? 冒険家として上陸は果たした。既に十分なアドベンチャーを味わい、戦利品だってある。世にも珍しいクジラの鱗、人智を超えたワープゲートを切り開く剣、天然の葉に貴重な砂。
既に危険は冒した。もう踏み入りすぎたぐらいだ。
更なるお宝を求めて冒険を続けてもこんな風に死んだら何にもならないじゃないか?
一度考え始めると止まらない。
波打ち際から霧を裂いて現れた揚陸艇から砂浜に乗り上げ、自衛隊員達が銃を構え警戒しつつ上陸してくるのが見える。
それを見て右足と左足が逃走と投降で喧嘩し動かなくなってしまった。
まだまだ冒険したい。
したいが、死にたくもない。上陸前に案内人がついた望外の幸運も果たしてどこまで続くか。幸運の揺り返しでポックリ頓死するのでは?
最悪だ。冒険計画を立てるのはあんなに楽しくて命を懸けているスリルさえワクワクに変えられたのに。
ここで引いておくか? まだ先に行くのか?
決心がつかない。
「坊坂くん、君は自衛隊から逃げているんじゃないのかい?」
「それは……」
少し遅れて追手の上陸に気付いた永里が鋭く注意を促してくる。
俺が先を見通せない森の奥のひっそりとした暗がりと、号令と共にきびきび揚陸艇から荷下ろししている自衛隊を見比べていると、永里は失望した溜息を吐いた。
「そうか、そうだね。いや無理は言わないよ。君は生まれつきの本物の冒険家だと思っていたけれど、冒険家だから命が惜しくないわけでもあるまい。引き返すなら私には止められない。ただ」
永里は使い物にならないアサルトライフルの残骸を後ろに放り捨て、語調を強め俺をまっすぐ見据えて続けた。
「この私が保証しよう。奥に行けば間違いなく君が今もっている物よりも遥かに価値のある、まさしく宝と呼ぶにふさわしい財宝の数々が手に入る。私はそこまで案内できる。君は私と違って色々な道具を使いこなせるから、一緒に来てくれると心強い。坊坂くんはいい人だしね」
そして永里は俺の手を握りしめ、熱を込めていった。
「私は君に是非ついて来て欲しい。君ならこの新大陸の最奥まで行けると信じている」
そして手を放し「決めるのは君だ」と言って森の奥へ歩き出す。
行くか戻るか、決断を迫られる。
俺は頭を掻いた。ひょっとしなくても人生の分岐点となるここで考える時間はあまりに少ない。何もしなければすぐに周辺の哨戒を始めた自衛隊に見つかり捕縛され、自動的に強制送還される。
しかし、まあ、なんだ。
迷ってる時点できっと答えは決まっていた。
生還率2%の新大陸にあの手この手で乗り込むという無茶をやらかした時点で日和るもクソもない。
俺は一人頷き、自分の無謀さに呆れながら浮かれた足取りで永里の背を追った。